第十三回 荀崧の娘は兵を取りて父を救う

 新野王しんやおう司馬歆しばきんが賊徒に殺害された後、部将であった杜曾とそうという者が竟陵郡きょうりょうぐんに拠って叛乱し、荊州けいしゅうを侵して民はその害に苦しんでいた。

 晋帝の司馬睿しばえいは国都である建康けんこうの上流を奪われるかと懼れ、第伍錡だいごきを荊州刺史に任じて鎮定を命じる。杜曾はそれを知ると、第伍錡に厚くまいないを贈って主帥に迎え、軍勢を分けて漢水と沔水べんすいの沿岸を押さえた。

 第伍錡の裏切りは建康まで聞こえ、晋帝は怒って文武の官を召して対策を諮る。

「聖上が新たに立たれた直後でもあり、このような小賊に禁衛の兵を動かすべきではありません。藩鎮に命じて平定させるのがよいでしょう」

 王導おうどうが言うと、賀循がじゅんが同じて言う。

「先に杜弢ととうが叛いた折、陶侃とうかん王敦おうとんに命じて平定させました。この度は陶侃に平定を命じて功が成った暁には荊州の刺史に任じれば、禍根を断てましょう」

 晋帝はその言をれ、陶侃に詔して杜曾の平定を命じた。


 ※


 陶侃は詔を拝すると、すぐさま軍勢を発して竟陵に向かう。それを知ると、杜曾も兵を出して防いだ。油断していた陶侃は三戦していずれも利を失い、数千の兵を喪って軍営に籠もって戦を避けた。

 晋帝は敗報に接すると、荀崧じゅんすう荊州けいしゅう都督ととくに抜擢し、皖城かんじょうに軍営を置いて賊徒の平定を助けさせることとした。

 杜曾が陶侃の動静を探るところ、荀崧の軍勢が皖城に入ったと知る。

「これは陶侃と軍勢を合わせて吾を挟撃するつもりであろう」

 そう考えると、陶侃を捨てて皖城に向かう。この時、荀崧は病に倒れて指麾が執れず、皖城は杜曾の囲むところとなった。それでも、部下に命じて城を厳しく守らせたものの、賊徒は皖城一帯を跳梁ちょうりょう跋扈ばっこした。

「兵糧は少なく、このままでは城が陥ろう。襄陽じょうように書状を遣り、太守の石覧せきらんに救援を仰ぐよりない」

 荀崧はそう言い、襄陽に向かう者を募った。城は賊徒に包囲されており、名乗り出る者はない。

 憂慮した荀崧が妻の王氏に言う。

「吾が不甲斐ないために孤城を賊徒に囲まれ、襄陽に使いに出る者もない。病のために自ら打って出ることもできぬ。お前たちもついには賊徒に捕らえられることになりかねぬ。吾が子はまだ幼く、憐れでならぬ」

 王氏の傍らには娘の灌娘かんじょうがあり、まだ十四歳だが冷静沈着な性格であった。煩悶する父を見て言う。

「憂えられるには及びません。ただ城をお守り下さい。この私が襄陽に赴いて必ずや救援を呼んで参ります。ご心配なさいますな」

「お前は女児であるのに、どうやって城を抜け出るつもりか。それに、救援を呼んで来れたとしても、娘を遣わしたなどと知られては世人に哂われよう」

 荀崧が言っても灌娘は諦めない。

「父母の危険と士民の難儀を救わねばなりません。まず、誰かが襄陽に向かわねば、一城の士民はすべて害されます。次に、父上は病の身でおられて陣に臨めず、朝廷は怠慢であると罪されましょう。最後に、城に留まったところで陥れば賊徒に捕らえられてしまいます。そうなれば、私が襄陽に行かなかったばかりに士民が辛酸を舐めることになります。城を抜け出して襄陽に向かう方がましというものです。その上、父上は病の身なのですから、私が襄陽に行かねば誰も命を賭けて賊徒を破ろうとはしますまい」

