第二話 おっさん、見学をしてみる
業務報告書を手早く仕上げ、無事一九時半に会社を出た私は、そのままのイキオイであの公民館へと足を運んでいた。カミさんへは『少し遅くなると思う』とメールをしてある。
着いた頃には二〇時五分前だった。
この公民館は比較的新しく、設備も充実し、広く清潔で実に居心地が良い。小学校と併設されており、日中は学童保育も行っているらしい。そのエントランスに立てられたホワイトボートには、その日のサークルや地元グループの利用場所と時間が記されていた。私はそこにさりげなく目を向ける。
例のサークルは……あった。『大会議室A』を借りているようだ。
「さて……どうするか」
ここまで来てどうするもないのだが、少々気後れしていたのも事実だ。頭のおかしい変人揃いだったらどうしようだとか、怪しい新興宗教じみていても困るなあ、だとかいう考えもなくはなかった。少しでも気持ちを落ち着かせようと、トイレで念入りに用を足し、今度は小さめのミネラルウォーターを買ったところで時計の針は二〇時ちょうどを指していた。
行くか。
そろり、と階段を昇り、二階の一番奥まったところにある『大会議室A』へと向かう。
扉は開いていた。
「――という訳で、本日もよろしくお願いします」
「はい」
「やりましょっか」
数名の声が漏れ聞こえた。確かにおっさんたちの声だ。
と――油断していたところで背後から声を掛けられた。
「見学……してきませんか?」
「あ。ええ。はい」
見事に日焼けした赤いアロハシャツのおっさんだ。向こうもおっさんにおっさん呼ばわりされたくないだろうが、絵に描いたような少々髪の薄くなった丸いおっさん顔のその男の呼びかけに、つい反射的に頷いてしまった。こうなると後には引けない。背中をやんわりと押されるように揃って『大会議室A』へと入った。
「よっ、会長。この方、見学希望者みたいだから連れてきちゃった。構わねえよな?」
「もちろんですよ」
中央に立つ痩身のおっさん――いや、こちらはもう少しお上品に叔父様といった風情か――が目を細めて頷いた。いやに伸びた背筋と、やや刈り込み気味に緩やかに後頭部へと流れるロマンスグレーの髪がさまになっている。できることならこんな風に歳を取りたいものである。
「ようこそ、我らサークル『異世界召喚予備軍』へ。私は会長を務めております龍ヶ峰と言います。そう気を張らずに、そちらの椅子にでも腰かけて、気楽にご見学なさってください」
「は、はい。ありがとうございます」
「俺は北島ってんだ。知ってるだろ? 北島工務店――」
「ああ。駅前の」
「そそ。あそこの社長やってんの」
言うが早いか、赤いアロハシャツのおっさん改め北島さんが折り畳み式パイプ椅子の方へ連れて行ってくれる。北島工務店のある駅前は別の営業担当の管轄なので、私としては初見だ。それにしても社長とは……と少し面喰ってしまった。
「今日は、せっかく見学の方もいらっしゃいましたから、試合形式でもやりましょうか」
「よっし! この前のリベンジをさせてもらっちゃうぜ」
やけに気合い十分の北島さんの科白に何が始まるものかと見ていると、サークルメンバーの数名がシャツを脱ぎ、ぴたっとした黒い長袖のシャツとロングタイツに着替え始めた。そして次に、空手の練習試合で見るようなボディプロテクターと脛当て、そしてバイクのフルフェイスに似たヘッドガードにオープンフィンガータイプのグローブを次々に身に着けていく。何だか妙に物々しい扮装である。
ただ、次に出てきた物には少々驚いた。
木製の剣と盾である。
ふわり、と漂う香りから
「じゃ、やりますか? 俺っち一番で。指名は……岡ちゃんねー」
「またやんの? しつっこいなあ、北島さんは。また痛い目見るよ?」
「へへ。今日はそうはいきませんよ――」
他のメンバーが下がるや、前に進み出た二人が剣を身体の前で捧げ持って会釈をする。それが合図だった。
「ほい!」
「何の!」
かきん、かきん、と小気味いいリズムで剣と盾が、そしてまた別の剣と盾とが打ち鳴らされる。それを観ているだけなのに、一振りごとに私の中の何かが高揚していくのを感じていた。
「まるでチャンバラごっこみたいでしょう」
「ええ、まあ。でも、それとも少し違うように感じます。何というか……どきどきします」
いつの間にか会長の龍ヶ峰さんが隣に立ち、尋ねてきたので素直に感想を告げた。
すると、一層目を細めて頷いたのが分かる。
「似たような物に『スポーツチャンバラ』と言うのもありますが、あれより野蛮で危険でしょう? 実際、北島さんはスポチャンの方をやってたんですが、彼曰く、あれでは物足りないんだそうです。いえ、別に我々も、危険だからと好んでやっている訳ではないんですがね」
「他にはどういう活動をされているんですか?」
「そうですね――」
龍ヶ峰さんは少し考え込むような素振りで顎を撫でた。
「サークル名の基になっている『異世界召喚』という言葉についてどの程度ご存じですか?」
「し、正直に言いますと……あまり……」
「そうでしょう、そうでしょう」
良かった。機嫌良さそうに頷き返されてほっとする。
「文字どおりの意味です。ここではない別の世界に、自分の意志とは無関係に呼ばれてしまうことを意味しています。たとえばそこは、剣と魔法の世界……そうなった時に、今のご自分はどの程度のことができるか、想像できますか? ええと――」
「あ――寺崎です。寺崎正と言います」
まだ名乗ってもいなかったことを今更ながらに思い出し、慌てて告げた。
「そうですね……言葉は通じるんでしょうかね。食べ物だってあるかどうか分かりませんし、そもそもあったところで口に合うとか贅沢なことは言ってられませんよね。見たこともない動物や化物がいたら、一体どうしたら良いのか分かりません。生きるだけで必死でしょうね」
「あなたは生真面目な方ですね。答えからそれが分かります。実に良い」
龍ヶ峰さんは、そんな私の回答に少し驚いたように、嬉しそうに笑った。
「馬鹿々々しいと呆れる人もいるでしょう。いい歳をして子供じみた真似を、そう言って笑い飛ばす人もいると思います。……でも、あなたはそうしなかった。そして皆、子供の頃はそういう夢を見て、真剣に頭を悩ませ、一見無意味に思える日々の己の鍛錬に時間を惜しみなく費やした……違いますか?」
「ええ。確かにそうかもしれません。いや、そうだったと思います」
「それを我々――そう、世間で言う『おっさん』の私たちが馬鹿真面目に取り組むことに、このサークルの意義があるのです。未開の土地で生き残る術を身につけ、未知なる生物から身を守る技術を磨き、心身を健やかに鍛える……それも、いつ来るかも、ずっと来ないかもしれない日の為に備えてね。どうです? わくわくして、くすぐったくて面白いと思いませんか?」
思ってしまった。
龍ヶ峰さんのまっすぐな視線に迷わず頷いている自分がそこにいた。
「今日は気が済むまで見学していってください。そして、興味があれば木曜も、また」
龍ヶ峰さんはもう一度微笑むとそう言ったのであった。
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