第二十四回 韓璞は上邽に陳安を破る
一月が過ぎても援軍は到らず、攻めつづける陳安も城を落とせなかった。それでも城内の兵糧は日々に乏しくなり、まず牛犬が殺されて食糧となり、ついで軍馬の半ばがその後を追った。
城民の家から食糧を供出させて市場では一斗(約10.7ℓ)の米が一両以上も高騰し、それだけの値を揃えてもなかなか手に入らない有様となった。ついに城民から餓死者が出始めた。
城内が不穏な空気に包まれるところ、陳安の軍営に斥候が駆け戻って
陣を払って
▼「平川」は開けた野を意味する一般名詞とも考えられるが、『晋書』乞伏乾歸伝には氐王の楊定が平川で乾歸の軍勢を破ったと記されており、地名と見られる。詳しい場所は詳らかでない。
韓璞もまた陳安の陣に対して布陣し、両軍の睨みあいとなる。陳安は左右に三日月型の刃を備えた
「涼州軍の将は何者か。事情を知る者であるならば吾が言を聞け。南陽王は愚かにも吾が忠言を
「お前は晋の臣、代々その禄を食んできたはずだ。国家の危難を見れば恢復に力を尽くして勲功を建てんと思うのが当然であろう。それが、叛いて主を攻める逆臣となるとは、無辜であるとは言い張れまい。吾は涼州の韓璞である。
「長谷では叛乱した
「
言い放つと馬腹を蹴って斬りかかる。陳安も戟を振るって斬り止め、右に左に馬を馳せてたちまち戦うこと三十合を過ぎる。互角の戦いがつづくところ、上卦の諸将が城上より立ち上る塵埃を見て来援を知った。
夏文は韓璞に馬を寄せて言う。
「陳安は狡猾で知略に秀でる。
韓璞もその言に同じ、軍勢を合わせて陳安の後を追った。
※
陳安が隴城に近づく頃、夏文たちはそのすぐ後に迫っていた。城に入る暇を与えられず、漢に降るべく馬頭を西の
長安への道を断たれた陳安は、背後を韓璞と夏文らに阻まれてやむなく南に転じる。
もともと、楊難敵は晋に与して漢を拒もうと考えており、晋に叛いた陳安からの求めを
李雄はその投降を許して陳安を
韓璞は成の来援を知ると、出兵が長引くことを嫌って涼州に軍勢を返そうと考えた。どのように切り出したものかと思うところ、張寔より使者があって言う。
「
▼「鉄弗」は河西にあった
その書状を一読すると、韓璞は軍勢を取りまとめ、和苞や夏文に見えて帰国せねばならぬ事情を伝える。夏文たちは隴城の府庫より財貨を与えてその労に報い、拝謝して言った。
「将軍の来援により吾らは救われました。糧秣が少なく、帰国にあたって餞もできませんが、上卦に戻った後に改めて御恩に報いさせて頂きたい」
韓璞は涼州軍を率いて西に還っていった。
※
この時、
そのため、隣接する劉武たちは侮ってその境を侵したのである。
その代に幽州から逃れた
劉武はその事情を知らず、弟の
猗盧の頃からの宿将である
「劉武の麾下には
「卿の言うところは、劉武の跳梁を許せということか。それでは話にならぬ」
鬱律がそう苦りきると、幽州から投じた孫緯が言う。
「将たる者の任は計略にあって勇戦にはありません。
鬱律はその言に従い、孫緯を先鋒にして王昌と王甲始を左右に
※
鉄弗まで百里(約56km)に近づく頃、進路に山が現れた。そも麓は数里ほどもつづいて左右は絶壁が迫る。岩がちなために草木は生えず、凹凸のある岩間は兵を伏せるに好適である。さらに数里を行けば平野が広く開け、遠く四方を山嶺に囲まれている。
孫緯はその地形を観ると一計を案じ、軍勢を留めて鬱律の到着を待った。日暮れの頃に後詰が到れば、孫緯は迎えて計略を
「劉武は一国を建てて兵威と険隘を誇っておりますが、この要衝に関塞を設けぬとは明かに無能です。二将に一万の軍勢を与えて北の山谷に伏せ、山間の隘路には左右に隙間なく弩兵を伏せて敵が到れば射かけさせます。主上は一万の軍勢で隘路の入口を塞ぎ、木石を集めて敵を待たれよ。小将が高台に上がって指麾を取れば、鉄弗を滅ぼせましょう」
諸将はその命に従って散り、孫緯は代王の軍旗を掲げて三万の軍勢とともに劉武の許に進んだ。
劉武は代軍の侵攻を知ると、鉄弗統制を先鋒に五万の軍勢を発する。自らは中軍を率いて三十里(約18.3km)先にある
翌日、孫緯の軍勢が攻め寄せると、劉武は
「それぞれに境を定めているにも関わらず、ゆえなく兵を興して境を侵すとはどういう料簡であるか」
「お前はその法を破って代の境を度々侵して民を苦しめている。それゆえに兵を興したのだ。いまだに自らの罪を知らぬというのか」
孫緯の言葉に劉武が怒って言う。
「まるで兵を興せば吾らに勝てるような口ぶりだな。お前を生きながら
傍らの鉄弗統制が物も言わずに飛び出した。孫緯は西渠の言に従ってひたすらに猛攻を避け、敢えて勝とうとはしない。半時を過ぎても勝敗を見ず、孫緯の馬は鉄弗統制の叫び声に愕いて二十歩ほども退いた。
孫緯はその機に乗じて馬頭を返し、背後を指して逃げ奔る。鉄弗統制は二万の兵を率いて後を追い、劉武も全軍を率いてそれに続く。孫緯の駿馬は脚が速く、二十里(約11.2km)も行けば両者の間にかなりの差が開いた。
