黒い腕 前編 -⑵

  絡めとられた蝶が落ちる

  鮮やかな翼を広げていた

  鏡の中で、罪とは知らず、手を伸ばした

  すると、黒い腕の暴食が、わたしをあざ笑う のです

  神さまが言います 良い子にしていなさい

  ああ、なんて残酷な

  こんな想い、知りたくなかった

  繋がられたことのない指先が、寒さで震えました

  凍えてしまいそうな孤独に、耐えられませんでした

  痛くて 辛くて 悲しくて

  誰か、この手を握って

  わたしを抱きしめて―――


  わたしの、ただ一つの臨み


  どうか、叶いませんように―――



                /第一章「黒い腕 前編」


 ◇◇◇



  五月二十日


 「赤無あかむ市」───。

 人々はその場所を〝奇妙な街〟と呼んでいた。

 莫大な負債を背負った戦後の日本に必然的として訪れた不況に対し、周辺の町村を半ば取り込む形で合併を繰り返し、独自の発展を遂げた異端の都市。

 現在においては日本三大都市に並ぶほど都会化が進み、見上げた先には青空よりも高層ビルが立ち並び、月灯りが霞む不夜のネオンが眼下に広がっている。

 油田事業拡大を図る海岸から積み重ねられた埋立地は今もなお太平洋へと伸び続け、行き交う貿易船は後を絶たない。総人口十万人の、実に2%が国籍を他所に置いている事実も相まって、東京に次ぐ国内最大の国際都市グローバルシティである側面も持ち合わせている。


 そんな世界が注目する大都市を、人々はなぜ〝奇妙な街〟と感じたのか。


 それは「噂」である。

 誰しもというわけではないが、大概の人間は、現実とは遥か彼方に籍を置く非現実的な与太話を好む。嘘か真か、その判断はどうでもいい。その酔狂な話を能動的かつ受動的に介した時、自分が自分ではなくなるような解離性のある感覚に酔いしれ、つまらない現実を忘れさせてくれるのだ。

 一種の依存性に長けた麻薬のような甘い香りだ。

 人はそれに容易くとりこになった。一時的な逃避行他ならなくとも、その甘味を覚えた舌先が非現実という飴玉を無意識のうちに口の中で転がした。科学という人類が積み重ねてきた叡智を忘れ、人間の思慮に及ばない得体の知れない何かを心の底から欲し、時には酒の肴として嘲笑った。

 所詮は娯楽の一つだ。止めるものは誰もいない。


 だからこそ、「赤無市」に蔓延る「噂」はタチが悪かった。

 それは世にも恐ろしい怪物であったり。

 それは怪しい宗教団体の儀式サバトであったり。

 それは見知らぬ隣人の狂気の沙汰であったり。

 あるいは、世界そのものを飲み込む巨大な闇の中心地となることもあった。


 くだらないと笑い飛ばせてしまう虚実ばかりが様々なメディアを通じて有象無象が欲する非日常へと辿り着く。誰もが馬鹿らしいと失笑し、つまらないと吐き捨てるにも関わらず、どこか一つだけ混じった現実味が冷たい口の中でじわりと広がり続ける。

 それは度重なる奇怪な事件であったり。

 年々増え続ける行方不明者であったり。

 あるいは、夢幻の類だと言い聞かせた自身の経験であったり。


 甘くて、とろけてしまいそうな恐ろしい甘美が───。


 人の心をいとも容易く狂わせる。



 ◇◇◇

  


 第一試合ファーストラウンド。鐘は鳴らずとも、火花は散る。


 地に宇宙が広がっていた。黄金の蝶が羽ばたいて、傾いた信号機が赤を灯した。ヨーソロー、ヨーソロー。無邪気な電波を流すラジオが煙を吐いた。

 横断歩道の真ん中で隣人たちが枷を外そうともがき苦しんでいた。虚無をあらわす白紙の空には、怒り狂った人影がナイフを手に、ぼんやりと浮かんでいた。逆さになったステレオテレビの画面に映るのは、砂嵐に混ざる罪人の懺悔と吐瀉物ばかりだ。

