第三十七回 靳準は偽って石勒に降らんと欲す

 復讐に燃える劉曜りゅうようはすでに長安ちょうあんを発して潼関どうかんを出た。さらに百里(約56km)ほど軍勢を進めると赤壁せきへきという地に通りかかった。

 しばらくその地に軍勢を留め、山東さんとう石勒せきろく曹嶷そうぎょく河南かなん李矩りく祖逖そてきの動静を窺う。

滎陽けいようの李矩と郭黙かくもくが行く先を阻んでおります」

 斥候の報せを受けると、劉曜は怒って言う。

「先に洛陽で劉燦りゅうさんを破ったがゆえ、吾を与しやすいと侮っておるのか。先に滎陽を落として軍旗に血塗り、その後に平陽に向かう」

▼「軍旗に血塗る」とは、当時、戦にあたって軍旗や軍鼓に殺した捕虜の血を塗って祭る慣習があったことによる。

 それを聞いた遊子遠ゆうしえんが諌める。

「李矩は必ずや靳準きんじゅんと通じておりましょう。それゆえに吾らの進軍を阻んでおるのです。滎陽に軍勢を向ければ、必ずや靳準だけでなく幽州ゆうしゅう段匹殫だんひつせんにも援軍を求めるでしょう。そうなっては厄介です。石勒の許に人を遣わして平陽に進軍するよう促すのです。さすれば、靳準は東に気をとられて南にまで手が回りますまい。その上で孤立した李矩を破るのが上策です。東と南より軍勢を進めれば、平陽の城内では自ずから変事が出来しゅったいいたしましょう。さすれば、一鼓にして陥れられます」

 劉曜はその言葉に従い、軍勢を赤壁に留めて動かない。

 

 ※

 

 劉曜の軍中に解虎かいこ尹車いんしゃという裨将ひしょうがあり、先鋒を務める鄭雄ていゆうに言う。

▼「裨将」は副将、部隊長ほどの意味に解すればよい。

「帝はすでにしいされて漢に国主なく、つまり号令をかける者がおりません。趙王ちょうおう(劉曜)に帝位にかれるようお勧めされるべきです。その後に軍勢を進めれば、士民は風を望んで従いましょう」

 鄭雄は遊子遠と劉雅りゅうがに見えて相談する。二人もその意見に同じ、主だった将が揃った場で劉曜に勧める。

「先帝は遺詔いしょうして国家の大事を王に委ねられ、相国しょうこくに任じて趙王に封じられました。しかし、王は敢えて平陽に入られず、逆賊が朝廷を乱して劉氏は族滅の憂き目に遭いました。今や劉氏は王がおられるばかりです。尊号を称して年号を建て、余人に帝位を奪われてはなりません。万一にも靳準が帝位にけば、それにたぶらかされる者もおりましょう。先んじて帝位に即いて正統の所在を明かにし、諸鎮に号令されるならば、兵たちも誰に従うべきかを知り、逆賊の身を置くところもございますまい」

 関心かんしん楊継君ようけいくんが諌めて言う。

「即位は時機尚早であろう。今は逆賊を平定する軍中にある。その最中に議論すべきことではあるまい」

「長安を発していまだ平陽に到っておらず、靳準を討ち果たして仇にも報いておらぬ。にわかに尊号を称しては、世人に哂われよう」

 劉曜もなみすると、鄭雄たちは重ねて言う。

「王は創業の主ではございますまい。創業する者は勇み足で民が服さぬこともありましょう。それゆえに尊号を称するにあたって慎重を期さねばならぬのです。しかし、漢はすでに二代の帝を経ており、帝が弑虐されて正統が失われているのです。それならば、王はまず大漢の業を継ぐことを明かにされ、その後に逆賊を誅殺されるのが筋道というものです。名分はともに正しく、世人が疑う余地もございません」

 鄭雄の議論に駁する者はなく、劉曜は吉日を選んで赤壁の軍営で即位の礼を行い、年号を改めることとした。

 