馬を停めて敵を待てば、鉄弗の軍勢が追いついてくる。孫緯は一しきり戦うとまた馬を返す。鉄弗の兵が喚声を挙げて後を追い、代兵は後も顧みず谷口に逃げ込もうとする。偽って道を争うふりまでした。
「敵の行く先は隘路でにわかに逃れられぬ。ここで皆殺しにせよ」
鉄弗統制が叫び、兵とともに隘路に飛び込んでいく。
※
孫緯は谷口に近い高台に上がり、兵を並べて弓弩を射かける。砲声を合図に隘路に伏せた兵が発するも、鉄弗統制は勇を頼んで孫緯のある高台に攻め上がった。待ち受ける孫緯はその姿を見ると一斉に矢を放たせ、鉄弗統制は数矢を身に受けて攻め込めない。
そこに木石を崖上に引き揚げていた鬱律がそれらを投げ落とし、瞬く間に積みあがって孫緯に向かう道を塞いだ。攻めきれないと見切って背後を顧みれば、谷口までの道を阻む兵はない。隘路から走り出ると、谷口には西渠と趙延の軍勢が布陣して前を阻む。
鉄弗統制が怒って攻めかかれば、代兵はただ矢を放って近づけない。身に矢を受けながらも代の軍列に斬り込み、前を阻む兵を草芥のように打ち殺していく。
王昌と王甲始はその様を見て背後から攻めかかり、前後に敵を受けて鉄弗の兵は次々に屍を野に晒す。ついに鉄弗の軍勢は潰走し、二将軍が一斉に矢を放たせれば鉄弗統制も矢雨の下に斃れた。
劉武の軍勢が到着した頃には、すでに鉄弗統制は討ち取られて先鋒の軍勢は四散していた。怒って兵を進めると、軍勢を合わせた西渠、趙延、王昌、王甲始の四将は陣を固めて矢で近づけない。そこに鬱律と孫緯の軍勢も駆けつける。
折から日も暮れ、代の援軍を見た劉武は速戦を避けて布陣し、戦は翌日に持ち越しとなった。
翌早朝、代軍の趙延が軍勢を進めた。劉武は全軍を進めて迎え撃ち、それを見た王昌や孫緯も兵を出す。全軍での混戦となって巻き上がる塵が日を蔽い、白昼にも関わらず先を見通せない。激戦に野は屍で埋まって地が数里に渡って流れた。
鉄弗統制を喪った劉武の麾下には将が少なく、ついに総崩れとなって逃げ奔る。代兵は夜闇を冒して後を追い、劉武は北の
拓跋部の領地は西は西域の北の
※
拓跋鬱律が代に還って論功を行い、劉武の故地を安撫する人を選ぼうとするところ、劉武の弟の劉斌も敗報を知って塞外に逃れたとの報せが到った。孫緯と王昌は鬱律に勧めて言う。
「江南にある晋朝に戦勝を上奏し、境を接する幽州、
鬱律はその言に従い、上奏文を
「辺境の
その心は鬱々として楽しまず、夜半になっても眠れない。この日は
▼「建武」の年号は、即位した三一七年に改元されたものの、翌年には太興に改元されており、建武三年はない。朔日は月の初め、一日を言い、新月にあたる。
「これは陰陽が錯雑し、多くの者が天下に主たらんと欲する、不祥の兆しでございます」
翌日、
「天道は深遠なもの、占うにも及びませんが、軽々しく口にできません」
そう言うと、左右を顧みた。晋帝が人払いをすると、郭璞はようやく言う。
「これは、官吏が職を失って陰陽が転倒する兆し、ただ国政を正して天変を避けるよりございません」
その言葉を聞くと、晋帝は詔を下して郡縣の官吏が民を苦しめることを戒め、
夷狄が河北に横行して先帝の
官吏はそのことを恥とも思わず、ただ安逸を望んで酒に溺れ、職務を
官吏を選ぶにあたって徳を問わず才を求めず、ただ縁故によっております。これが三の失です。
このため、官吏となった者たちは政治を凡俗の行いと卑しみ、政事を行う者は苛酷であれば有能とされ、礼を尽くす者は
古に人を挙げるには、上奏させて才を試しました。今はその任にある者がその才を試しておらず、古の制を違えております。結果として賢人を残らず挙げられず、君子の多くは朝廷に出仕せず、野に隠れているのです。
世人は、法は権貴に及ばず、官吏の才は時務を濟うに足りず、奸悪であっても罪を問われることがないと申しております。
もしこの弊風を改めず、遊宴を禁じず、乱世を救って統治の実を挙げようとされたところで、到底叶いますまい。
熊遠の上奏は晋帝に容れられなかったものの、
このため、縁故で官吏になろうとしていた者たちは、病と称して試験を受けず、二年を過ぎた頃には州郡から濫りに推挙されることもなく、試験に応じる者はよほど優れた者だけとなった。
「先には国家草創の折から官吏に任用する者を試さず、縁故で官途を望む者が競って現れた。今やその力量を試みるとなると、応じる者がいない。先に任用された者たちが不適格でないとどうして言えようか。これまでに任官した者たちの官を除いて罪を懲らしめるべきであろう」
晋帝がそう言うと、
「すでに官職を授けており、弊害は時世のやむなきところです。今になって罪を加えれば、朝廷に出仕する者がいなくなりましょう。また、建康の近くに住む知者は罪を懼れて仕官せず、遠くに住む者は以前のように
晋帝はその言に従い、太学にあって七年学んだ者は官吏への登用を試し、官職にある者は月ごとに政績を報告させ、報告が百日を超えて滞った者は職を免じると詔したことであった。
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