8.疑念(1)
それからだ、エカテリーナが時々僕の研究室にくるようになったのは。
最初は話も弾まなくて、ぽつぽつと思い出したように言葉を発するだけだった。あの日はあんなにも話したというのに、いざそれが目的になると何を話していいかわからなかったのだろう。
それはいい。
それはいいのだが、三人の従者たちも同席の上、彼らから僕は不審者扱いだったので、始終睨まれっぱなしだった。少しでも無礼なもの言いをしようものなら、すぐさまマーリャが飛びかかってくる有様で、これほど緊張することはなかった。
しばらくすると、エカテリーナがほかの生徒と話をしている姿を、少しずつ見かけるようになった。エカテリーナはやや緊張気味に、話しかけられた生徒は恐怖に顔を引き攣らせていたが、やがてそういうこともなくなっていき――今に至る。
「少しは思い出したかい?」
当時のことを少しばかり懐かしい思いで振り返っていた僕は、イリヤの声で我に返った。
「あ、ああ」
僕は慌てて返事をした。
確かにターニングポイントはあの日のようだ。
僕としては、エカテリーナ本人が自分でもどこかで変わらねばと考えていたのではないかと思っている。僕は、原因というよりは、単なるきっかけにすぎない。
しかし、そうは考えていなものもいる。――マーリャ・マスカエヴァだ。
「マーリャはね、たぶん変わってしまったエカテリーナ様を許せないでいる。それと同時に、そう仕向けた君にもだ」
「だから、あの日、悪魔の大量召喚を行い、街を襲わせた?」
エカテリーナが何を考え、どんな行動に出るかを見極め、あわよくば僕を殺してしまうために……。
「そう僕たちは疑っている」
「……」
信じられなかった。あのマーリャがそんなことを考え、実行に移しただなんて。
しかし、エカテリーナの護衛という同じ任務に就くイリヤたちがそう推測し、仲間を疑っているのだ。ある一定以上の確信があってのことだろう。それにそうであるならば、
「気をつけたほうがいい。次はマーリャももっと思い切った行動に出るかもしれない」
「思い切った行動?」
僕は未だ頭がついていかず、イリヤの言葉を鸚鵡返しにした。
「だって、そうだろう? 見極めが終わったなら、次の段階に進むのは当たり前だ」
「……」
そうだ。それが当然というものだ。
では、マーリャはエカテリーナをどう見極めた? 確か彼女は、言葉に口惜しさをにじませながら、こういったのではなかったか。
『……やはり貴方は変わってしまわれた』
その言葉からマーリャがどう結論づけたかは、もはや考えるまでもないだろう。
「これが見当ちがいの推理であればいいのだけどね。そのときは喜んで心の底から謝るよ」
イリヤは、その中性的な相貌に自虐的な笑みを浮かべる。
「そのためにも、僕たちはマーリャの動向をしっかりと見ておくことにする」
「そうか。それなら同じ学科である僕も、彼女の様子を観察しておくよ」
「ああ、そうしてくれると助かる――と言いたいところだけどね」
そこでイリヤは言い淀んだ。
「うん?」
「もう忘れたのか? マーリャの憎しみはお前にも向いている可能性があると言っただろう?」
首を傾げる僕に、イリヤの言葉を引き取ったヴァシリーサが呆れたようにため息を吐いた。
「ああ、そうだったな」
「まったく。おまえというやつは……。でも、きっとララミスのことだ。エカテリーナ様の心配と、マーリャを疑いたくない気持ちでいっぱいなのだろうな」
だが、次に彼女はそう言って苦笑する。
「エカテリーナ様は僕たちがお守りする。君もどうかくれぐれも気をつけてほしい。……さて、僕たちはそろそろ戻るよ。エカテリーナ様は、今はご学友と一緒だが、おそばにはマーリャもいるからね」
ふたりだけにはさせられないということだろう。
「話を聞いてくれてありがとう。……では、失礼する」
イリヤは最後にそう話を締めくくると、ヴァシリーサとそろってソファから立ち上がり、研究室を出ていった。
「……」
僕はふたりの姿がなくなってたっぷり一分はたってから、まるで金縛りが解けたかのよう、脱力して椅子の背もたれに体を預けた。
(マーリャが……)
彼らから聞いた話を、再度反芻する。
何かのまちがいであってほしい。イリヤたちの取り越し苦労であってくれたなら、と心底思う。だが、笑い飛ばそうにも、彼らの推測には一考の余地があった。彼女は動機があり、実行に移すだけの知識を持っている可能性もあるのだ。
その一方で、僕はヘルムート・アッカーマンという、もうひとりの容疑者を知っていた。
