雨音に恋おもう

水居舞

雨音に恋おもう

 また雨が強くなったようだった。さっきまでは小雨程度だったのに、今は耳障りな音が一段と大きくなってまわりの音を消してゆく。

 彼の唇がゆっくり動く。

 雨音のせいで声は聴こえなかったけれど、彼が何を言いたいのか分かってしまった。


 ご、

 め、

 ん。


 たとえ予想していた答えでも、頭が真っ白になるものなんだ、とやけに冷静な声が頭の中で響いた。

 どうしてですか? と知らず知らずのうちに言葉がするりと出た。困ったように眉根を寄せていた彼は、それでも私の質問に答えてくれた。

 好きな人がいるから、と今度は届いてきた声は頭の中に入ってこなかった。

 雨垂れのこだまする放課後の渡り廊下の途中で、二人きり。

 誠実に答えてくれた彼に気の利いた言葉を返せない自分にだんだんと居たたまれなくなっていく。そのまま彼に背を向けて一目散に雨の中に駆け出た。

 背後で彼が何か言っていたけれど、今は早くここから逃げ出したかった。 傘を取りに行くことを思いつくこともできず制服には雨粒が染み込んでゆく。

 夢中で走るその頬を伝う雫は雨なのか、涙なのかよく分からなかった。

 その日が初めての告白の日にして、初めての失恋の日だった。

 その日から雨の音は私の大嫌いな音になった。


「桐子、何ふてくされてんの?」

「別に」

 突き合わせた机の上に色とりどりの弁当箱が広がる昼休み。

 向こうの空模様に気を取られていた桐子はふいに話しかけられてそっけなく返事を返す。

「あー千花。聞くだけむだむだ。桐子ってば雨の日はいっつもこうなんだから」

 そう千花に説明する奈津を横目で見やると、雲の立ち込める外へまた視線をやった。

 今は五月の中旬。梅雨入りにはまだ早いが、これからますます雨の降る日が多くなっていくだろう。桐子にとっては何とも憂鬱な日々が続くことになる。

 窓の外から聞こえてくる雨音は、ごく控えめなものだったが、それでも桐子の気分を害するのには十分だった。

「それでさ……桐子?」

 突然奈津から話を振られて、桐子は現実に引き戻される。

「ああ、何?」

「もう。折角人が話してるのに、反応薄いなあ」

 友人に呆れた目で見られ、会話に参加するために少しだけ身を乗り出す。

「ごめんってば。それで何の話してたんだっけ?」

「ほんとになにも聞いてないんだから。ね、明日の土曜日、暇?」

「暇だけど。何かあったっけ?」

 すると奈津は両手を合わせて、桐子を拝む。

「桐子さま、ものは相談なんですが、明日あたしに付き合ってくれない? 土曜に隆平先輩の試合があるんだけど、一人じゃ行きづらくてさあ」

 隆平先輩とはつい最近できた奈津の彼氏のことだった。桐子たちより一つ上の高校三年生。彼について桐子が知っているのはその程度である。

「あのねえ。小学生じゃないんだから。それに、私じゃなくて千花を誘えば?」

 何か深刻な話かと思えばただの付き添いの依頼で、拍子抜けした。

 予定がないのは事実だが、だからと言って心惹かれる提案でもない。空っぽになった弁当箱を包んでしまいこみながら、桐子は抵抗を試みる。

「千花は明日用事があるから駄目なんだって。ね、お願い。桐子にしか頼めないの」

 奈津は分かったと返事をするまで引き下がらないつもりらしい。そばで千花も苦笑していた。引き受けてあげてよ、と目が語っている。これで桐子は肯定しか出来なくなった。

「分かったわよ。行けばいいんでしょ、行けば。で、その隆平先輩は何部な訳?」

「あ、知らなかったっけ。剣道部」

 結構強いんだよ、とまるで自分のことのように自慢げに胸を張る奈津。

 しかしその弾んだ声は桐子には届かず、彼女は咄嗟に承諾したことを後悔していた。

 何故なら。

 あの雨の日の「彼」もまた、この学校の剣道部の三年生だったからだ。

 苦い記憶と共に、遠のいていた音がことさら強く聞こえた気がした。



「一本!!」

 小気味よい音が会場に響いたと思ったら、一瞬の静寂は歓声に取って代わられた。

 音の洪水のようなうねりを否応なしに浴びる。

 件の奈津の彼氏は、先鋒だった。先鋒は敵の出鼻を挫く大事なポジションだったはず。それを務めるとなると、奈津ののろけ話はあながち嘘でもないらしい。

 そんなとりとめのないことしか考えられなかった。

 今の桐子には奈津の喜ぶ声も、まわりの興奮も遠かった。ただ一点を見つめている。大将として控えている彼を。

 目の前の試合に集中しているからだろうか、彼が人混みに目を向けることはなかったが、桐子は目を離せなかった。

 今になって思い出せば、彼を好きになったのは彼の試合を見てからだった。あの時、この場所で一年前の彼は本当に堂々と颯爽としていたから。好きになるのにそう時間はかからなかった。