 ※

 

 従事司馬じゅうじしば翟楷てきかい魯憑ろひょうという者が劉曜に言う。

「靳準は劉氏を滅ぼして自らは統漢とうかん将軍と称しております。劉氏の宗室に連なる者は、もはや王と劉太常りゅうたいじょう(劉雅、太常は官名)のお二人のみです。ここでまた漢の国号を継がれれば、靳準に統べられているように見られましょう。また、先に『漢に代わって興隆し、兆だけが征伐にあたるに堪える』という讖語しんごささやかれておりました。兆は趙に通じます。先帝は王を趙に封じられましたが、これこそ征伐にあたるに堪えるがゆえのこと、国号を改めて大趙の天王と称されるのがよろしいでしょう。それでこそ、先の讖語に応じて靳準が名乗る統漢の二字を避けられるのです」

▼「靳準が名乗る統漢の二字を避けられる」は、『後傳』では「其の統滅の二字を諱むなり」として『通俗』も同様であるが、意味を解しがたい。冒頭に靳準が統漢将軍を名乗っていると言及しているところから、避けるべきは「統漢」の二字と介して訳した。

大丈夫だいじょうふが国を建てるのであれば、世のあらゆる者を超えねばならぬ。漢を名乗って靳準に統べられることなどあり得ぬ」

 劉曜は進言に従い、国号を趙に改めることとした。

「尊号を称されるには時機尚早です。ましてや国号を改めるなどなりません。高祖こうそ劉邦りゅうほう開闢かいびゃくより五百年、民は大漢の徳を慕っております。それゆえにこそ、王莽おうもうを滅ぼして光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)の再興を輔け、曹丕そうひに対して昭烈帝しょうれつてい劉備りゅうび)を保ち、司馬氏を破って先帝に服したのです。これはすべて、漢を慕う人心によるものです。一旦に国号を変えてしまえば、人心は変じて従う者はいなくなり、軍勢も解体しかねません」

 関心、呼延寔こえんしょく、楊継君が諌めると、劉曜は遊子遠に是非を問うた。答えるより先に鄭雄たちが言う。

「陛下の英雄は先帝に勝ります。豪傑が自ら立つにあたり、どうして区区として前者の轍を気にしましょうか」

 それを聞いた劉曜はついに袂を払って叫んだ。

「常々漢の国号を称しても国運が短いことを嫌っておった。先に蜀に帝位を称して今は平陽に拠るが、いずれも短命に終わろうとしておる。どうして漢の国号に拘る必要があろうか」

 ついに劉曜は大趙の皇帝と称して年号を光初こうしょと改め、百官を置くこととなった。石勒の許に人を遣わして趙王に封じ、九錫きゅうしゃくを加えて行大司馬事に任じ、山東と山西の軍事を一任する旨を申し伝える。あわせて軍勢を平陽に進めるよう促した。

 

 ※

 

 帝位に即いた劉曜の詔を一読した石勒は喜ばず、襄國に人を遣わして張賓ちょうひんに諮ろうと考えた。

 この時、張賓は漢の滅亡を深く悼んで食が進まず、従軍に堪える体ではなかったため、家にあって漢帝の霊を祀っていた。しかし、石勒の軍勢が滞留して平陽に進んでいないと知ると、車に載って石勒の軍勢に馳せ向かう。

「老臣は家にあって喪に服しておりましたが、聞くところ、将軍は逆賊の討伐を怠っておられるとか。それゆえ、病身ではあれども軍勢に従って犬馬の労を致し、先帝の恩に報いたく存じます」