 彼は独房の中で、それらを傍観しながら椅子に座り待っていた。錆びた鉄格子は半ばで折れていて、枷の鎖は千切れていた。それでも彼は旅立とうとは思わなかった。


 なぜなら、これは夢だと知っていたから。


 夢が醒めるまで、ここで待とう。彼の思惑とは裏腹に、床の宇宙を突き抜けて、目を疑うほどの威圧的大きさを誇る鳥居が現れた。仮初めの無音を好む世界に不気味な笛の音色が鳴り響く。耳障りな雑音だった。

 門の奥から気前の良い顔をした少年が手を振ってきた。彼は何となく手を振り返した。


 ヒドい顔をしているね。役に立たない格子をまたいで少年は彼にそう告げた。

 余計なお世話だ。彼は腫れた顔を隠すように背けた。彼はいつだって夢の中で傷ついていた。少年は楽しそうに笑った。

 この夢は危うい。墜ちている。真っ逆さまだ。今もなお、深みを彷徨って沈んでいるんだよ。ほら、あの門の先にはね、神さまが眠っているんだ。地下うん千万階下のフロアで鼻をほじって寝ていやがるんだ。このままだと神さまに寝起きドッキリコース一直線だ。

 少年はペラペラと勝手に喋った。彼は適当に聞き流していた。どうせ、これも夢なのだ。


 そうさ、総ては夢さ。儚いだろう。虚しいだろう。でもね、閉じた瞳が視る白痴の世界だからこそ、愉しまないとダメなんだ。ここは君の夢なんだから、行き先は君が決めるんだよ。

 少年の目線の先には、彼の手に力なく握られた賽子さいころがあった。少年の期待の眼差しを向けられ、彼は面倒くさそうに片手で賽子を振り始めた。

 振ってくれるのかい。少年の嬉しそうな顔に、彼は唾を吐き捨てるように言った。


 おまえが消えるなら、振るよ。


 無気力に投げられた賽の目は、引き寄せられるように宇宙の地平の彼方へ鎮んでいった。少年は冷たい目で彼を罵った。つまらない男だ。その先には神さまが待つんだよ。愚かだぞ。実にくだらない。

 彼は笑った。そうして、やっと重たい腰を上げたのだった。


 ちょうどいいや。ガキの頃から、神さまってやつを一発ブン殴りたかったんだ。


 少年は言った。君のこと、嫌いだよ。

 彼は言った。うっせぇばーか。俺も嫌いだ。

 二人は見つめ合った。痣が目立つ彼の歪んだ顔は、少年の恐ろしい無貌を睨みつけた。虚無を象る深淵は彼の瞳に宿りながら、その無限の闇で精神すら覆い隠さんと嘲笑う。


 だが、彼は臆することなく睨みつけた。その闇の深さを理解していないから。世界の真実を未だ知らないから。あるいは、彼にとって、それは恐怖に満たない虚勢に見えたから。

 神の代弁者メッセンジャーたる少年が嘲る笑みを不快に歪めた時、夢の世界は唐突な終わりを迎えた。最後に少年が、これは賭けだ、と賽の目を振る音だけが響き、彼は目覚めることになった。

 意識が現実と繋ぎ合わされた時、彼の記憶に夢の出来事は残ってはいなかった。所詮はそう、夢なのだから。


 こうして、藤宮ふじみやけいは浅い眠りから覚め、夢の中で知らない何者かに喧嘩を売ったことにより、このどうしようもなく馬鹿げた〝恐れを知らない男ドレッドノウト〟の戦いの物語は始まりを告げる。

 それは時にして、春が過ぎた心地よい風がそよいでいた日の終わりごろ、少年の残酷な挫折から始まった。



「ホントだって」


「そんな話、有り得ないじゃん」


「これはマジだよ」


 彼が目醒めた場所は、走る電車の柔らかな座席の上だった。膝が当たりそうな位置から吊革に掴まる男女の話し声が聞こえる。微かに汗ばんだ空気が車内の満員の具合をひしひしと伝えていた。

