4.魔儀(1)
前代未聞の悪魔大量現界、及び、襲撃から数日がたち、
街は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
今となっては喉もと過ぎれば何とやらで、「あれはいったい何だったんだろう?」と首を傾げるものも多いようだ。
また、アラシャの父でありバルトール市の領主、ベルゲングリューン伯爵が中央に送った使いの騎士も戻ってきて、被害がこの街だけであることもわかった。おかげで、よけいに先のような思いに拍車がかかり、今では何かの偶然によって大量に悪魔が現界したのだろうという楽観的な考えが大半になりつつあった。
ただ、少なからず犠牲者が出たので、直後は教会で葬儀の鐘がよく鳴っていたし、今も街中では喪服姿の人を見かけ、いたたまれない気分になる。
当然のように、王立エーデルシュタイン学院も講義を再開し、少しずつ日常風景を取り戻しつつあった。
僕としても考えるべきことが多く、今日も今日とて、授業が終わった放課後は自分の研究室にこもっていた。……まぁ、ある意味で普段通りとも言えるが。
その研究室のドアがノックされた。
「どうぞ」
そう返事をするとドアが開く。
「失礼するよ」
入ってきたのはエカテリーナ・ラフマニノフの三人の従者のうちのふたり、イリヤとヴァシリーサだった。
「珍しいな、ふたりがこんなところにくるなんて」
「その『こんなところ』は自分の研究室だろうに」
長身の女子生徒、ヴァシリーサが苦笑する。
「まぁね。……で、何か僕に用? ああ、よかったら座ってくれ」
「では、遠慮なく」
「すまない」
イリヤとヴァシリーサは、それぞれそう答えると、並んでソファに腰を下ろす。
僕はふたりがそうしたことで、ただ遊びにきただけではなく、何か込み入った話をしにきたのではないかと予感した。
「コーヒーでも入れようか?」
「いや、けっこうだよ」
断ったのは、男にしては身長が低く、中性的な面立ちをした少年、イリヤ。エカテリーナの従者の中では自然とリーダーを務めている。
「そうか。僕はいま淹れたばかりでね。悪いけど飲みながら話を聞かせてもらうよ」
僕の目の前、執務机の上にはかすかに湯気を揺らめかせているコーヒーが、独特の薫りを漂わせていた。
「あの日――」
と、イリヤが切り出した。
「君は八面六臂の大活躍だったそうじゃないか」
「随分と語弊があるな。……いったい誰からそんな話を?」
「もちろん、エカテリーナ様からだけど?」
それもそうか。彼女しかいないな。
「たいそう興奮しながら、我々にも話してくれたよ」
と、ヴァシリーサがややうんざりした口調で言う。この様子だと機関銃の如く語ったのだろうな。……エカテリーナめ、いったいどんな尾ひれ背びれをつけて話したんだ?