 言い終わると、戎装じゅうそうして用意を整える。荀崧は五百の兵を与えて腹心の者に道案内を命じる。四更(午前二時)の頃、密かに門を開いて城外に出た。

 賊徒が駆けつけて何者かと問うと、灌娘が答える。

「お前たちは城を囲んで敵兵を苦しめているのであろう。吾は他州から遊学に来た者であり、これより故郷に帰るのだ。お前たちとは仇を結んでおらぬ」

 灌娘が年若いと知ると、賊徒は留めず去るに任せた。


 ※


 灌娘は皖城を無事に抜け出すと襄陽を目指し、石覧に見えて書状を呈する。石覧はその書状を披くと灌娘に言う。

「お父上が危急であることは承知した。しかし、何ゆえに麾下の武人ではなく娘御むすめごを遣わされたのか」

「父は病を得て賊徒に苦しめられており、ゆえに私が参りました。何卒、同僚のよしみを思って救援を頂ければ、父とともに深く感謝いたします」

「しばらく待たれよ。僚属に諮った後に回答しよう。それまで後堂で茶など差し上げよう」

 そう言うと、石覧は灌娘を後堂に待たせ、しばらくの後にふたたび姿を見せた。

「皖城は焦眉の急にあります。何卒、救援をお願いいたします」

「理においては昼夜を問わず軍勢を発して向かうべきだが、杜曾の賊は強盛を誇り、陶刺史とうしし(陶侃)でさえ敗戦を喫して五十里(約28km)も退き、それより戦を避けていると聞く。襄陽の弱兵で戦えば、賊徒に敗れて父君の憂慮を深めることになりかねぬ。豫章よしょう周太守しゅうたいしゅ張彦ちょうげんを討ち取った威名を知られ、賊徒も避けて近寄らぬという。これより書状をしたためるゆえ、吾が家令かれいとともに豫章に行ってまみえられよ。周士達しゅうしたつ周訪しゅうほう、士達は字)は慷慨の忠臣、決して嫌とは言うまい。一たび行けば必ずや加勢を出してくれよう。さすれば、杜曾を破れよう。吾は先に軍勢を発して皖城の境に駐屯し、城内と連繋して賊徒の動きを封じよう。憂慮するには及ばぬ」

 聞いた灌娘が言う。

「周太守が加勢を拒まれるなら、私は夜を徹して駆け戻り、石大人せきたいじん(石覧、大人は敬称)の軍勢に加わります」

「荀太守の娘御が自ら行き、さらに吾の書状もある。周太守は必ずや加勢の軍勢を出されるであろう。心配には及ばぬ」

 灌娘は石覧に拝謝すると、その家令とともに豫章に向かった。


 ※


 周訪に見えた灌娘は、皖城の危急を涙ながらに告げた。

「父上が病のために賊と戦えぬとは、さぞかし無念であろう。杜曾の賊は猖獗を極めている。石太守だけでは防げまい。しかし、吾が軍勢と合わせれば、必ずや賊を破って父上を救い出せよう」

 そう言うと、子の周撫しゅうぶに命じて夏文華かぶんか夏文盛かぶんせいとともに先発させ、自らは灌娘とともに後詰となって軍を発した。

 周撫は湖口ここうに着いたあたりで夏文華と夏文盛に言う。

「吾はただちに皖城に向かう。卿らは石太守と軍勢を合わせてともに進め」

 夏文華が言う。

「皖城の糧秣は残り少ないと聞きます。さらに荀太守は病の身であれば、守城の指揮も満足に執れますまい。すみやかに城に向かわねば、賊徒に陥れられるやも知れません。賊徒が強盛であっても、吾が先陣にあたれば怖れるに足りませぬ」

 周撫もその言に同じ、ただちに皖城に向かうこととした。


 ※


 皖城を囲む杜曾は日夜休まず城攻めを続けていた。しかし、城壁は堅く、いまだ破るに至っていない。賊徒の死傷者はすでに七千人を超えており、城内でも二、三千の戦死者が出ていた。

