一足の靴下

紬木もの

一足の靴下

 衣装ケースから靴下が一足なくなっていることに気づいた。


「お父さん、この靴下どうしたの?」

「ああ、それか。出張先で急に入り用になってな、テキトーに買ったんだ」


 そんな希子きことの会話を思い返す。

 洗濯物を干しながら話しかけてくる娘を尻目に、ソファで新聞を読んでいたと思う。極めて冷静に受け応えた自信があった。


「ふーん」


 希子はそれだけ言って、鼻歌交じりに作業へ戻った。我が家では、洗濯関係の家事は全て希子が担当することになっていて、彼女は決まって水曜の夜と日曜の朝に洗濯機をまわす。


 だからあの会話は日曜の朝──四日前だ。その間、あの靴下を見た記憶がない。


「おーい、希子。俺の靴下どこにしまった? ほら、あの明るいボーダーの……クルーソックスっていうのか?」


 適当に見当をつけてドアの向こうへ声を飛ばしてみるが、返事はない。

 少し遅れて聞こえてきたのは、娘ではなく、妻の声だった。


「きーちゃんなら、あなたが起きる前に家出たわよ。朝から補習だって」

「そうか、分かった」


 帰ってきたら聞いてみよう。どこか別の場所に入り込んでいるのかもしれない。


「どうかしたの?」

「今日履こうと思っていた靴下がないんだ」

「どうせまた、その辺にほったらかしてるんでしょう?」


 痛いところを突かれた。

 ──また靴下裏返したまんま脱ぎ捨てて……。しっかりしてよね。

 昨日の娘の声が、鮮明に脳裏を掠める。毎日のように言われている定形文だ。最近は母親の物の言い方にそっくりになってきていて、末恐ろしい。


「それよりあなた。明日の夜、飲み会?」


 ドアが開いて妻が顔を出した。メイクアップは完成し、完全によそ行きの気色だ。一瞬、希子に見えて驚く。声や性格だけでなく、顔も似てきているらしい。

 ただしもちろん、すっぴんの状態では……云々。


「ううん。今入ってる飲み会は、来週の金曜だけだよ」

「じゃあ、久しぶりに二人で外食しない? 希子はお友達の家に泊まりに行くんだって」


 希子がお友達の家に泊まる──

 一抹の不安を覚えながらも、その部分は強いて無視した。


「構わないよ。行きたいお店があるの?」

「あるある。フレンチフレンチ」

「げ。来週の飲み会もフレンチなんだよ。ちなみにそれは……」

「ムッシュー、あなたの奢りよ。それじゃ、先に出るわね」


 これは大変だ。二週連続フレンチでは、財布が燃えてしまう。


「ちょっと待て。イタリアンではダメなのか?」という問いは、すでに閉められたドアに跳ね返って、冷えた床に虚しく落ちた。

 その後仕事中はずっと、希子が誰のところに泊まるのか、まさか彼氏でもできたのではないか、なんてことが気になって、靴下のことはすっかり忘れてしまった。


 七時半頃に家に戻り、夕飯の支度をすること三十分、希子が帰ってきた。部活動に所属していない希子が、こんな遅い時間に帰ってくるのは珍しかった。


「ど、どこ行っていたんだ? 遅かったじゃないか」

「友達とカフェにいたの」


 その友達というのは、女の子か? と確かめる勇気はなかった。自分の気持ちを紛らせようと話題を探し、靴下のことを思い出した。


「希子、父さんの靴下知らないか? 日曜にテキトーに買ったって説明した」

「あー、その靴下なら」


 やや食い気味に言葉を返す娘が指差す先を見ると──


「ちょっと可愛かったから拝借しちゃった」


 希子の白く細い脚の先に、件の靴下が被さっていた。




「あの靴下、希子が履いていたんだよ」


 今まで使ったことのなかったフレンチ店、白ワインを一口飲んでそう切りだした。


「え? きーちゃんが? 仲良しというか、何というか」


 お目当の料理にありつくことができ、機嫌良さ気な里美が目を丸くする。


「これまで大した反抗期もなかったしな」

「パンツ一緒に洗いたくない、なんて言われたこともないし?」


 テーブルにはポアソンが運ばれてきた。「パンツ」という下品な言葉を、このウェイターはどんな気持ちで聞いただろうか。


「『お父さん、臭い』だってまだない」


 ウェイターの反応を窺ったが、彼はアルカイックスマイルを口元に張り付けたまま、グラスにワインを注いで立ち去った。


「──だからちょっと心配になってな。高二にもなって、いくら良い子だとはいえ、父の靴下を何の抵抗もなく履いてくか? もちろん、『お父さんと結婚する』と言ってた頃のままでいて欲しいから、構わないんだけど」

「そうねー。私なら父さんの身に着けたものを自分も履くなんて、死んでも嫌」


 魚を器用に切って、口へ運ぶ里美。よそ行きの深紅のルージュが艶やかに光っている。


「──もしかしたら何か理由があるのかも」

「理由?」


 わざわざ父の靴下を履いて学校へ登校する理由?