 眠り呆けていたことに気づいた彼は、二度寝の誘惑を断ち切るため、元より乏しかった恥じらいを捨てて大きな欠伸を放った。


「西口のさ、トンネルあんじゃん。横に焼き鳥屋と不動産があって、その奥にコンビニがあるトコ」


「嘘でしょ。あそこ通学路なんだけど、最悪」


 若い男女の話し声が薄っすらと耳に入った。内緒話でもしているようなヒソヒソ声は、それとない雰囲気でしかない。

 目頭を押さえながら、寝心地の悪かった旅路に毒を吐く内心、彼こと藤宮景は未だ半覚醒の意識を叩き起こすため、浅い記憶を辿っていた。

 もう敷居を跨ぐことのない我が家を一人旅立った今朝。何をキレたか、妹から理不尽な外角高めのフックという餞別を腹に抱えて、猫背気味に乗り込んだ引っ越し先である「赤無」方面へ運んでくれる快速電車。そこから数回電車を乗り継ぎ、途中、父に強引に渡されたおにぎりを食べ、腹を壊し、トイレで死にそうになりながら、具の焼き鮭が腐っていたのだと気づくアクシデントに見舞われながら、やっと最後の乗り換えで、隅っこの席に丸くなるように座って、赤ん坊が母の温かな胸で静かに眠るような驚きの速さで瞼を閉じてしまった。よほど疲れが溜まっていたらしい。

 イヤホンから流れていたはずの数世代前のロックンロールが艶めかしい歌声のバラードに変わっていた。反抗期の妹から支給品として頂いた音楽プレイヤーなので妹の趣味だろう。二発目の欠伸を誘発した緩やかなリズムには聞き覚えがなかった。


「そんで見たんだよ、バケモノを。おぞましく笑う悪魔の形相を……!」


「ただの不審者じゃないの」


 趣味の合わない曲を止めた景は、耳栓代わりにイヤホンを挿したまま、外の音に耳を傾けた。

 ガタンゴトンとしか言い表せない電車の足音。呼吸するお腹のような緩やかに揺れる車内。そして、乗客の喧騒と寝息。

 端の座席を陣取った彼の隣では、熱気を帯びた作りたての蒸し饅頭の如く太ったサラリーマンが寝息を立てていた。末端の席である景は今にも押し出されそうな態勢である。これがボクシングならタオルを投げてくれと叫んでいただろう。それぐらいに窮屈だ。

 ちらりと横を見回すと誰もが肩身が狭そうにしていたが、景より悲惨なプレスを食らっている乗客はいなかった。


 彼が夢の中にいた間に混み合ってきたのだろう。車内では多くの乗客が吊革に掴まっていた。景の前にも前述の通り若い男女が立っており、先程から他愛もない談笑を続けている。

 目隠しアイマスク代わりに顔上に伏せていたひしゃげた帽子を被り直し、心許ない視界を確保しておく。


「いや、でも、友達の友達の知り合いも見たんだよ。確か、西区のオフィス街を抜けた先にあるビデオレンタル屋と自転車屋の裏路地辺りだったはず」


 訝しげな女に対し、気の弱そうな男が必死に語っている姿が帽子ワークキャップのつばの下から見えた。友達同士なのだろうが、その風景は下手くそなナンパと変わらない。

 十七歳である景と同じぐらいの年齢だと推定できる。聞き耳いらずで勝手に流れ込んでくる学生の話を半ば呆れて聴きながら、彼は腕時計を確かめた。


 午後七時過ぎ───当電車が向かっている「赤無駅」まで定刻通りなら後五分もしない内に到着する。それとは別に、一時間近く寝ていた事実に景は妙な納得を覚えた。それだけ寝ていれば、サラリーマンだって枕欲しさに頭を預けたりするだろう。とはいえ、肩がそろそろ痺れて辛いことに変わりはない。タオルはいつ投げてくれるのだろうか。


