第二十四回 韓璞は上邽に陳安を破る

 南陽王なんようおう司馬保しばほは、夏文かぶんの献策を容れて城を堅く守ることとした。陳安ちんあんは城を囲み、攻城戦が始まった。城内の八将は分担して城門を守り、夜も城壁上で仮眠して離れない。

 一月が過ぎても援軍は到らず、攻めつづける陳安も城を落とせなかった。それでも城内の兵糧は日々に乏しくなり、まず牛犬が殺されて食糧となり、ついで軍馬の半ばがその後を追った。

 城民の家から食糧を供出させて市場では一斗(約10.7ℓ)の米が一両以上も高騰し、それだけの値を揃えてもなかなか手に入らない有様となった。ついに城民から餓死者が出始めた。

 城内が不穏な空気に包まれるところ、陳安の軍営に斥候が駆け戻って涼州りょうしゅうからの来援が到着したと報せる。城内には無傷の軍勢があってさらに涼州軍まで来ては、さすがの陳安にも勝算はない。

 陣を払って隴西ろうせいに軍勢を返そうとしたものの、すでに韓璞かんはく率いる涼州軍は三十五里約20kmまで迫っていた。軍勢を返す隙を突かれることを懼れ、陳安は平川へいせんに軍勢を移して待ち受ける。

▼「平川」は開けた野を意味する一般名詞とも考えられるが、『晋書』乞伏乾歸伝には氐王の楊定が平川で乾歸の軍勢を破ったと記されており、地名と見られる。詳しい場所は詳らかでない。

 韓璞もまた陳安の陣に対して布陣し、両軍の睨みあいとなる。陳安は左右に三日月型の刃を備えた双戟そうげきを手に馬を出して言う。

「涼州軍の将は何者か。事情を知る者であるならば吾が言を聞け。南陽王は愚かにも吾が忠言をれず、密かに張春ちょうしゅんを刺客として差し向けたのだ。それゆえに吾は隴西に逃れた。さらに、吾が行くところもないと知りつつ呼び戻しもせず、かえって軍勢を差し向けて誅殺せんと図ったのだ。ゆえにその仇を雪ごうとするのみである。将軍は事情も知らず、南陽王の誣告を聞いて遠路をここに到ったのであろう。それでも南陽王を助けて吾を討たんとするのか」

「お前は晋の臣、代々その禄を食んできたはずだ。国家の危難を見れば恢復に力を尽くして勲功を建てんと思うのが当然であろう。それが、叛いて主を攻める逆臣となるとは、無辜であるとは言い張れまい。吾は涼州の韓璞である。長谷ちょうこくで吾が糧秣を奪ったことは覚えていよう。速やかに馬を下りて投降せよ。ともに長安ちょうあんを恢復して竹帛ちくはくに名を垂れれば、これに過ぎる功名はあるまい」

「長谷では叛乱した羌族きょうぞくが吾に救いを求めたのだ。吾は軍勢を出したものの晋兵を襲ってはおらず、ただ道を塞いだに過ぎぬ。それが証拠に、将軍が長安から涼州に還るに際してそれを阻みはしなかった。南陽王は長安の失陥を救わず、密かに自立を図っている。これを忠義などと言えようか。それでも涼州軍は南陽王を救うというのか」

 縷々るると述べる陳安に、韓璞は怒って言う。

乱臣らんしん賊子ぞくしは誅に伏するもの、余人をそしっている場合ではないぞ」

 言い放つと馬腹を蹴って斬りかかる。陳安も戟を振るって斬り止め、右に左に馬を馳せてたちまち戦うこと三十合を過ぎる。互角の戦いがつづくところ、上卦の諸将が城上より立ち上る塵埃を見て来援を知った。

 夏正かせいと夏文が一万の軍勢を率いて西門より討って出れば、和苞わほう蓋濤がいとうは北門から飛び出す。背後に新手を迎えた陳安の兵は浮き足立ち、支えきれずに北を指して逃げ奔る。

