第五話 おっさん、悔し涙を流す

「行くよ、寺ちゃん。ほい!」

「は、はい! とと……うわわわ!」


 どすん!

 無様に尻餅しりもちをついた私を見下ろしている北島さんの丸顔は苦笑を浮かべていた。


「はぁ……駄目だよ、寺ちゃん。今のは避けるんじゃなくって受けないとさぁ」

「は、はい! 済みません!」

「謝んなくってもいいんだけどね。うーん、困っちゃったなあ」


 私は北島さんにとって初めての弟弟子だ。それなりに試合がこなせるようにと殺陣たてのセオリーを丁寧にレクチャーしてくれているのだが、いかんせん私の物覚えがよろしくない。


 いや、正確に言えば、頭では理解できていてもあまりに甘やかされすっかり怠けてしまっている身体の方が思考に追いついていないのである。言うなればアレだ。小学校の運動会で保護者参加のリレーをやった時に、張り切り過ぎて足がもつれて無様に転倒してしまうあの状態だ。


 さらに困ったのは、北島さんが頭を悩ませていたのが私の無様さに対してではなく、自分の教え方に問題があるのだろう、と思ってしまっている点だった。いっそ責めてくれれば少しは気が楽だったのだが、ひたすら自問自答しつつ、無精髭の浮いた顎をぽりぽりと済まなそうに掻いている。


「うーん……もっかい! もっかいやってみようよ、いいね、寺ちゃん!」

「は、はい! 済みません!」

「だから謝んなくっていいんだってば」


 怒られると反射的に謝ってしまう。

 そのたび北島さんは苦笑まじりに手を振った。


「同じ釜の飯を喰った……だろ? ここでは上下も何もないんだからさ。いくぞぅ!」

「はい! お願いします!」


 何度も何度も繰り返し基本動作を行う。

 斬り付け、受け、斬り返して、受けられる。


 かん!かん!と小気味いい音が徐々に一定のリズムを生み出してくると、私の動きのぎこちなさが若干消えてきた。嬉しそうに北島さんがペースを上げてくる。


「いいぞ、いいぞ! ほい! ほらっ!」

「た! は! ……はは……ははは!!」

「いいじゃない、寺ちゃん! その調子その調子!」


 初めて斬っては受けのやりとりが二〇回を越えた。

 これは凄い。自分でも驚きだ。知らずに笑いが込み上げてくる。


 ただ、その分、よれよれの身体を踏ん張って支えていた足がぐらつき始めた。あ――畜生、駄目だ、三〇回には届かなかった。辛うじて北島さんの剣戟けんげきを弾き反らした後、私はぺたりとその場にへたり込んでしまった。息が――上がっている。もう限界だ。


「初めてにしては上出来上出来! ほら、水分補給して一休みしててねー」

「あ……ありがとうございました……!」


 北島さんは私より七つ上の四十七歳だ。なのに、息が上がるどころか余裕すら感じられるじゃないか。今もスキップするような足取りで次に教える型の素振りをしているところだ。


 何というか――悔しい。


 さっきもそんなことを感じた。心の中でとはいえ、畜生、などという感情を抱いたのはいつ以来のことだろう。試合は明後日だ。少しはできるところを皆さんに――いや、仲間に見てもらいたい。




 そして、木曜日になった。

 詳しいことは言わない。いや、というより、言いたくない。




 全戦全敗――。


 あのチビ・デブ・ノッポの四十九歳トリオにすら、全く歯が立たなかった。というより、ほぼ自滅に近い。対戦者の華麗で巧みなフットワークに翻弄され、ふらふらの隙だらけになったところを、目一杯手加減された剣戟で、ちょこり、と脇腹を突かれて負けてしまったのだ。


 良いところなぞ何もない。

 挙句あげくには、余計な真似までして大恥を掻いてしまった。


「会長と……龍ヶ峰さんと戦いたいです。駄目ですか?」

「おっ! 舐められてるぜ、会長!」

「いいでしょう。では、私は盾なしで剣を二本使います。構いませんよね?」


 その後の顛末は言うまでもない。


 いっそ墓場まで持って行きたいくらいの酷い有様だった。見た目にそぐわぬ優雅な動きで踊り舞うように全身をくまなく突かれ、斬られ、改めて龍ヶ峰さんの凄さを目の当たりにしただけだった。やっぱりこの人は正体不明であり、別格だ。誰だ、老人だなどと言ったのは。


「まーまー。誰も馬鹿に何かしないからさ。これから。これからだよ、寺ちゃん!」

「はぁ……そんなものでしょうか……」

「悔しい、って久々に思ったろ? そう思ってる奴は強くなれる。約束するよ、俺が」


 私は、その時北島さんにした返事を覚えていない。






「ああああああああああああああああ!」


 その夜、私は風呂場で入浴中に大声を上げて、胸の奥に疼くもやもやを吐き出した。すると、何事かと大慌てでカミさんが風呂場に飛び込んできてしまった。


「ど、どうしたの!?」

「い、いや……何でもない! 大丈夫だ……うん」


 その日から、ジョギングと近所の公園での懸垂運動が私の夜の日課になった。




 勝ちたい――。

 いつの間にか私の心の片隅で、そんなちっぽけな感情が産声を上げていたのだった。



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