「その人、もう赤の他人じゃん。信じられないよ」


「誰が見たのかなんて重要じゃないだろ。大事なのは何を見たのか、でしょ」


「バケモノなんて信じられない」


「じゃあ、もう一個の方」


「もう一個って〝黄金の目を持つ魔女〟?」


「そうそう。歳は十二三歳で、とんがり帽子を被ってる。全身ミイラみたいに包帯でぐるぐる巻き。そんで左目が金色に光ってるんだって」


(へぇ、そんなのが居るのか)


 半ば感心しながら、彼は頭の中でその魔女を想像してみた。なるほど、確かに不気味だ。夜中に出くわしたものなら、その場で失神するかもしれない。小さな女の子という点が怖さを際立たせている。

 景は小学生の頃、トイレの花子さんを本気で信じていた口だった。無論、男子トイレには出現しないが、足が勝手に三番目なる個室を避けていた。後々、彼の小学校では噂そのものが不在であることが分かって、それから、むしろ積極的に三番目に入ることが多くなった。三番目だけ和式であったにも関わらず、腹を下した時は必ず入った。

 景にとって、それは散々脅かされた仕返しのような行動であった。当時の彼は、居ようが居まいが、何処かにそれが在ることだけは信じていたのだ。勿論、今は違うと思いたいが。


「へぇ。それで?」


「それでって、それだけなんだけど」


「襲ってきたりしないの?」


「しないよ。それだけ」


「ふーん。あっそ」


 吊革を掴みながら必死に語る男につい溜め息を溢す女。明らかに興味のない顔だった。

 たしかに男の奇妙な話は出所不明の根も葉もない「噂」に過ぎない。振り回されるなら、もう少し信憑性がある衝撃パンチが効いた作り話ウワサの方がいいだろう。

 そもそも居たとしても何だと言うのか。物騒な都市伝説よろしく襲いかかったり、呪われたりもしないのか。

 怪談めいた噂の大概は目撃者の不幸が待っている。見たら呪われる。出会えば殺される。理不尽極まりない不幸バッドエンドばかりだ。好奇心だけでなく、そういう恐怖心が合わさった方が人は興味が唆られるらしい。人畜無害はスリルに欠ける。酒の肴にすらならない。


 ───ちなみに、彼はそういう怖い話やオカルト全般は今も好きではない。信じるか否か以前に嫌いである。人間は未知のものに対して無力だとか、餌でしかないだとか言われるのが何となく癪に触った。せめて、ちゃんと戦ってから言い張ってほしいというのが彼の馬鹿みたいな意見だった。


「え。あれ、興味無さげな感じ?」


 なんとか気を引こうとする男は、女がスマホを弄り出したのを境目に次々と新たな話題を持ちかけた。少々がっつき過ぎのように思えるのは果たして、傍聴者である景だけだろうか。


「えーと、最近話題の秘密の新興宗教の話はどう」


「興味ないから、いい」


「なら、一昨日美術館から盗まれたっていう聖遺物とかいう」


「それレプリカなんでしょ。どうでもいいよ」


 肩を落とす男。景は聞いているだけで罪悪感なるものが湧いてきた。せめて、心の中でエールを送ろう。男よ、挫けるな。

 部外者である景からしてみれば、是非とも聞いてみたい衝動に駆られる話題の数々であったことには違いない。彼は引っ越し先の赤無市の事情に関して全くの無知である。どんなものでも情報は欲しい。しかし、いきなり見ず知らずの男女に話しかける勇気は持ち合わせていない。黙って傍聴を決め込む。


(なんか、ワルいことしてるみてぇよな)


 やっていることは盗み聞きだ。歯痒い気持ちに景が苛まれた頃、男の方が閃いたと言わんばかりに手を叩いた。公共の場とはいえ、乗客のほとんどが液晶が放つ光に夢中のご時世である。誰も気にも留めなかった。