 夏文は韓璞に馬を寄せて言う。

「陳安は狡猾で知略に秀でる。隴城ろうじょうに逃げ込まれては後患となるは必定、厳しく追って討ち取り、後患を除かねばなりません」

 韓璞もその言に同じ、軍勢を合わせて陳安の後を追った。


 ※

 

 陳安が隴城に近づく頃、夏文たちはそのすぐ後に迫っていた。城に入る暇を与えられず、漢に降るべく馬頭を西の長安ちょうあんに転じる。韓璞はそれを見ると、陰預いんよと和苞に間道から先回りして道を阻むよう命じた。

 長安への道を断たれた陳安は、背後を韓璞と夏文らに阻まれてやむなく南に転じる。梁州りょうしゅうとの境に軍勢を留めて仇池きゅうちに人を遣わした。その地を支配する氐族ていぞく楊難敵ようなんてきに救援を求めたのである。

 もともと、楊難敵は晋に与して漢を拒もうと考えており、晋に叛いた陳安からの求めを峻拒しゅんきょした。拒まれた陳安は弟の陳宏ちんこうを蜀に遣わし、成国せいこく李雄りゆうに降る旨を伝え、代わりに援軍を求める。

 李雄はその投降を許して陳安を梁州りょうしゅう都督ととくに任じ、張咸ちょうかんを援軍に遣わした。さらに、陳安と張咸を監督させるべく、閻式えんしきの子の閻明えんめいに三万の軍勢を与えて隴城の奪回を命じる。

 韓璞は成の来援を知ると、出兵が長引くことを嫌って涼州に軍勢を返そうと考えた。どのように切り出したものかと思うところ、張寔より使者があって言う。

鉄弗てつぶつ劉武りゅうぶが州境を犯しており、韓瓚が軍勢を発して応じているものの苦戦している。速やかに軍勢を返して鉄弗の跳梁を許してはならぬ」

▼「鉄弗」は河西にあった匈奴きょうどの一部族、父が匈奴で母が鮮卑せんぴの児を鉄弗と呼んだと伝わるが、定かではない。

 その書状を一読すると、韓璞は軍勢を取りまとめ、和苞や夏文に見えて帰国せねばならぬ事情を伝える。夏文たちは隴城の府庫より財貨を与えてその労に報い、拝謝して言った。

「将軍の来援により吾らは救われました。糧秣が少なく、帰国にあたって餞もできませんが、上卦に戻った後に改めて御恩に報いさせて頂きたい」

 韓璞は涼州軍を率いて西に還っていった。

 

 ※

 

 この時、だいに拠る鮮卑せんぴ拓跋部たくばつぶでは拓跋たくばつ鬱律うつりつ拓跋たくばつ猗盧いろの跡を継いでいた。先に鬱律が子の六修りくしゅうと争って国を乱すより、国内が治まらずにいた。

 そのため、隣接する劉武たちは侮ってその境を侵したのである。

 その代に幽州から逃れた王浚おうしゅんの旧将たち、王昌おうしょう孫緯そんい王甲始おうこうしが三万の軍勢とともに身を投じる。それより広く兵を募って軍勢は二十万を超え、かつての国威を取り戻しつつあった。

 劉武はその事情を知らず、弟の劉斌りゅうひんを遣わしてさらに代との境で掠奪させる。拓跋鬱律はそれを知って怒り、諸将を集めて鉄弗の討伐を諮った。

 猗盧の頃からの宿将である西渠せいきょが言う。

「劉武の麾下には鉄弗てつぶつ統制とうせいと呼ばれる者があり、死を懼れずに向かって参ります。そも武器は重く、人も馬もその前に立てば無傷ではおられません。歩兵を率いて隠密に動くため、奇襲を受けることもしばしばです。軍中にこの者がいなければ、戦となっても五分で戦えましょう」

