第三十二回 靳準は漢を滅ぼして平陽を乱す

 漢主の劉燦りゅうさん漢昌かんしょう元年(三一八)、漢は柱石の臣である劉景りゅうけい劉驥りゅうきを喪った。謀臣の遊光遠ゆうこうえんも劉燦の命を受け、銭糧の確認と官吏の考課のために郡縣を巡っている。

 この時、軍国の大事は靳準きんじゅんとその兄弟に握られ、後宮は娘の月華げつかが統べて宦官の王沈おうちんがそれを輔ける。外では曹嶷そうぎょく李矩りく祖逖そてきが靳準と結んでおり、漢を覆す謀略はすでに成っていた。

 密かに腹心の毛勤もうきん孟漢もうかん丘麻きゅうま方寔ほうしょくを召して言う。

「漢主は不道にして太后は人倫にもとっており、人はみなそのことを怒り、天は漢を滅ぼそうとしておる。事を起こさねば、余人が代わって行うだけであろう。吾は国戚こくせきの身であれば、看過するわけにはいかぬ。お前たちは吾が家将、昏君こんくんを除くにあたり、吾がために一臂いっぴの力を貸して人に遅れをとってはならぬ。事が成った暁には、必ずや富貴ふうきを共にしようぞ」

 靳準の言葉に毛勤と孟漢が応じる。

丞相じょうしょうのご命令とあれば、犬馬の労を厭わず、これまでの御恩に報いて御覧に入れましょう。改めて願われるには及びませぬ」

 それより、翌日に迫る諸葛宣于しょかつせんうの誕生日に際しての計略を定めた。

 靳術きんじゅつと丘麻は一万の軍勢を率いて様子を窺い、隙を突いて宮城の門を掌握する。靳明きんめいと孟漢は五千の軍勢を率いて時を待ち、百官が祝宴に赴いたと観れば、宮城に攻め入って漢主と劉氏の一族を害することとなった。

 その際、一人たりとも生き延びさせぬよう厳命した。

 

 ※

 

 翌日、靳準は遊光遠と呼延寔こえんしょくを含む文武の官とともに、諸葛宣于がある丞相府に赴いた。祝宴が始まる頃、毛勤と孟漢は五千の軍勢を率いて宮城の門に攻めかかる。

 この時、東宮の護衛は葉聚しょうしゅう龔通きょうつうという者が務めており、鬨の声を聞いて外に出れば、毛勤たちの軍勢が攻め寄せてくる。

「ここは禁門である。お前たちは何者か。ほしいままに入ろうとするとは、叛乱でも起こすつもりか」

 二人が一喝すると、靳明が応じる。

「お前たちは宮中で変事が起こっておると知らぬのか」

 その言葉に狼狽するところ、葉聚は早くも毛勤に斬り伏せられる。龔通が叫んだ。

「変事とはお前たちの叛乱であろう。すみやかにこれらの者どもをとりことせよ」

 その声に応じて禁衛兵が攻めかかり、龔通も大刀を振るって宮中に入ろうとする賊徒を斬り殺す。この時、門を守る兵は三千に及ばず、攻めかかる五千の精兵に及ぶべくもない。

 力戦する龔通であったが、靳明の一刀を浴びると、乱兵に突き殺された。龔通の戦死により禁衛の兵は乱れたち、城門の内に逃げ去っていく。

 

 ※

 

 靳明が逃げる兵を追って宮中に入ると、宦官の夏廣かこう劉勝りゅうしょうが飛び出して問うた。

「お前たちは何ゆえにこのような無礼を働くのか」

 言い終わる前に兵士に打ち倒され、続々と後に続く兵によって踏み殺された。兵士たちは宮中の諸門を破って奥へと踏み込んでいく。

 漢主の劉燦は叛乱を知ると翠華楼すいかろうに逃れ、宮内にある月華に呼びかける。

「何故かは分からぬが、宮中に賊徒が攻め込んでおる。勢いは凄まじく、それゆえに朕はこの楼上に逃れたのだ」

「吾が父を呼んで賊徒を取り押さえさせましょう」

 月華の言葉に劉燦が叫び返す。

「そうしようにも朕の命を伝える者がおらぬ」

 しばらくすると、兵士たちが翠華楼に踏み込んできた。

「お前たちは敢えて天子を冒すつもりか」

「無道の君を捕らえよとの丞相のご命令です」

 ついに靳準の差し金と知り、劉燦は月華を指さして罵る。

「お前たち父子は恩を忘れて義に背き、讒言して二王を害したのもこのためであったか。朕の命を容易く奪えると思うな。朕の身に万一のことがあれば、大漢の臣宰たちが黙ってはおらぬ。必ずやお前たちを許すまい」

「無道にも先君の定めた皇后を犯してわらわを穢し、今さら父母君臣の礼など口にするにも及ぶまい。死罪になって当然であるにも関わらず、なお妾を不義と責めるつもりか。すみやかに捕らえて引きずり下ろせ」

 月華の命を受け、靳明は漢主を捕らえると諸々の妃嬪きひんと合わせて殺害した。この時、平陽へいようにあった劉聰りゅうそうの子孫はすべて殺され、生き残った者はいなかった。

 

 ※

 

 靳術は宮中の叛乱が成功したと知り、軍勢を率いて丞相府に向かう。

「百官どもを宮中におびして従えねばなりません」

 靳術は靳準にそう言うと、変事があったと偽って百官を宮中に召し入れる。宮中に入れば庭を囲むように靳明が率いる兵士が居並び、堂上の御簾みすが上がると、劉聰の皇后であった月華の姿が現れる。