「じゃ、じゃあ、この赤無市にちょっとした有名人が引っ越してくることは知ってる?」


 女のフリックしていた指が止まる。この手の話題は女性にとっては気にせざる得ない「噂」というより「話題」であろう。液晶の画面から目を離し首を傾げた。


「……知らない。誰なの?」


「ちょっと前、ニュースで話題になってた喧嘩番長だよ。メチャクチャ強くて、ヤクザにも喧嘩売ってたって人。そんでつけられた名前が『厄病神』」


「ぶッ!」


 思わず景はせた。突然の外野からの容赦ないパンチに焦りが顔に出た。男女の視線が集まる。口笛でも吹きたい気分になりながら、気休め程度に帽子を深めに被る。

 やがて、何事もなかったように二人は変わらず会話を続けた。安堵の吐息も慰めにはならず、苛立ちが膝の上に握り拳を作った。早く話題が変わることを期待するも、女の方が完全に食いついてしまった。これはもうどうしようもない。


「ああ。たしか殺しちゃったんだよね。正当防衛かなんかで起訴されてなかったけど」


「被害者から危ないクスリの反応出てきて色々とあったっぽいよ。まあ、本人は晴れて退学処分。保護観察にもなっちゃって、それで水淵に転校してくるってワケ」


「やだ、水淵学園ウチに殺人犯が来んの。こわーい」


「同じクラスにならないことを祈るばかりだよまったく。……名前は何だっけな。調べるか───」


 電車がカーブを曲がり車内が少し揺れる。吊革から手を離していた女がバランスを崩し、反射的に手摺りを掴むが、景の足先を踏んでしまった。

 痛くはない。気にもしない。微動だにしない景は無心で座っていた。


「あっ、すいません」


 直ぐ女は謝った。文句など言うはずがない。いちゃもんを吹っかける気もさらさらない。むしろ、会釈ぐらい返して然るべきだろう。

 ただ、今の彼にはできなかった。したくなかった。厳密にいうと顔を見せたくなかったのだ。藤宮景という男の顔を。

 そっと帽子を下げて顔を隠す。もう何も見えない。自分の表情は分からないが、生まれつき眼つきが狂犬のようだと言われてきた顔は今や鬼のように歪んでいるに違いない。


「てかさ、なんで少年院じゃないの? そーゆー不良は入れるトコ入れとかないと、社会の邪魔になんじゃん」


 吐き捨てられた言葉にも知らない素振りを貫く。気を紛らわせようと頭上の網棚に置いてあった荷物の中から缶コーヒーを手に取った。

 彼は一気に煽るように飲み干した。本当なら煙草を吸って現実逃避に浸りたい気分だっが、無糖のカフェインが頭をすっきりさせてくれるので今は我慢する。


「殺された相手も相手だからなぁ。おっと、こいつだこいつ」


 男がスマホで検索を終えたらしく女にニュースサイトのある記事を見せた。

 記事名は『厄病神と呼ばれた暴力少年の実状!』と書かれ、SNS《ソーシャルネットワーク》という近代最大の触媒を通じて拡散された跡がページの端に残っていた。コメント欄は誹謗中傷に溢れていた。

 記者が命がけで撮ったであろう殺伐とした殴り合いの写真が数枚貼られた記事には、背後から屈強な男に雁字搦がんじがらめにされながら、金属バットを持った別の男を殴り飛ばす、怒涛の剣幕を振りまく少年が写っていた。そして、彼は帽子ワークキャップを被っていた。

 ちらちらと写真にオーブのような赤い点々が走っているのは間違いではない。身動きが取れないないはずの少年が獣の如く獰猛に殴りかかる戦慄とした光景は、如何に写真であれ、その気迫に恐怖を感じずにはいられない。人もここまで来れば、狂気である。───と、人気コメンテーターが感想を漏らしていた記憶が彼にあった。

 女もそんな記憶があったのか「これ、テレビで見たことある」と頷いている。


「最悪の『厄病神』───『藤宮ふじみやけい』。こいつの周りには暴力と死が付き纏っている。初めてしょっ引かれたのは小学二年。中学生相手に大怪我を負わせたらしいよ。それから何度も怪我人を出してる問題児。今まで病院送りにされた数は四十一人。もっといるって噂もある。

