第七章 おっさん、現実に直面す

 木曜日もやはり少年はやってきた。


 いつもの『会議室A』の入口で足を止め、ぺこり、と一礼すると、邪魔にならないよう静かな足取りで火曜と同じパイプ椅子に腰かけた。今日は自分でミネラルウォーターを購入してきたようだ。ぎし、というきしみと共に一口含む。


「さて、始めましょうか。本日もよろしくお願いします」

「はい」

「今日は何をやるんでしょうか?」


 私が問いかけると、龍ヶ峰さんは軽く頷き返した。


「座学にしましょう。以前、『異世界』と『召喚』について触れましたよね。では、その先の話をするとします。講師役は引き続き私、龍ヶ峰が務めさせていただきます」


 ほっとしたのと同時に、ちょっぴり残念な気持ちになった。龍ヶ峰さんの語り口調は非常に分かりやすく、きっとあの少年も暇を持て余さずに楽しめるだろうと思ったからだ。そして残念に思ったのは、もし練習試合だったのなら、少しくらいはあの少年の前で良い恰好を見せられるんじゃないか、個人的な体力づくりも様になってきたことだし、と思ったからである。


「――異世界にはどんな生き物がいると思いますか? あまりお詳しくない方もいるでしょうけれど、それはたとえるなら、剣と魔法、ファンタジーの世界に生きる生物たちです」


 そこでスライドが切り替わる――おっと、これは私でも分かるぞ。あれだ。オークという奴だ。何処から集めてきた物かは分からないが、リアルな写真。緑灰色の皮膚に、ずんぐりむっくりとした体躯たいく。豚に似た上向きの鼻の下にはへの字に歪められた口の端から獣のごとき犬歯がき出しになっていて、一丁前に革の鎧を纏い、手には刃こぼれした剣を握り締めている。


「これは、オークと言います。英国の著名なる作家、トールキンの『指輪物語』にも登場し、同名の映画や文献などで耳にした方もいるかと思います。彼らは一定の知能を有し、武装をして集団行動をしますので、初級冒険者にとっては難敵ですね。もし異世界へと召喚されたのであれば、まず初めに苦しめられる相手と言えるでしょう」


 またスライドが切り替わった。でも、これは――普通の動物じゃないのか?


「ただですね、正直に言うとオークなどの人間型の生物より厄介なのは、実は野生動物の方なのです。この写真は狼ですが……そうですね、北島さん、今の自分が狼に勝てると思いますか? いや、野生の犬や猫でもいいです。死に物狂いになった彼らに勝てると思いますか?」

「お、俺ですか? うーん、こっちに剣と盾があれば何とかなるんじゃないですかね」

「かもしれません。ですが――」


 しかし龍ヶ峰さんは片眉を吊り上げ、にやり、と微笑みを浮かべた。


「これに関しては、高名な空手家――そう、今最も勢力のある流派の創始者がこう言っていましたよ。いくら私でも本気で牙を剥いた猫には勝てない、刀一本持ってようやく対等、とね」

「うへぇ。それってあの人でしょ? 牛と素手で戦って、ぼこぼこにして倒したっていう」

「ですね。よくご存じで」


 確かに、ある意味真っ当な剣術が通用する相手の方が幾分楽なのかもしれない、などと私は考えていた。同じ腕二本、足二本であれば、ある程度は向こうの出方も想像できる。だが、相手が大地に四肢を張る野生動物ならどうか。動きはまるで予測がつかないだろうし、獰猛な牙だけでなく鋭い爪も立派な武器だ。身体は柔軟性に富み、跳躍力も素早さもおっさんのこちらとは比較にならない。うーん、勝てる気が全くしないぞ、これは。


「――ですからね、彼らに対しては、はなから戦って勝利しようなどとは思わないことです。ここで必要なのは我々人間の持つ知恵ですね。たとえば……寺崎さんならどうしますか?」

「え……! ええと、火! 火を起こして追い払うというのはどうでしょうか」

「いいですね! それは一つの有効な方法です。彼ら野生動物は火を恐れますからね」


 何だか私は、学生時代の友人が夢中になってやっていたTRPGを思い出していた。私には今一つルールと楽しみ方が理解できなかったのだが、今の龍ヶ峰さんのような会話の仕切り役がいて、彼の作った架空の設定の世界を、対話という形で冒険する、という知的な遊びだ。今まさに繰り広げられているのはそのTRPGみたいなものなのだろう。座学である筈なのに、実際に未知なる世界を冒険しているかのようで、妙にわくわくしてしまっている。


 ――が、そこで初めてあの少年が口を開いた。


「あの……その異世界召喚は、本当にできるものなんですか? やり方は分かるんですか?」


 すっかりこのサークル活動にも慣れ、少しばかり舞い上がっていた私にとってその一言は、いきなり頭の上からざぶりと冷水を浴びせかけられたようなものだった。




 ――いい歳した大人が集まって。

 ――そんなこと、現実にありっこないじゃないか。

 ――馬鹿々々しい。




 ふと、そんな風に聴こえてしまったのだ。

 だが、続く少年の科白で、それが的外れなものだったことが分かった。


「僕は……知りたいんです、その方法を。教えてくれますか、このサークルに入れば?」


 龍ヶ峰さんはすぐには答えず、静かな笑みを湛えたまま、目を細めた。


「ほう。さて君は、どうしてそれを知りたいのですか?」

「今の……この現実が嫌だから、です」

「できることなら逃げ出したい、そういう意味でしょうか?」

「……はい。そうです」




 しばし、『会議室A』は水を打ったかのように、しん……と静まり返った。




 やがて龍ヶ峰さんはゆっくりと首を振った。


「残念ですが、我々はその術を知りません。ご期待に沿えず申し訳ありません。ですが――」


 そこで言葉を切り、しっかりと少年と視線を合わせて微笑みながらこう告げる。


「ここでなら、君に生き残る術を教えて差し上げることができます。たとえそこが、どんな世界であろうとも。どんなに酷く、苦しい現実であろうとも。それならば……いかがですか?」



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