 軍営に姿を現した張賓がそう言うと、石勒は詫びて言う。

「すみやかに平陽に入って逆賊を滅ぼそうと思わぬわけではないのだ。劉永明りゅうえいめい(劉曜、永明は字)が帝位に即いて吾を趙王に封じ、九錫を加えて大司馬の任を果たすよう命じておる。思うに、まずは逆賊を滅ぼした後、吾らの推戴を受けて帝位に即くのが道理というものであろう。ほしいままに帝位に即いて吾を封じるとは、吾はこの封爵を受けるつもりはない。それゆえに、軍勢を留めて右侯ゆうこう(張賓)の意見を聞きたく思っておったのだ。幸いにも自ら来てくれるとは思っておらなんだが」

「趙王に封じられるならば吉兆というもの、受けられればよい。先に『石姓を趙姓に改められるには及びません。いずれ国を建てた際に趙と名乗ればよいのです』と申し上げておりました。劉曜が将軍を趙王に封じたのは天意というものです」

 石勒はその言に従って封爵を受け、使者に篤くまいないして帰らせた。

 

 ※

 

「劉曜の封爵を受けては命に従うよりなくなる。果たして志を得られようか」

 石勒が不満げに問うと、張賓は言う。

「劉永明は匹夫に過ぎません。勇を恃んで人におごり、根本を重んじません。決して何事も為せますまい。さらに、国家の仇に報いず、先に尊号を称して国号を捨てました。どうして人が従いましょう。吾らは漢のために挙兵して軍勢を進めております。帝の仇に報いて漢のために行うのみです。劉曜は漢を捨てて人心に背きました。たとえ逆賊を滅ぼしても、外鎮は命に従いません。不義を行ったからには、その敗亡は旦夕にあります」

「それならば、軍勢を襄國に返すべきであろうか」

「それはなりません。吾らは父祖より漢の禄を食んだ身です。劉曜の行いのために恩を捨てて義を忘れてはならぬのです。ただ、すぐに進んではなりません。劉曜に使われて敵の精鋭にあたるより、その遣り様を見つつゆるやかに進むべきです。劉曜が平陽に向かうならば、吾らも長駆して向かわねばなりません。公事に勤しめば、大義は吾らより離れぬものです」

「しばらくはこの地に軍勢を留めるとするか」

「いや、まずは平陽の近郊まで軍勢を進めます。逆賊を討つと宣言した上で周辺の郡縣を取り込み、人心の向背を測るのです。漢の徳を忘れていなければ、人々は争って従いましょう。その時には、ただちに軍勢を進めて平陽を落とし、逆賊を滅ぼして莫大の勲功を建てるのです。その上で、劉曜の出方を探れば吾らは有利な立場にいられます。しかし、人心が漢より離れて人が従わなければ、平陽は易々とは落とせません。その際には、長安と青州の軍勢を待って一斉に攻めるべきです。さすれば、無用の害を受けずして義を果たせましょう」

 石勒はその言に従い、軍勢を平陽の境まで進める。そこで近隣の郡縣に高札を掲げて言う。

「吾は三十万の大軍を率い、趙王は関中の精鋭二十万、曹都督(曹嶷そうぎょく)の青州兵十万、さらに太常たいじょう劉雅りゅうがが率いる十万も平陽に向かい、逆賊を誅殺せんとしている。漢のために仇に報いたい気持ちがあるならば、誰であっても吾が軍門に迎え入れる。逆に、吾が命に従わぬ者は兵を遣わして討伐されるものと心得よ」

 それより十日を過ぎず、石勒の軍に加わる者と近隣の郡縣で従う者がそれぞれえ四、五万人もあった。それを知ると、石勒は漢の高祖こうそ劉邦りゅうほうに倣い、劉燦の位牌を陣頭に立て、将兵は白一色に戎装じゅうそうして喪に服する意を示す。

▼劉邦は項羽こううと敵対する際、項羽が楚の義帝を弑虐したとしてその喪に服し、軍勢はすべて白ずくめとした。石勒はその行いに倣っている。

 それより近隣に檄文を飛ばし、日を定めて平陽を攻めると宣言した。檄文を受けた近隣の者たちは兵や糧秣を送り、石勒の軍勢は日に日に膨れ上がっていく。その一方、人を平陽に遣わして靳準に投降を呼びかけることも忘れてはいない。

