7.エカテリーナ・ラフマニノフと常冬の国の公女

 僕にはエーデルシュタイン学院から研究室が与えられている。毎年ひとりいるかいないかという特待生の特典だ。いちおう入学後でも学院が研究室を与えたほうがいいと思うような成果を出せばもらえるが、それも学院創立以来片手で数えられるほどしか例がないようだ。


 しかし、僕は知っての通り『落ちた神童』である。入学時の才能は、今や見る影もない。学院としては取り上げてしまいたいところだろうが、さすがにそんなわかりやすい真似はできない。おかげで僕は、落ち着いて研究や調べものができる環境を返上せずにすんでいるのだった。



 

 僕は研究室の前までくると、その扉を開けた。


 中は意外と広い。広めの応接間くらいはあるだろう。そこに執務机と壁一面の書架、さらにはローテーブルに、仮眠もとれるソファが置いてある。書架と反対側にはコーヒーを淹れるくらいはできる設備と、小さな食器棚があった。


 ここが僕個人の研究室だ。




 だが、なぜか今、そこにはふたりの少女がいた。




「マーリャ、コーヒーを淹れてくれないか」

「それはかまいませんが、たいした豆は置いていないようですよ」


 ひとりはソファにふんぞり返っていて、もうひとりはコーヒーサイフォンとその周辺に目を向けている。……人の研究室で好き勝手やって好き勝手言ってくれる。


「エカテリーナ、僕の研究室で何をしている?」

「おお、ララミス。待っていたぞ」


 ソファに座るエカテリーナが尊大な態度で迎えてくれる。


 僕は次にコーヒー豆を吟味している少女に目をやった。


「マーリャ、コーヒーは好きに飲んでもいいが、文句は言うな」

「なんだ、貴様、帰ってきたのか」


 こちらは嫌悪感丸出しの態度だ。



 

 小柄ながら気の強そうな面立ちをしているのが、ソファに座っているエカテリーナ・ラフマニノフだ。


 彼女を語る上で特筆すべき特徴がふたつある。


 ひとつは、北の軍事大国、ツバロフ帝国の皇族であるということ。本人が言うには、皇位継承順位が低く、自分や自分の将来の夫が皇帝の座につくことはまずないだろうとのことだ。


 そして、もうひとつは、いつも片方の目を真っ黒な眼帯で覆っている点である。


 別に目が見えなかったり目立つ傷があったりするわけではない。彼女は帝国の皇族の遺伝で虹彩異色症ヘテロクロミア――つまり左右の瞳の色がちがうのだ。片方は澄んだ湖のような水色、もう片方は紫暗。かなり差が大きい。そのためエカテリーナは相手を驚かせないようにと、常に片目を眼帯で覆っているのだ。そんな理由なので、その日の気分によって覆う目が変わる。今日は水色の瞳が露出している。



 

 そして、ソファには座らず立っている少女が、マーリャ・マスカエヴァ。


 短めの髪に、凛々しいというには怜悧に過ぎる相貌は、まるで軍人のような雰囲気がある。それもそのはず。彼女はエカテリーナが留学するにあたって護衛として一緒に入学してきたひとりだった。


 故に、彼女の本分は学業よりもそちらにあると言っていい。



 

「コーヒーを飲ませることは吝かではないよ。でも、味は僕の好みだ。口に合わないのなら、自分の好きな銘柄を持ってくるといい」

「なるほど。そうしよう」


 そうエカテリーナが言うのを聞きながら、僕は執務机に腰を下ろした。


 ここはあくまで研究室で、応接間ではない。よって、仮眠をとるときのために置いた三人掛けのソファがひとつあるだけだ。来客があると、自然こういう構図になる。


「で、君たちは僕のいない間に研究室に入り込んで、何をしているんだ?」

「盗人のように言うでないわ。むしろわたしは、不用心にも鍵の開いていたこの部屋の留守を守っていたのだぞ。感謝してほしいくらいだ」

「あぁ、そうか。それは悪かった」


 ちゃんといつも鍵をかけているはずなのだが――どうやらヘルムートの取り巻きたちは、鍵を開けたところでシェスターに見つかり、退散を余儀なくされたようだ。……尤も、それでも彼女たちが勝手に入り込み、ソファにふんぞり返ったり、コーヒーを物色していたことには変わりないのだが……まぁ、そこは留守の間部屋を見てくれていたことで相殺しよう。