あの騒動の中で会ったやつの言動や態度が、僕に疑念を抱かせている。かぎりなく怪しいが、しかし、言ってしまえば僕の印象でしかない。マーリャのような動機と呼べる動機すら見あたらないのが正直なところだ。
「僕は、どっちを疑えばいい……?」
我知らず、僕はそうつぶやいていた。
§§§
翌日のことだった。
その日、僕はマーリャの観察に徹した。
午前の教養科目の講義は不機嫌そうに聞いていた。次の教室へ移動する際には、女子生徒に講義内容でも聞かれたのか、真面目な顔をして質問に答えながら歩く。
午前の講義が終わって昼休みになると、マーリャはエカテリーナのところへ飛んでいった。友人たちと一緒に昼食を食べるエカテリーナを視界におさめられる場所で、彼女もイリヤ、ヴァシリーサとともに昼食をすませた。
午後の魔術科の講義や実習では、彼女自身ツバロフ帝国では稀な魔術の素養の持ち主であるせいか、教養科目よりは熱心に耳を傾けているように見えた。
総合すると、マーリャの意外な一面はいくつか見られたものの、特に変わった様子はなく、いつも通りの彼女にしか見えなかった。
そうして本日最後の講義が終了した。
マーリャはこれからどうするのだろうか? やはりエカテリーナのもとへ急ぐか――と思って彼女を見ていると、なんとこちらへと向かってきた。
「ララミス!」
僕のそばまできて、威圧的に僕の名を呼ぶ。
「やあ、マーリャ」
「『やあ』ではない!」
僕の応対は逆に彼女の怒りを焚きつけたようで、机を掌で叩いてそれを表現した。
「貴様、なんだ、今日のザマは!? 初歩的なミスをしたり、誰でもできそうな中位の魔術ができなかったり」
どうやらマーリャは、今日の僕のふがいなさに腹を立てているらしい。
とは言え、だ。
「その誰にでもできそうなことすらできないのが僕だ。いつものことだろう?」
尤も、初歩的なミスが多かったのは確かだが。たぶん昨日のイリヤの話が頭を離れず、気もそぞろで身が入っていなかったせいだろう。
「だったら、あの日の貴様は――」
と、マーリャがさらなる文句を言おうとしたとき、横から声が飛び込んできた。
「マーリャ、言うだけむだだと思うよー?」
「だってその人、『落ちた神童』だもん」
それは四人ほどの女の子のグループだった。彼女らは僕を見てくすくすと笑う。
だが、マーリャはその彼女らをキッと睨みつけた。
「黙れ。お前たちにララミスの何がわかる!?」
そして、一喝。
女子生徒たちは、びくっと目に見えて体を跳ねさせた。さすがに女軍人のようなマーリャに怒鳴られては誰だってこうなる。
「そ、そうよね。マーリャってその人のこと、悪く言ったことないもんね……」
「い、行こっか」
「うん……」
彼女らはそう囁き合うと、逃げるように去っていく。
それを見送るマーリャの顔には、確かに後悔の色があった。
「お前、友達いたんだな」
「……エカテリーナ様に作れと言われたんだ」
なるほど。彼女の方針か。
それをマーリャは律義に守って、そこそこ良好な関係を築いているわけだ。
「後で謝っておけよ」
「わ、わかっているっ」
それもそうか。マーリャはそこまで非常識ではない。
「私は……」
「うん?」
「私は、できないものを笑うのはきらいだ」
おもむろに彼女は、顔を赤くしながらたどたどしくそんなことを言い出した。
何かと思えば、どうやら先ほどの女子生徒が言った、マーリャが僕を悪く言ったことがない、という言葉への言い訳(?)を、聞いてもいないのにはじめたらしい。
「そうだ。できないものは仕方がない。本人だって努力はしているのだから、今それができないからと言って、それを笑うような行為はきらいだ」
本人が努力しているという前提に立っているあたり、実に真面目なマーリャらしい考え方だ。
「だが、それ以上にきらいなのは、できるはずなのにやらないことだ」
「それはもしかして、僕のことを言っているのだろうか?」
「ほかに誰がいる!」
再びマーリャは声を荒らげる。
「あのときの貴様はこんなものではなかったはずだ。それなのに今日のザマはなんだ!?」
あの日。あのとき。
つまり先の休日の、悪魔襲撃騒動のときだ。
「そのときにも言っただろ? これが本来の僕だって」
僕がそう答えると、マーリャは深々とため息を吐いた。がっくりと項垂れる。
「私にはお前という人間がわからん」
「奇遇だね。僕もマーリャという人間がわからなくなっている」
僕は思わずつぶやいていた。
「何だと?」
「こっちの話さ」
そう誤魔化してから、僕は思い切って切り出した。
「マーリャ、少し話をしないか」
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