 

 ※

 

 石勒の軍勢が近隣を従えたと知り、靳準は懼れて衆人に進退を諮った。

「劉曜の軍勢は李矩に阻まれたものの、石勒の軍勢が近郊まで迫っている。これは張賓の計略によるものであろう。このまま戦となっては到底勝ち目はない」

 金吾きんご将軍の秦璉しんれんが言う。

▼「金吾将軍」という官はない。執金吾しつきんごと同じく皇帝の身辺警備にあたる職と解される。なお、「秦璉」は『通俗』では「泰璉たいれん」とするが、誤字と見て『後傳』に従う。

襄國公じょうこくこう(石勒)は少帝しょうてい(劉燦)のために服喪し、義兵の旗を掲げております。名分を備えているため、民は影のように従って近隣の郡縣も糧秣を供しております。民の心は離れており、その軍勢が城下に現れれば城内の民も争って迎え入れるでしょう。そうなれば、吾らは身の置き所もございません」

「それがもっとも恐ろしい。矛を逆しまにして吾らを攻める者さえ現れよう。石勒に和を求めて軍勢を引かせ、身の安全を保たねばならぬ。しかし、石勒が受け入れるかは判じがたい。能弁の士を遣わして成功するかどうかであろう」

 秦璉の副官を務める喬泰きょうたいが言う。

「臣が皇帝の御服ぎょふく国璽こくじを奉じて石勒を説得いたします。さすれば石勒も和議を受け入れましょう」

 靳準は書状をしたためると喬泰に与える。その書状は次のようなものであった。

 

 この靳準は国戚こくせきとして先帝より委任を賜ったものの、少帝は政事を顧みず人倫にもとる行いを繰り返しました。諸大臣は兵禍を招くのではないかと憂え、それがしを謀主として伊霍いかくことを行って漢の社稷を安んじようとしたのです。

 図らずも、龔通きょうつう葉聚しょうしゅうが百官を害し、累は少帝と宗室四十名にまで及びました。これは、大将軍の劉暢りゅうちょうらが吾が一族を滅ぼそうと企て、それを毛勤じょうきんが吾が弟の靳明きんめいに報せ、恐怖に駆られて行ったことです。

 これは騎虎きこいきおいによるものであり、吾が本心ではありません。趙王を帝位に迎えようと図るも、百官は自らの身を火中に投じる行いであると阻み、それゆえにいまだ行っていないのです。思うに、明公は漢の元勲であって帝位に即かれるに相応しいお方、朝廷でもそのように議論しておりましたが、多事によってお迎えにも出られませんでした。

 これらの事情を斟酌しんしゃく頂けるよう、伏してお願い申し上げます。

 謹んで喬泰に皇帝が用いる御物を与えて明公に奉げます。日を選んで帝位にかれれば、吾らは藩臣として外鎮を守り、属国として永く朝貢いたしましょう。

 帝位という大器は某が妄りに望むところではございません。

 千回も頓首とんしゅし、ご嘉納頂けるようお願い申し上げます。

 

 石勒はその書状を読むと、靳準に推戴されて帝位に即くか否かを張賓に諮った。

「なりません。士民が将軍に従っているのは、漢の仇に報いるという名分に従っているのです。帝位に即かれれば、やはり私心であったかと見限られ、民心は変じましょう。大事を行う者はすべて民心に拠ります。靳準の妄言に従っては、士民は将軍の行いを嫌いましょう。属国になるなど馬鹿馬鹿しい。百戦して平陽を落としても構わぬのです。しかし、逆賊を許して大事業など成せましょうや。必ず、逆賊を誅殺して罪を正し、世人の戒めとせねばなりません。それが道理というものです」

 石勒はその言に従い、喬泰を捕らえると劉曜の許に送り届けたことであった。

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