第2章
1.三人の従者たち(1)
ある日の午前中。
始業ギリギリに教室に入ると、もう席はいっぱいだった。
(そう言えば、この講義はこうだったな……)
どうやらこの講義は思いのほか人気があったらしく、受講している生徒が多いのだ。自分の好きな席で講義を受けたいなら早く教室に入らないといけないし、遅くなれば遅くなるほど選択肢がなくなっていく。
そこを失念していた僕の失策だな。
「とは言え、この大教室に入り切らないほどの生徒を受講させているはずがないから、どこかは空いているはずなんだが……」
僕は入り口で教室を見渡し――見つけた。いちばん後ろの席だ。黒板が遠くて見づらいが、この際だ、贅沢は言っていられない。
階段状になった通路を歩き、席に向かう。と、近づくにつれて、隣に見知った顔が座っていることに気づいた。
マーリャ・マスカエヴァ。
ツバロフ帝国の公女、エカテリーナ・ラフマニノフがつれてきた三人の従者のうちのひとりだ。
マーリャは真っ直ぐ背筋を伸ばして座り、静かに授業の開始を待っていた。ただでさえ女軍人みたいなのに、これではまるで決闘の前の剣士だ。見事に近寄りがたい空気を発している。
「やあ、マーリャ。隣、いいかな?」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。
「ララミスか。……断る。ほかをあたるがいい」
「あいにくと、ほかに空席がなくてね。今のだって本当に尋ねているわけじゃなくて、単なる挨拶だよ」
僕はマーリャの後ろを通って、隣の席へと腰を下ろした。
「貴様……」
マーリャは憎々しげに声を発したが、それ以上は何も言わなかった。
「機嫌が悪そうだね」
僕はペンやノートを用意しながら、マーリャに話しかける。
「貴様が横にきたからな」
「いや、僕がくる前から」
「……」
マーリャは黙る。
尤も、僕が見るマーリャのほとんどが不機嫌顔なのだが。ご機嫌麗しい彼女というものを見たためしがない。
「……私はエカテリーナ様の従者だ」
マーリャは静かに切り出した。
「エカテリーナ様の従者で、その身を守るためにこのファーンハイトにきた。それがなぜこんなところでのんびり講義を受けているのだ?」
つまり本来の職務につけないことが不満のようだ。
「でも、今だってイリヤかヴァシリーサがそばにいるんだろ?」
イリヤ、ヴァシリーサは、マーリャと同じくエカテリーナの護衛のふたりだ。マーリャとちがって、エカテリーナと同じ法・政治学科に所属しているので、同じ受講科目も多いと聞く。意外とほかのふたりとのこういう差も、マーリャの不満のもとになっているのかもしれない。
「そうだ。……だが、最初はそうではなかった。別々の講義でないかぎり常に三人おそばにいて、身をお守りしていた」
確かに。入学後しばらくは、エカテリーナ・ラフマニノフは常に三人の従者をそばに置いていた。氷の刃の如き常冬の国の公女は、笑いもせず、三人以外とは話をしようともしない。まるで下々のものと話す舌は持たぬとばかりにだ。近くに寄れば従者たちがすっと壁になり、こちらから声をかけることもできなかった。
「それが今はどうだ? エカテリーナ様は私たちに、四六時中ついていなくてもいいと言われる」
「エカテリーナもマーリャたちに、この学院で学んで、楽しめと言っているんだろうさ」
「だが、その身にもしものことがあったらどうする」
マーリャはムキになって反論してくる。
今のところ僕は、エカテリーナが危険な目に遇ったという話は聞いていない。極稀に仲の悪い国の生徒同士が衝突していざこざを起こすようだが、その程度だ。それも長くは続かない。異国からの留学生は国の将来を背負ってここにきている。それこそ学び、楽しむことで手いっぱいなのだ。
「エカテリーナだって自分の身くらい自分で守れるんじゃないのか」
「もちろんだ。護身用の銃は常に持っておられる」
「……」
今さらっと怖ろしいことを言ったな。すぐ近くの生徒の耳にも入ったようだが、あまりに物騒な話なので聞こえなかったことにしたようだ。
「エカテリーナ様は変わってしまわれた」
マーリャは嘆くように、そうつぶやいた。
「僕は悪いことじゃないと思うけどね」
僕個人としては、今のエカテリーナのほうが好ましくある。あの通り尊大な態度ではあるが、その実、身分や国に関係なく誰とでも話す。彼女が昔のままなら、僕の研究室に遊びにきて、コーヒーを飲みながら好きなことをしゃべって帰っていく、なんていう今の関係もなかっただろう。どうにかして僕をツバロフにつれて帰ろうとするのには辟易するが。
「貴様はそう言うのだろうな」
しかし、マーリャは忌々しげにそうつぶやく。
それと同時に先生が教室に入ってきて、講義がはじまった。
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