水面下

鱒子 哉

第1話

一週間のうちで、この曜日の帰りの電車が一番混沌としている。

 酒を飲んで顔を火照らせて大声で話すおっさん、多分俺とそう変わらない年で酒に飲まれてやけに醒めた顔をしているお兄さん、車内の酒臭さにほんとうんざりとでも言いたそうなお姉さん――。でももう慣れてしまって、今では愛嬌さえ感じるんだけど。

 よりによって今日は華のつく日だった。まるで大学生みたいなノリでサラリーマンたちが次々と入ってきて、俺はというとその元気と反比例するようにヘトヘトになっていた。

 次はどこだ、とゆるやかになったスピードを感じて顔を上げる。電光掲示板は俺の最寄り駅を映していた。

 停止のときの揺れを合図に、人でいっぱいな車内をぶつかりながら降りる。そこからは人の流れに乗るだけ。

 改札を右折して、月極駐車場を左折して、そこから一つ目と二つ目の信号のちょうどあいだ。駅からの近さをとった代償に、周囲が高層マンションな中俺が帰るのはおんぼろアパートの二階だ。

 たんとん、たんとん。外にむき出しで半分錆びてる階段を上りきって、背中のかばんに弾みをつけて無雑作に手をつっこむ。今日は運がいい。この鍵を見つけられた速さは大吉モノだ。

 ぞんざいに穴に差しこんで回す。あれ、部屋が暗い。

 ぱちっぱちっと玄関、そしてリビングの電気をつける。部屋相応の小さい白いテーブルの真ん中に、水色の付箋でメモ書きされているのを見つけた。

「今日の夜は一人で食べて」

 最近こういうの多い気がするけど、まあ気のせいか。昔は毎晩が楽しみだったのになあ。

 大きくて大福みたいなクッション――見たまま大福、と二人で名付けた――に背中を預けようとする。

ない。いつもの位置に。そうだ、元々フミのだった。

 フミと同棲してもう十ヶ月か。そりゃあ最初ほどアツアツではなくなったけど、これはこれでいいと思っている。

 もう一つの部屋――ここを寝室兼物置としている――にあるんだろう。そう思って開けてみても、ない。ほんの一瞬、最悪の可能性が脳裡に映る。

 あ、とその不安を晴らすように声に出してみる。

「あ、そうだあいつフリマアプリにハマってんだ」

 大げさに首まで振って安心させる。自分を。きっと売ったんだろう。大福。まあ一言くらいほしかったけど。

 ひとまず解決させると、眠っていた食欲があくびをした。飯、といってもフミが来てからろくにしなくなったから、ごはんもカレーもレンジでできるものに取りかかった。

 食事もシャワーも(ドライヤーも)済ませて、背面跳びの要領で寝室のセミダブルベッドに飛び落ちる。ぐったりしていると、足とか手が重力に引き寄せられているのがわかる。そのままゆるい眠りにも従順になった。


 いがいがする喉によって朝を覚える。隣にいるはずのフミがいない。つー、とベッドと接しているはずの背中に冷や汗が走るのを感じる。

 まだ起ききっていない足で不安定にリビングへと向かう。ソファにでも寝ているんだろう。そうしてドアノブに手をかけた。

 ずざざ、と音がした。リビングに入って玄関の方をみると、鍵が差しこまれてドアがゆっくり開錠されていくのを見た。カチャン、と小さい音を立ててドアが開くと、フミだった。何と言ってくるんだろう。こっちが緊張してしまう。

 フミは俺を視界に認めると、にたりと笑った。そして靴を乱雑に脱ぎ捨て、たっ、たっ、と近づいてくる。ただいまあ、と言って俺にもたれるようにして抱きついた。

「なに、酔ってんの?」

「うん、いっぱい、」

 ツッコミを入れる気にもならなくて、なんで、と何にも気づかないフリをしてなんで、と口に出す。

「なんで、こんな時間?」

 できるだけ冗談っぽく、そしてはぐらかせるように発したつもりが、それは思いのほか詰問の雰囲気を帯びてこのせま苦しい部屋に響いた。それに自分でびっくりしてしまい身体が硬直する。