「卿の言うところは、劉武の跳梁を許せということか。それでは話にならぬ」

 鬱律がそう苦りきると、幽州から投じた孫緯が言う。

「将たる者の任は計略にあって勇戦にはありません。項羽こううは山をも引き抜く力がありましたが、韓信は奇計により打ち破りました。鉄弗の者どもはいまだ中国の計略を知りますまい。小将しょうしょうの麾下の一軍を先鋒に任じて頂ければ、大王のために鉄弗を破ってその巣穴そうけつを突いて御覧に入れましょう。鉄弗統制なる者が出戦するならば、首級を挙げて後患を断つのみです」

 鬱律はその言に従い、孫緯を先鋒にして王昌と王甲始を左右にえ、麾下の三万の兵とともに鉄弗の在所に先発させる。自らは西渠と趙延ちょうえんとともに後詰となった。

 

 ※

 

 鉄弗まで百里(約56km)に近づく頃、進路に山が現れた。そも麓は数里ほどもつづいて左右は絶壁が迫る。岩がちなために草木は生えず、凹凸のある岩間は兵を伏せるに好適である。さらに数里を行けば平野が広く開け、遠く四方を山嶺に囲まれている。

 孫緯はその地形を観ると一計を案じ、軍勢を留めて鬱律の到着を待った。日暮れの頃に後詰が到れば、孫緯は迎えて計略を開陳かいちんする。

「劉武は一国を建てて兵威と険隘を誇っておりますが、この要衝に関塞を設けぬとは明かに無能です。二将に一万の軍勢を与えて北の山谷に伏せ、山間の隘路には左右に隙間なく弩兵を伏せて敵が到れば射かけさせます。主上は一万の軍勢で隘路の入口を塞ぎ、木石を集めて敵を待たれよ。小将が高台に上がって指麾を取れば、鉄弗を滅ぼせましょう」

 諸将はその命に従って散り、孫緯は代王の軍旗を掲げて三万の軍勢とともに劉武の許に進んだ。

 劉武は代軍の侵攻を知ると、鉄弗統制を先鋒に五万の軍勢を発する。自らは中軍を率いて三十里(約18.3km)先にある盤蛇谷ばんじゃこくの隘路を塞いだ。

 翌日、孫緯の軍勢が攻め寄せると、劉武は駱駝らくだに乗って鉄弗統制とともに陣頭に出る。大刀の先に孫緯を指して言う。

「それぞれに境を定めているにも関わらず、ゆえなく兵を興して境を侵すとはどういう料簡であるか」

「お前はその法を破って代の境を度々侵して民を苦しめている。それゆえに兵を興したのだ。いまだに自らの罪を知らぬというのか」

 孫緯の言葉に劉武が怒って言う。

「まるで兵を興せば吾らに勝てるような口ぶりだな。お前を生きながらとりことして吾らの兵威を見せてやろう」

 傍らの鉄弗統制が物も言わずに飛び出した。孫緯は西渠の言に従ってひたすらに猛攻を避け、敢えて勝とうとはしない。半時を過ぎても勝敗を見ず、孫緯の馬は鉄弗統制の叫び声に愕いて二十歩ほども退いた。

 孫緯はその機に乗じて馬頭を返し、背後を指して逃げ奔る。鉄弗統制は二万の兵を率いて後を追い、劉武も全軍を率いてそれに続く。孫緯の駿馬は脚が速く、二十里(約11.2km)も行けば両者の間にかなりの差が開いた。

 馬を停めて敵を待てば、鉄弗の軍勢が追いついてくる。孫緯は一しきり戦うとまた馬を返す。鉄弗の兵が喚声を挙げて後を追い、代兵は後も顧みず谷口に逃げ込もうとする。偽って道を争うふりまでした。

「敵の行く先は隘路でにわかに逃れられぬ。ここで皆殺しにせよ」

 鉄弗統制が叫び、兵とともに隘路に飛び込んでいく。


 ※


 孫緯は谷口に近い高台に上がり、兵を並べて弓弩を射かける。砲声を合図に隘路に伏せた兵が発するも、鉄弗統制は勇を頼んで孫緯のある高台に攻め上がった。待ち受ける孫緯はその姿を見ると一斉に矢を放たせ、鉄弗統制は数矢を身に受けて攻め込めない。