 まさに、暴力という災禍を振り撒く厄病神だよこいつは。こんなのが学校に来たら勉強なんてできないね」


「むしろ、こいつ何で生きてんのかな。死んだ方が社会のためだよね───」


 その時、ガシャンと音が鳴った。

 握力に任せて握り潰されたコーヒーの空き缶。すっかり凹んで飲み口が真横にお辞儀してしまった。

 やってしまった。コントロールが効かない自分に後悔した。彼は沸点が低い。頭の中では落ち着こうとしているのだが、どうも無意識に身体が動いてしまう。今回はまだマシだ。矛先が無機物で良かったと思う。『厄病神』たる所以の一つとして数えられる怒りの発散口たる暴力は、その怒りの原因に叩き落とされるのが常だ。

 安い喧嘩を売られ、お釣りが返るほど高値で喧嘩を買った。だが、今はそれが出来ない。観察対象の景は喧嘩を禁じられている。

 周りからの視線が痛い。だが、もう気にも留めない。己の中にある狂気の怒りを鎮めることで手一杯だった。


 帽子のつばをゆっくりと上げる。


 目と目が合った。最初に女。次に男。

 しばらくして、若人らしい爛々とした瞳がぎょっとし、徐々に嘆かわしい潤いを得る。肩をわなわなと震わせ、金魚のような口で分かり易く狼狽する。鏡となってしまったスマホの画面を何度も確認して、涙目を懸命に擦るものの、現実は一向に変わらない。目の前にいるのは『厄病神』こと藤宮景その人に違いないのだから。


「ぅ……うそ……」


 景は渓谷の如く深い眉間の皺を緩めず、何も語らず、無言の圧力で男女を見上げていた。すると、虎にでも睨まれたように動けなくなった二人は、乱れた呼吸が零れ、声も碌に出せない状況に嘆き悲しみ、ただ、この恐怖を処理できずに泣いていた。

 隣で二席分はあるだろう太ったサラリーマンが爆睡しているせいか、他の乗客は景の正体に気づくはずもない。故に、景は静かな怒りを示したのだ。


 間違いない。こいつは藤宮景だ。あの厄病神で殺人犯の藤宮景だ。───怪物と出くわしてしまったような怯えた目が刺さる。ああ、慣れっこだ。むしろ、親しんだ感覚に安堵すら覚える。


「あ、ああの……その……」


 噂をすればなんとやらと言うが、目の前に本人が現れるなど誰が想像できようか。本人である景すら想像できない。きっと頭は真っ白になるだろう。

 男は半笑いになりながら静かに後ずさる。女性は放心状態でその場から動けないが、釈明か、弁明か、あるいは許しを請うのか、何かを発声しようと自分の中の恐怖心と戦っていた。


 彼は小さく舌打ちをしてから帽子を深々と被り直す。もう構うなという意思表示でもあった。思いが届いてくれるとは、微塵も期待はしていなかった。

 しばらくしても視線が離れないので、隣で爆睡中のサラリーマンの邪魔にならないように後ろの車窓を眺めて気を紛らわす。既にここは彼にとって、未知の巣窟たる新天地であるはずだ。


 月が昇っていた。今日は満月だった。彼も知る夜の星空。

 だが、そこはもう藤宮景が知る風景ではない。細長い建造物が背丈を競い合う、不夜城めいた都会の一端。月の光を物ともしないネオンの光と奥にほっそりと輝く海面の鏡花水月が異質な対比を繰り返す。真ん中に佇む巨大なビルは天にまで手を伸ばしているようで滑稽に見えた。

 美しい夜景が広がっていた。奇妙なまでに煌びやかな光の泡が奥の奥までじっくりと。


『本日もご利用ありがとうございます。長らくお待たせしました。終電『赤無』『赤無』です。お忘れ物のないようにご注意ください』


 「赤無市」───今日から俺が暮らす街。

 予想はしていたが、清々しい気持ちにはなれそうにない。くだらない「噂」も鬱憤ばかりを積もらせるばかりだ。

 よもや、自分自身が「噂」になろうとは考えもしなかったが。

 殺人鬼・藤宮景は網棚から鞄を下ろし、固く閉ざされた扉が開かれる時を静かに待ち侘びた。肩の痺れはもう、しなかった。

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