「逆にマーリャはやけに怒っていたよ。『あの男は周りを謀っていたんだ』ってね」
「……」
その光景が目に浮かぶようだな。見事に声が再生されたぞ。心なしか、コーヒーの苦みが増した気がする。
「そっちはどうしていたんだ? 見たところ怪我はなさそうだから、騒ぎに巻き込まれずにすんだみたいだけど」
「あのとき、僕たちは寮にいたんだ」
「それは不幸中の幸いだな」
聞いた話では、学校やその付近の寮などに降り立った
「そうとも言えないよ。何せエカテリーナ様が危険な目に遭っているときに、おそばにいなかったのだからね」
「我々が話を聞いて目抜き通りに駆けつけたときには、もうすべてが終わった後だった」
イリヤとヴァシリーサが、口惜しさの滲む口調で言う。
「朝、エカテリーナ様が出かけると言ったときには、我々もおともすると申し出たのだが――ぞろぞろ大勢で行くほどの用事ではないと断られたのだ」
確かオープンカフェで会ったとき、コーヒーを買いにきたと言っていたな。たかだかコーヒーを買いにいくのに、従者を三人ともつれていったら何ごとかと思われそうだ。今のエカテリーナなら断るのも当然だろう。
「こんなことならむりにでもついていくべきだった」
「そう自分を責めないほうがいい。不可抗力だ」
神聖暦になって初めてのことだ。いったい誰に予想ができただろうか。
「エカテリーナだって何も言わなかっただろう?」
「そうだな」
「でも、マーリャには怒られたよ」
どこかやりきれない気持ちでため息を吐きながら答えるヴァシリーサと、苦笑交じりのイリヤ。
「彼女は職務に忠実だから」
僕もイリヤにつられて苦笑いする。
マーリャ・マスカエヴァという少女は軍人のような外見に相応しく、堅苦しくて融通が利かない。彼女自身の真面目な性格ゆえなのだろうが、そこには古参であるイリヤ、ヴァシリーサへの対抗心も少なからずあるような気がする。
「さて、そろそろ本題に入らないか?」
僕はコーヒーをひと口飲み、タイミングを見計らって切り出した。
「わざわざ茶飲み話や愚痴をこぼしにきたわけじゃないんだろ?」
「そうだね」
と、イリヤ。
彼は隣にいるヴァシリーサと顔を見合わせると、意を決したように切り出してきた。
「ララミス。今回の件、君はどう思う?」
イリヤは真っ直ぐ僕に視線を向けてくる。
僕もチェーン付きの眼鏡のレンズ越しに、それを受け止めた。
「曖昧模糊とした質問だね」
いちおう僕にはヘルムート・アッカーマンという手がかりがあるが、今のところ状況証拠以下の印象でしかないので、誰彼なしに話す気はない。せいぜいシェスターくらい。彼なら僕の憶測を憶測のまま受け止めて、心の中だけにとどめておいてくれる。
逆に、アラシャは絶対に話せない部類の人間だ。いかんせん正義感が強すぎる。ろくすっぽ証拠がないのに本人を追及しようとしかねない。
「では、質問を変えよう」
イリヤは話題の角度を変えてくる。
「ララミス・フォン・ハウスホーファー。聡明な君に聞きたい。……人間に悪魔の召喚は可能だろうか?」
「ッ!?」
イリヤの質問は僕の心臓を撃ち抜いた。心拍数が上がる。
実は、その可能性は僕も考えていたことだった。だが、シェスターにすら話していない。
「その様子だと可能のようだね」
「……」
僕は黙り込んだ。
しかし、この場合、沈黙は肯定にほかならない。
そう。僕は知っている。世界最高の教育機関に相応しい膨大な蔵書量を誇る図書館に入り浸り、資料を読み漁った結果――悪魔の召喚は可能である、と。
これを僕だけが知り得た知識だと思うつもりはない。高位の魔術師なら、おそらく誰もが思い至るにちがいない。たぶんこれは公然の秘密なのだ。
今、僕が最も疑っている人物は、ヘルムートだ。
だが、貴族の子が箔付けのために学院に通っている代表格のようなヘルムートが、僕同様にその事実に気づいたとは思えない。それにこれは知識だけでできることでもない。高い魔術の素養と才覚、深い理解が必要だ。僕にはできない。自惚れた言い方になるが、僕にできないことをヘルムートができるとは思えなかった。それが、僕がやつの追及に踏み込めない理由でもある。
一方でイリヤたちは、単なる可能性として悪魔の召喚という手段を思いついたのだろう。だから、僕に意見を求めにきたのだ。
急に乾いてきた喉を、コーヒーで潤した。
「仮に、悪魔の召喚が可能だったとして――」
この期に及んで僕は、無意味に往生際の悪い前置きをする。
「誰か疑っている人物はいるのか?」
今度は僕が問い返す。
すると、イリヤとヴァシリーサは再び顔を見合わせた。そして、うなずき合ってから僕に向き直った。
再び開いたイリヤの口から出た名前は、あまりにも意外なものだった。
「僕たちが疑っているのは、マーリャだ」
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