 そこに木石を崖上に引き揚げていた鬱律がそれらを投げ落とし、瞬く間に積みあがって孫緯に向かう道を塞いだ。攻めきれないと見切って背後を顧みれば、谷口までの道を阻む兵はない。隘路から走り出ると、谷口には西渠と趙延の軍勢が布陣して前を阻む。

 鉄弗統制が怒って攻めかかれば、代兵はただ矢を放って近づけない。身に矢を受けながらも代の軍列に斬り込み、前を阻む兵を草芥のように打ち殺していく。

 王昌と王甲始はその様を見て背後から攻めかかり、前後に敵を受けて鉄弗の兵は次々に屍を野に晒す。ついに鉄弗の軍勢は潰走し、二将軍が一斉に矢を放たせれば鉄弗統制も矢雨の下に斃れた。

 劉武の軍勢が到着した頃には、すでに鉄弗統制は討ち取られて先鋒の軍勢は四散していた。怒って兵を進めると、軍勢を合わせた西渠、趙延、王昌、王甲始の四将は陣を固めて矢で近づけない。そこに鬱律と孫緯の軍勢も駆けつける。

 折から日も暮れ、代の援軍を見た劉武は速戦を避けて布陣し、戦は翌日に持ち越しとなった。

 翌早朝、代軍の趙延が軍勢を進めた。劉武は全軍を進めて迎え撃ち、それを見た王昌や孫緯も兵を出す。全軍での混戦となって巻き上がる塵が日を蔽い、白昼にも関わらず先を見通せない。激戦に野は屍で埋まって地が数里に渡って流れた。

 鉄弗統制を喪った劉武の麾下には将が少なく、ついに総崩れとなって逃げ奔る。代兵は夜闇を冒して後を追い、劉武は北の蠕蠕ぜんぜんに身を投じた。拓跋鬱律は劉武の故地と部族を併せ、その威勢は近隣に轟いた。

 拓跋部の領地は西は西域の北の烏孫うそんに及び、東は遼河りょうが沿岸の勿吉こつきつに到り、北は砂漠まで及んで三十万を超える騎兵を擁し、拓跋猗盧の頃を越える盛強を誇るまでになった。

 

 ※

 

 拓跋鬱律が代に還って論功を行い、劉武の故地を安撫する人を選ぼうとするところ、劉武の弟の劉斌も敗報を知って塞外に逃れたとの報せが到った。孫緯と王昌は鬱律に勧めて言う。

「江南にある晋朝に戦勝を上奏し、境を接する幽州、遼東りょうとう、涼州、隴西の疑念を拭っておかれるのがよいでしょう」

 鬱律はその言に従い、上奏文をしたためると江南にある晋帝の司馬睿しばえいの許に人を遣わす。晋帝はその上奏をよみしたものの、嘆息して思った。

「辺境の夷狄いてきでさえも日々に領地を広げて強盛となっておる。朕は中華の皇帝でありながら、仇に報いて河北かほくを恢復できておらぬ」

 その心は鬱々として楽しまず、夜半になっても眠れない。この日は建武けんぶ三年(三一九)十一月の朔日さくじつであった。夜が更けた頃、新月であるにも関わらず、窓から光が差しているのに気づいた。