 荀崧は病身を推して城壁に登り、城を包囲する大軍を見て心中に深く憂え、杜曾は救援がないと見切り、攻める手をいささか緩めて兵糧攻めに切り替えるかと考える。叛徒の一人が言う。

「官兵の援軍が来ぬとは断言できません。急ぎ城を落とすのが上策です」

 それを聞いた杜曾は意を決し、自ら督戦にあたるべく前線に出ようとした。

「豫章の周訪が水軍を発し、襄陽の石覧も陸路よりこちらに向かっております。およそ百里(約56km)まで迫っており、日ならず攻め寄せて参りましょう」

 斥候の報告を聞くと、主だった者を集めて言う。

「周撫とその麾下の夏文華、夏文盛は勇猛で知られており、さらに周訪が自ら出張ってきた。石覧と合流されては手の打ちようがない。皖城を捨てて竟陵に退くよりあるまい」

 反論する者はなく、賊徒は軍営を払って退いた。


 ※


 荀崧は賊徒が兵を退いたとの報せを受け、人を遣って調べさせると、周撫の軍勢が整然と進んでくる。

「襄陽に人を遣わしたものの援軍はいまだ到らぬ。周豫章の援軍が来てくれるとは、望外の喜びである。すみやかに出迎えて厚情に報いねばならぬ」

 城壁より下りようとするところ、一騎が馬を飛ばして城に駆け込んだ。誰かと見れば、娘の灌娘であった。灌娘は荀崧に見えると、襄陽から豫章に転じて周訪に援軍を求めた経緯を一通り述べる。

「お前は女の身であるが、男児にも及ぶ者はあるまい。お前の弟も見習ってくれれば、吾も思い残すことはない」

 荀崧はそう言うと、灌娘とともに城を出て周撫を迎え、祝宴を開いて豫章と皖城の将兵を労う。周撫は宴が終わると、父に皖城の始末を報せるべく、すみやかに軍勢を返した。


 ※


 竟陵の境に軍勢を留める陶侃は、杜曾が皖城を攻めていると知って賊徒の動静を窺っていた。

 斥候が馳せ戻って言う。

「皖城の賊徒は豫章と襄陽からの救援を見て退き、竟陵に向かっております。日ならずこのあたりを通りましょう」

 報せを受けると、麾下の鄭攀ていはん高宝こうほうに命じて言う。

「お前たちは蘄黃きこうの山道に五千の兵を伏せて賊徒の通過を待て。その後、砲声を聞けば伏兵を発して背後より襲え」

 二人が駆け戻っていくと、次に童奇どうき鄭正ていせい朱伺しゅし龔察きょうさつに命じる。

「お前たちは一万の軍勢とともに蘄黃の西に兵を伏せよ。杜曾の軍勢が到れば、砲声を挙げて攻めかかれ。吾は遊軍となって賊徒の隙を突く」

 四将もすぐさま蘄黃に向かって兵を伏せる。それより一日が過ぎても杜曾は現れず、二日目の早朝、ついに賊徒が蘄黃を通過した。鄭攀と高宝は過ぎるに任せ、賊徒は山道を進む。杜曾が伏所に入ると、山上にある陶侃が砲声を上げた。

 左手から朱伺と龔察、右手から童奇と鄭正が攻めかかる。杜曾が軍勢を返して退こうとするところ、背後より鄭攀と高宝が伏兵を発する。やむなく命を捨てて前に向かえば、賊徒十人の六、七人が討ち取られた。

 杜曾は官兵の包囲を斬り抜けると、馬を駆って奔り去る。

「この戦勝は天が杜曾を容れぬ証、この機に討ち取って禍根を断て」

 陶侃が叫び、麾下の諸将は力の限りに後を追う。追い迫られた杜曾は狼狽するも、多くの兵が討ち取られて従う者もない。水辺まで逃げると馬を捨て、身を投じて逃れ去る。朱伺たちは船を捜すも見あたらず、やむなく馬を返した。