「劉燦は無道にも妾らを穢さんとし、樊后はんごうは害され、劉后りゅうごう王后おうごうを枕頭に侍らせた。父母君臣の礼を欠いた禽獣の行いである。それゆえ、丞相は司馬しば司寇しこうに命じて昏暴こんぼうの君を除き、文武の官を召して後事を諮ろうとされておる」

 靳準が進み出て言う。

「皇太后はしばらく後宮に戻られ、吾らの議論をお待ち下さい」

 二人の遣り取りを傍らより聞いていた遊光遠が色をなす。

「聖上はどこにおられるのか。すみやかにお会いせねばならぬ」

翠華園すいかえんにおられる」

 靳術の言葉を聞くと、遊光遠は駆け出した。百官がその後に続こうとすると、靳明に従う兵士が剣を抜いて止める。

「劉燦は己の無道のために殺された。お前たちが行ったところで無益であろう。それよりも大議を定めねばならぬ」

 靳明はそう言い、百官は害されるかと怖れて足を止めた。靳準が言う。

「遊大夫はおられぬが、みなの高見を伺おう」

「すでに丞相が天意に従って行われたこと、ただそのお言葉に従うのみです。それがしらの如き凡庸の才では、議論するにも及びません」

 百官は畏れてそう言い、靳準が言葉を継ぐ。

「吾は始安王しあんおう劉曜りゅうよう)を帝位に迎えるべきと思うが、百官はどのように思うか」

 その意図を知ったものの、百官のいずれも命を惜しんで答えない。靳術が進み出て言う。

「始安王は勇猛ですが殺戮を好みます。丞相は劉氏の老若を問わず誅殺されました。この仇は海より深く、山より重いもの、劉氏を再び帝位に迎えれば一門を滅ぼされるのみです」

「それならば、誰を帝位に迎えるべきか」

 靳準が問うと、王沈、郭猗かくい、靳術、毛勤らが口を揃えて言う。

「今の朝廷にある者を観るに、帝位に即くべき者は丞相を措いて他におりません。それでこそ、百官も従うというものです」

 その言葉を聞くと、靳準は己を偽って謙退し、百官に有徳の者を薦めるよう命じる。ここで余人の名を挙げれば必ずや害されると怖れ、百官は平伏して言った。

「丞相はすでに朝政を執られる身、ただ丞相の決定に従います」

 靳準はついに大将軍、統漢天王とうかんてんのうを自称して国政を握ることとした。

 

 ※

 

 劉燦の遺体に哭した遊光遠は、靳準に会いもせず私邸に帰り、変事を報せるべく諸葛宣于の許に逃れた。子の諸葛武しょかつぶが門を開いて迎え入れる。

「このような夜半に来られるとは、何事かがございましたか」

「にわかにお話できるような小事ではない。まずは丞相にお会いしたい」

 二人は諸葛宣于が休む部屋に入り、椅子に座る。諸葛宣于は床に就いていた。

「靳準と王沈が叛乱して老若を問わず劉氏を殺戮し、あわせて三百人が殺されました。靳準は統漢天王と自称し、国政を私するつもりです」

 諸葛宣于が言う。

「この二日ほど、心神が安からず夜も眠れなかった。このような事態に立ち至るであろうと予想はしておったが。吾らは家を捨てて劉氏を支え、いささかの功業を建てて永く富貴を得られると思っておった。一旦に賊徒が劉氏を滅ぼして吾らの労を無に帰してしまったか。吾はすでに年老い、この逆賊を討ち滅ぼせぬ。このままでは往時の労苦もすべて水泡に帰そう。もはや取り返しがつかぬ」

 そう言うと、一声嘆いて倒れ臥す。諸葛武が駆け寄ると、もはや脈もない。

「丞相を擁して逆賊を滅ぼそうと考えておったのに。天は漢室を見捨てられたのか」

 遊光遠は大哭し、その声を聞いた家族も駆けつける。諸葛宣于の死を覚り、一家の者たちは残らず哭声を挙げた。

「吾はもはや生きられぬ。平陽は必ずや廃墟となろう。お前たちは吾の霊柩を奉じて諸葛武侯しょかつぶこう諸葛亮しょかつりょう)の傍らに葬れ。そうすれば、子孫は繁栄して富貴を得られよう。ただ、始めの二十年は大殺の凶にあたり、この間は耐えねばならぬ。このことを忘れるな」

 諸葛宣于は諸葛武にそう言うと、遊光遠を見て言う。

「吾はもはや国家に報いることはできぬ。後事は公に託するよりない」

 そう言い終ると、ついに諸葛宣于は世を去った。遊光遠はその屍に再拝して嘆く。

「漢の仇をどうすればよいのか。誰がよく逆賊を滅ぼせよう」

「この平陽は靳準に従う者ばかりです。一人、二人では逆賊を滅ぼせません。公に忠義の心があり、先帝の厚恩を忘れておられぬならば、長安に逃れて始安王に報せ、挙兵して逆賊を滅ぼすのが上策です。吾らはお力にはなれません。ただ霊柩とともにこの地を離れるのみです」

 諸葛武はそう言い、遊光遠は長安に向かうべく諸葛宣于の府を辞した。密かに城門を出ようとすれば、折から呼延寔と行き会った。呼延寔も平陽を捨てて逃れようとしていたのである。

 二人はともに夜陰に乗じて平陽を出て、長安に向かった。

 靳準は遊光遠が平陽を去ったと知り、必ずや劉曜に降って報復に出ると考えた。毛勤、孟漢、丘麻、方寔に命じて劉淵りゅうえん、劉聰や親王、皇后の墓を掘らせ、埋葬されていた宝物を李矩と祖逖に贈って劉曜を足止めするよう求める。

 この時、いずれも棺も破って火をかけられたが、皇太弟の劉義りゅうぎの墓はその地になく、難を逃れたことであった。

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