▼「建武」の年号は、即位した三一七年に改元されたものの、翌年には太興に改元されており、建武三年はない。朔日は月の初め、一日を言い、新月にあたる。

 いぶかしく思って庭に出てみれば、紅い日が五丈(約15.5m)ほどの高さに浮かんでいる。近侍する者に命じて天文の官を召し、これが如何なるきざしであるかを諮った。

「これは陰陽が錯雑し、多くの者が天下に主たらんと欲する、不祥の兆しでございます」

 翌日、郭璞かくはくを召して吉凶を占うよう命じる。

「天道は深遠なもの、占うにも及びませんが、軽々しく口にできません」

 そう言うと、左右を顧みた。晋帝が人払いをすると、郭璞はようやく言う。

「これは、官吏が職を失って陰陽が転倒する兆し、ただ国政を正して天変を避けるよりございません」

 その言葉を聞くと、晋帝は詔を下して郡縣の官吏が民を苦しめることを戒め、建康けんこうの百官には朝政の得失を直言するよう命じた。官吏の悪事を取り締まる御史ぎょし中丞ちゅうじょう熊遠ゆうえんは、朝廷がただ縁故により高官を選び、州郡より推薦される人材は試験を経ずに任官される有様を鑑み、古の制にならわないことによる国家の三失を上奏した。


 夷狄が河北に横行して先帝の霊柩れいきゅうは返らず、将兵を励まして仇に報いておりません。これが一の失です。

 官吏はそのことを恥とも思わず、ただ安逸を望んで酒に溺れ、職務をないがしろにしております。これが二の失です。

 官吏を選ぶにあたって徳を問わず才を求めず、ただ縁故によっております。これが三の失です。

 このため、官吏となった者たちは政治を凡俗の行いと卑しみ、政事を行う者は苛酷であれば有能とされ、礼を尽くす者はへつらっていると見なされ、無能な者は風雅であると尊ばれ、放縦は者は事に達していると讃えられ、奢侈が高尚であるとされています。このため、官吏は職務を果たさず、陰陽が整わぬのです。

 古に人を挙げるには、上奏させて才を試しました。今はその任にある者がその才を試しておらず、古の制を違えております。結果として賢人を残らず挙げられず、君子の多くは朝廷に出仕せず、野に隠れているのです。

 世人は、法は権貴に及ばず、官吏の才は時務を濟うに足りず、奸悪であっても罪を問われることがないと申しております。

 もしこの弊風を改めず、遊宴を禁じず、乱世を救って統治の実を挙げようとされたところで、到底叶いますまい。

 

 熊遠の上奏は晋帝に容れられなかったものの、尚書しょうしょ陳頵ちんきんが同様の上奏を行い、その言がれられた。詔が下されて官吏の登用は漢の法に拠ることとされ、試して及ばない者は郡守であっても俸禄を減じることとし、推挙した者が不適格であればその官を免じると定められた。

 このため、縁故で官吏になろうとしていた者たちは、病と称して試験を受けず、二年を過ぎた頃には州郡から濫りに推挙されることもなく、試験に応じる者はよほど優れた者だけとなった。

「先には国家草創の折から官吏に任用する者を試さず、縁故で官途を望む者が競って現れた。今やその力量を試みるとなると、応じる者がいない。先に任用された者たちが不適格でないとどうして言えようか。これまでに任官した者たちの官を除いて罪を懲らしめるべきであろう」

 晋帝がそう言うと、尚書しょうしょ孔坦こうたんが諌めて言う。

「すでに官職を授けており、弊害は時世のやむなきところです。今になって罪を加えれば、朝廷に出仕する者がいなくなりましょう。また、建康の近くに住む知者は罪を懼れて仕官せず、遠くに住む者は以前のように僥倖ぎょうこうを願って官職を求めましょう。これでは、身を謹む者は官職を得られず、僥倖を求める者ばかりとなります。風教の退廃はこれより始まりましょう。詔を下し、遠近を問わず官途を望む者の制限を緩やかにし、これらの者たちを太学で学ばせるのがよろしいでしょう。その上で、官職にある者には職務を尽くして民をしいたげぬようさせれば、法を厳しくせずとも国を治められましょう」

 晋帝はその言に従い、太学にあって七年学んだ者は官吏への登用を試し、官職にある者は月ごとに政績を報告させ、報告が百日を超えて滞った者は職を免じると詔したことであった。

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