「なんでもいいじゃん」

 さっきの明るいトーンはその一切が失われて、つじつまの合わない罪悪感をおぼえてしまう。

「まあいいや、今日おれランチからだから」

「うん、いってら」

 抱きつかれているせいで顔色を窺うことができない。耳でフミの機嫌の良し悪しを察知しようと必死になる。

「フミは?」

「夜。それまで寝る。」

 そう言いきると、ふふ、と笑った。よかった。笑ってるってことは、機嫌も元通りなんだろう。

 フミは俺から離れてそのままソファに横になった。俺はバイトにいく準備をした。


 オフィス街の居酒屋(昼は定食屋)だから、土曜日は客足ががくっと減る。昨夜の忙しさの相殺できそうなくらいだ。

 のれんをくぐって切れ目の店長に挨拶する。ここの社員の中では一番仕事ができる人だから、それなりに尊敬している。

 もうおいしそうな麦飯の匂いが漂うキッチンを、同じく挨拶しながら通り抜ける。最初はそうでもなかったけど、キッチンの人と今では冗談を交わせるくらいの仲になった。

 プレハブの更衣室でそそくさと着替える。ここはホントに狭いから、太った人が入ってくるとやりづらくて仕方ない。

 そこを出るとちょうど真人と鉢合った。かなり眠たそうであくびをしながら目をこすっている。

「おはようございます」

「おはよ」

 真人は俗に言う「いい後輩」だ。フミと同期で、三人で仲がいい。

「今日どこっすか」

「俺は二階」

「じゃあ一緒っすね」

 あーそっか、と返してすれ違う。いつもと違う匂い、それでいていつもかぎ慣れた匂いを感じた。

「真人シャンプー変えた?」

「え、はいそうなんすよ、さすがっすね」

 なにがさすがだよ、と笑う。先いくわ、と言い残して中に入った。

 朝のいがいが喉のせいでちょっとだけ声の調子が悪いかったことを除けば、まったくいつも通りだった。難なくランチ業務を終えてまかないを食べていた。

「おはようございまーす」

 レジの方からフミの声がした。俺以外のみんながそれに返事をする。

 フミはこっちに来て、

「今日のまかない唐揚げなんですね、いいなあ」

 とこっちを見た。

「寝られた?」

「あーうん、まあそこそこ」

「大丈夫かよ」

 茶化すように笑って言うと、

「大丈夫」

 とフミは困ったように笑った。


 昨夜との差がひどくて、やけに疲れる。立ちっぱなしが続くと脚が重くなる。どちらかというと、忙しい方がやっぱりいいんだよな、と暇を持てあましていると、もう閉めの時間になっていた。

 フミはちょうど一年くらい前にうちのバイトにきた。それからすこし経ってフミから告ってきた。特別可愛くもなかったけど、もう半年も彼女がいなかったから、いいよと返事をした。

 ずっと前に何で告ったの、ときいたら、

「えー、なんか仕事する感じがかっこよかったっていうか。なんか優しいし?」

 と照れてマフラーで口元を隠しながら教えてくれた。今までをまとめても、そのときのフミは一番かわいかった。

「よし、ヤスはあがっていいよ」

「あざす、おつかれさまです、」

 一通り挨拶を済ませて、また着替えにいく。サロンエプロンの下からスマホを取り出すとフミからラインがきていた。

「先あがったからコンビニいるね」

「わかった、いまあがったわ」

 そう返して、そそくさと着替えた。

 コンビニが見えると、フミはすぐ見つけられた。アイスを食べながらスマホを注視していた。なんでかそのフミは、俺の彼女じゃないような気がした。

「寒くないの?」

「全然」

 そう、と力なく返す。近づいて話しかけると、いつものフミだった。近ごろ温度というか、波長がズレてきてる気がしないでもない。

「夕ごはん何がいい?」

「んーなんでも」

「もー、またそれ?」

「フミのは何でもおいしいから」

 こう言っておけば、大丈夫。経験則、常套手段だから。

「はいはい」

 このトーンは、朝のそれと同じだった。今回は見ようと思えば顔を見られるはずなのに、できなかった。

 今更話題も思いつかなくて、手持ちぶさたでツイッターを辿りながら帰った。


「ごはんできたよ」

 とそっとフミが耳元でいった。お、ありがと、と言って連れ立って寝室から出る。ふう、とため息が聞こえたような――でもきっと空耳だろうと決めこんだ。

 テーブルに並べられていたのは、この家で一番よく出るやつだった。またこれ? とか文句を言ったりはしない。我ながらいい彼氏だ。

 米一粒まできっちり平らげて、ソファを背もたれにテレビのリモコンを手に取る。電源を入れようとして腕を伸ばすと、

「私つくったから、洗ってよ」

「あーわかった」

 そういって俺はゆっくりテレビをつける。きっと違うのに、全身を隈無く見られているような気がして、なんとなくリラックスできなかった。

 テレビでは俳優Sの不倫騒動で持ちきりだった。こういうのを俺たちが望んでる、とか思われるのが腹立つんだよな。まあ、観るんだけど。

 そのままぼんやり眺めていると、右の方からカチャカチャと音がする。振り向きそうになるのを何とかこらえる。言われてから気づけば三十分も経っていた。

 もう一言くらいかけてくれればいいのに。でも、何も言ってこないってことは結局許してるんだろう。

「シャワーあびよ」

 フミに聞こえるように言ってから立ち上がり、寝室に寝間着を取りにいく。何か――例えば文句の一つでも――言ってくれるのを期待していたけど、結局何も返ってこないまま俺は風呂場に入った。


「私ここで寝るね」

 フミもシャワーを終えたからゲームにでも誘おうかと企んだ矢先、あっけなくそれは崩された。

「そう?」

「うん」

「そっか」

 すこし寂しい感じに言ってみようと思ったのに、全然そんな風にできなかった。

 そう言われてしまっては俺も寝室に退散するほかなくて、ずるずると引き上げた。

 寝る準備もすっかり済ませて、今度はうつぶせに飛び落ちた。まだ早いなあと呟きながら、スマホを目的もなくつけてみる。

 その中はテレビよりもつまらなくて、五分と経たないうちに真っ暗にした。寝るか、と何かを諦めた気になって顔のとなりにそれをぽんと投げる。

 目を閉じる。すると、が耳に入る。なんだ、また売るのか。そんなに儲かるなら俺も明日インストールしてみるか。そして、眠りに落ちた。




「ヤス、ヤス、朝、」

 そういえば、そう、俺のみた夢のはじまりはこんな感じだった。寝たふりをするのも悪いから、目を開けてみる。あれ、俺を起こしてたフミがいない。フミの匂いも、空気も、全部。

 目が覚めると、そこには……。

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水面下 鱒子 哉 @masukokana

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