 好きになったから、その気持ちを告げずには居られなくて、あの日の結末を迎えることになった。

 あの日の思いは雨の音がするたびに蘇り、いつまでも昇華できずに胸の内でわだかまっている。

 あれこれと思いを巡らせているうちに、やがて彼の出番が来る。その登場でその場の雰囲気が変わった。

 再びの静謐さで場を支配して、彼の戦いの幕が厳かに開ける。



「ね、すごかったね! 桐子」

「うん、そうだね」

 奈津は試合が終わってからもずっと興奮していて、桐子は苦笑するしかなかった。

 まだら模様の空の下、二人は立ち話をしている。

「隆平先輩が勝って嬉しかったなあ!  鳴海先輩もすごかったよねえ。相手をあっという間に倒しちゃうんだもん」

 突然「彼」の名前を出されて、桐子の肩がぴくりと震える。が、奈津はそれに気付かなかった。だから桐子も普通に応じた。

「……本当にそうだったね」

「ああ、隆平先輩かっこよかったなあ。こう、竹刀をバーンとさ!」

 奈津は一人でうんうんとうなずいていて、話題は尽きないようだ。このままでいると、延々とのろけ話を聞かされることになりそうだった。

 そろそろ退散しようかと思った矢先、剣道部の面々がぞろぞろと出てきた。そして待ちかまえていた人ごみに囲まれている。

「あっ、隆平先輩だ。じゃあ、桐子またね! 今日はありがとう!」

 愛しの先輩の姿を見つけて、奈津は小走りに駆けていった。ある意味薄情な彼女に少し笑いながら、その背を見送る。

 奈津が加わったその輪の中には無論彼もいる。彼は楽しそうに笑っていた。ここで見つめても意味がないと思うのについ目が追ってしまう。

 桐子が目を逸らせずにいるうちに、彼の視線がある一点で止まる。彼の顔がさらに綻んだ。

 そしてそのまま軽快な足取りで輪から抜け出す。

 向かった先にいたのは一人の少女だった。歳は桐子たちと変わらないくらいに見えた。

 長くて黒い髪をした彼女は、大人びた雰囲気と落ち着いた佇まいを纏い、彼に優しく微笑んでいた。

 綺麗な人だ、と桐子は思った。

 そして彼女は、

 彼の隣にいることが、誰より何より似合っていた。

 理屈ではなく直感でそう理解できた。

 それだけで彼女が何者なのか解ってしまった。

 声は聞こえなくても明るい表情と破顔する様子からその会話が聞こえてくるようだ。

 後ろで後輩の誰かが冷やかしている。でも、彼も彼女も幸せそうに笑っていて。

 一人離れた場所にいる桐子は彼女について特に何も感じなかった。あの人が彼の言っていた人なんだ、と漠然と思っただけだ。

 不思議だった。

 彼女を目の前にしたら悔しいだとか、憎らしいだとか、そういう感情を持つと思っていたのに。

 桐子の頬に雫が一粒落ちた。と思ったら、にわかに雨が降ってくる。それは穏やかに静かに桐子たちに降り注いだ。

 桐子以外は、慌てて建物の軒に避難したり、傘を取り出したりしている。あの二人も揃って試合会場まで戻っている。

 桐子は傘を持っていない。でも、かといっていつ止むかも分からない雨に期待して、この場で雨宿りをするのは気が進まなかった。

 奈津が軒下で何か言いながら手招きをしているが、桐子は笑顔で手を振り返して彼らに背を向ける。

 桐子は降り注ぐ水滴を肌で感じながら、急ぐこともなく歩いていた。最寄り駅までの道すがら、考えるのは先程の奇妙な感覚のこと。

 どうして自分はあの時穏やかでいられたのだろう。

 二人があまりに幸せそうだったから、拍子抜けしたのだろうか。

 思えば、と桐子はあえて考えることを避けていたあの時のことを思い出す。

 あの告白が苦い記憶として残り続けたのは、きっと、自分の気持ちを受け入れてもらえなくて悲しかったから。

 桐子の「好き」は恋になるには少し幼くて、憧れという言葉の方が近かったのかもしれない。

 今日あの二人を見て、誰かに恋するってああいうことなのかもと思えたから、一歩だけ大人になれた気がした。

 ずっと、彼に「好きな人」がいることを諦める理由にできなかったけれど、やっと今桐子はこう思える。

 たとえ、彼女の代わりに私が彼の隣に居ても、きっと彼女ほど似合うことはないだろう、と。

(こんなに簡単なことだったんだ)

 頑なだった気持ちがいともたやすく解けていく。

 そう言えば、大嫌いだったはずの雨の音も、いつのまにか心地よささえ感じていることに気づいた。

 昨日までの憂鬱さからは考えられないくらい、爽快だった。

 そこかしこに作られた水たまりを桐子は軽やかに飛び越える。

「あーあ、私って単純だなぁ」

 誰に聞かせることもない独り言は、空の色とは裏腹に晴れやかだ。


(その人の隣が自分の居場所だって、そう思える日がいつか、私にも来るといいな)


 しとしとと降る音に耳を傾けながら、桐子は雨の中を往く。

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