 と、そこで僕は立ちっぱなしのマーリャに気がついた。


「マーリャ、立ってないで座ったら?」

「けっこうだ」


 だが、彼女はきっぱりと断った。


「僕は学友にソファも勧めず立たせておく趣味はないよ」

「私は貴様の学友などではない。エカテリーナ様の従者だ」


 同じ魔術科に在籍していて、専門科目やいくつかの一般教養では同じ教室で講義を受けているのに、それを全否定しないでもらいたいものだ。


「ララミスが言うことも尤もだ。マーリャ、ここに座るといい」

「し、しかし、私は従者です。エカテリーナ様と同じソファに座るなどと……」

「祖国から遠く離れたこのファーンハイトの、しかも学校で、皇族だ従者だと言っても滑稽なだけよな」


 改めてエカテリーナはマーリャに座るよう促すが、やはり彼女はおいそれと座ることはできないようだ。


 こうして見ていると、エカテリーナがまるで皇族にしては気さくな性格に見えるが、実際のところ入学当初はそうでもなかった。まるで氷の刃のような雰囲気を身にまとい、ほかの生徒とは交わらず、常に三人の従者をそばに置いていた。


 それがいつのころからか変わってきた。それこそ祖国から離れた異国の地で、皇族だ何だと言っても滑稽なだけだと気がついたのかもしれない。


 マーリャがキッと僕に鋭い視線を向けてくる。困ったからといって、こちらを睨まれてもな。


「立っているんだったら、コーヒーを淹れてくれないかな?」


 仕方なく僕は、マーリャに妥協案を出した。そこにエカテリーナも乗ってくる。


「おお、それがよいな。話をするのに飲みもののひとつもほしいところだ」

「かしこまりました、エカテリーナ様。……ララミス、貴様にも淹れてやるから感謝しろ」


 マーリャは、エカテリーナには恭しく、僕には投げつけるようにそう答えた。


 感謝してもいいが、コーヒーは僕のだし、この助け舟のことを考えれば、相殺どころか僕のほうが感謝されるべきではないだろうか。もちろん、感謝されたいわけではないけど。


「で、エカテリーナ、僕に何か話があるのか?」


 僕は改めて先を促した。


「もちろん。わたしがこの学院を卒業した後のことよ」

「国に帰るんだろ?」


 あえて素っ気なく返す。次にどんな話が飛び出すのか、だいたい予想がつくのだ。


 多くの留学生は、学院で学んだ後は知識を国に持ち帰り、国の将来を担うという役割をもつ。一方、彼女の場合、皇族としての教養を身につけるために留学してきているので、やや性質は異なる。とは言え、祖国に帰ることは間違いない。


「何を他人事のように言っておる。ララミスも一緒に帰るに決まっておろうが」

「またその話か」

「エカテリーナ様!」


 呆れる僕の横で、マーリャが叱責するような口調で悲鳴じみた声を上げる。


「いつも断っているだろ」

「そうです。このような男、エカテリーナ様には相応しくありません」


 エカテリーナはたびたびこの話をする。僕の何が気に入ったのか、卒業後、僕をツバロフ帝国につれて帰ろうと画策しているのだ。


「よい話だと思うがな」


 僕の返事もマーリャの言葉も聞く気がない調子で、エカテリーナは首を傾げる。


わたしの夫になれば、将来皇帝の座につくことはないだろうが、それなりの生活はできるぞ。研究も存分にできよう」


 人を趣味で研究しているみたいに言わないでもらいたい。これでもやむにやまれぬ事情で研究をしているのだ。


「いや、そうだな。わたしがこの学院で得た知識で政敵を排せば、或いは……」

「政敵って身内だろ? 仲よくしろよ」


 物騒な話だ。


「何を言う。ラフマニノフ王朝の歴史を紐解けば、兄弟姉妹けいていしまいと仲よくしようと思ったものほど早死にしておるわ」


 さすが軍事大国で名高いツバロフ帝国。皇族の在りようや歴史からして物騒だった。


「まぁ、いい。仕方がない。今日は世間話だ」

「それがいいね」


 僕は小さく笑う。

 常冬の国からきた氷の刃の如き公女が、変われば変わるものだと思った。

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