 水に逃れた杜曾は、竟陵の城に逃げ込んで城門を閉ざした。


 ※


 杜曾が進退に窮したと知り、陶侃は竟陵の城を囲むと周訪、荀崧、王敦、石覧の許に人を遣り、加勢の軍勢を発するよう伝えさせる。

 病が癒えた荀崧はすぐさま湘陰しょういんに向かうと定め、王敦と軍期を定めて軍勢を発した。

 杜曾は一計を案じ、書状を認めると荀崧に与えて言う。

「竟陵太守の杜曾より申し上げる。不肖の身ながら新野王の歿後ぼつごに起こった反乱を平定し、王妃の厚恩により太守の職を授けられるに至りました。しかし、先に吾が兵が行った掠奪は、配下の胡元こげんによるものであり、胡元はすでに罪に服しております。先には、陶廣州が吾を討つべく軍勢を発されたと聞き、戦を避けて皖城に逃れようとしたのです。後日、公が荊州都督であると知り、軍勢を返しました。陶廣州は吾の言い分を聞くことなく討とうとされていると聞き及びます。公が軍勢とともに竟陵に来られたと聞き、配下にある吾は軍馬を労されぬよう赦免を願うものであります。朝廷より改めて竟陵太守に任じて頂ければ、都督の大恩に深く謝し、永く晋室の純臣として仕えさせて頂く所存です」

 荀崧は書状を読んで考えた。

「吾が軍勢は寡兵、賊徒を平らげるには足りぬ。陶侃の求めに応じて軍勢を発したものの、決死の杜曾と戦うよりは投降させるのが上策というものであろう」

 その願いを容れ、陶侃には包囲を緩めて降伏させるよう伝えた。荀崧が杜曾の策に嵌ったと知り、陶侃は書状を認める。


 足下そっかは督戦に遣わされたと聞きますが、それは朝廷の門戸である荊州を安んじるよう求められてのことです。

 今や賊徒は窮して平定は目前にあり、たぶらかかされて朝廷に赦免を願うとは、決して許されぬことであります。賊徒の姦計に陥れば、将来の禍は測りがたいものとなりましょう。

 また、杜曾は兇悪な賊徒であり、決して飼いならし得ません。皖城を包囲しながら、都督を憚るつもりなどありますまい。先に軍勢を破られて城を包囲され、窮するがゆえに公を誑かしたに過ぎません。決して許してはならぬのです。

 この者を除かねば、荊州を安んじることは叶いません。吾が言を聞いて杜曾の姦計を退け、後日にほぞまぬよう、深く願います。

▼「足下」は同格か目下の者に遣う二人称。


 荀崧は陶侃の書状を読むと言う。

「吾も杜曾の意は分かっておる。ただ、一時の方便により荊州を安んじようとしているのだ。後日に国家の軍勢が盛んになれば、改心して純臣となることもあろう」

 陶侃に書状を返す一方、朝廷に人を遣って赦免を求め、あわせて陶侃が賊徒を平定した戦功を上奏した。朝廷ではその上奏を入れることとする一方、荊州刺史に誰を用いるかが論じられる。

「陶侃を荊州刺史とすれば門戸に鍵をかけるようなもの、必ずや安んじられよう。荀崧では荊州を治められまい」

 議論が行われるところ、このことを王敦に報せる者があった。

「陶侃が荊州に任じられれば、確かに賊徒は平らげられ、民の心を得てその勢いは盛んになる。そうなっては陶侃に従うよりなくなろう」

 王敦はそう考えると、朝廷の重臣たちに厚く賂して吹き込んだ。

「廣州は夷狄が雑居する地であり、陶侃に代わって治められる者がおりません」

 そのため、荊州刺史には王敦の弟の王廙おういを用いると定められたことであった。

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