「うん。お父さんの靴下を履かなければならない、重大な理由」

「それって例えば……何があるんだ?」

「あなたのことを大好きな同級生がいて、その子に靴下の匂いを嗅がせてるとか?」


 里美が身の毛もよだつ妄想を呟いたとき、またちょうどよくウェイターがやってきた。


「奥様、また白ワインでよろしいですか」


 場にそぐわぬ話題は絶対に聞こえていたであろうが、そんなことを噯にも出さず、口元には古拙の微笑のウェイター。

 それはさておきしかし、なぜ希子は俺の靴下を履いていったのか。

 本当に「可愛いから拝借しちゃった」だけなのか。それともやっぱり彼氏でもできてその関係で──と言ってもどう関係するんだ? まさか彼氏に履かせるわけでもあるまい。

 妻は知っているだろうか。


「あいつに彼氏でもできたと思うか?」

「直接、訊いてみたらいいじゃない」


 肩をすくめる里美。


「そんなことできるわけないだろう。返答次第で死人が出る」

「あらお父さんこわーい」


 彼氏説は父としての本能が不採用を叫んでいる。

 となれば、俺のことを好きな同級生がいる……いやいや、そんなのあり得ない。百歩譲ってあり得たとしても、わざわざ靴下でなくても……。


「ねえ、それよりさっき聞いてた?『奥様』だって」


 恐らく、これまでもこれからも言われることのないであろう敬称に騒ぐ里美をよそに、頭の中は疑問符で埋め尽くされた。


 それ以来、希子は結構な頻度で例の靴下を履くようになった。おかげで当の持ち主は一度しか履くことができていない。そんな状態が二ヶ月ほど続いた。


「そんなに気に入っているんなら、もう貰っちゃえばって、お母さんは思いますけど」


 ある土曜の朝、出掛け際にそう言われた希子は、ローファーを履くと立ち上がった。


「別に、欲しいわけじゃないよ」

「遠慮しなくてもいいぞ、というかもう希子のもんだと思っているぞ、お父さんは」


 仕事が休みの夫婦揃って、補習に向かう娘を見送る。


「ううん。今日中に決着つけるから、だいじょーぶ。いってきます」


 希子はそう言って、愛らしい笑顔で振り返るとドアを開けた。


「決着って何だろ」


 こちらを見て首をかしげる妻。


「知らん。同じの買ってくるんじゃないか?」


 それよりせっかくの休日。もう少し寝よう。

 寝室に戻ると目を閉じた。人生で一番幸せな瞬間は、眠る前に一つ息を吐く瞬間。

 ──もちろん、希子の笑顔を見た瞬間には及ばないが。あれは殿堂入りだ。


 スマホの通知音で目が覚めた。画面を確認するともう午後三時を過ぎている。いつの間にか家に一人残されていて、昼飯にカップラーメンを食べた。それから三度寝をしてしまったのだった。


 ほぼ条件反射的にロックを解除すると、娘の七五三のときの画像が壁紙のホーム画面が現れる。メッセージは「奥様」からだった。フランス料理屋での外食以降、おふざけで登録名を変更していたが、何だかドキッとしてしまう。


「まだ二人とも帰ってきてない」


 一人ぼっちのリビングに独り言ちて、メッセージを開くと、

 ──突然ごめんなさい。あなた以外に好きな人ができたの。さようなら の文字。

 ああ。いつの間にか四度寝をしてしまったようだ。

 失笑して頬をつねるが目は覚めない。つまり、目はすでに覚めている。


「急に何を言い出すんだ」と返信したがそれに既読がつくことはなかった。


 希子はそれから二時間後くらいに帰ってきた。朝方は娘が帰ってきたら、靴下の決着について聞こうと考えていたが、今はそれどころではなかった。


「どうしてそんなにそわそわしてるの?」


 カレーライスを頬張りながら、希子が小首を傾げた。


「久しぶりに愛娘と二人きりでディナーだから、緊張してるんだよ」


 その実、例のメッセージについて、またその返信に既読がつかないことについて、ずっと考えていた。それを見抜いてくるとは、さすが我が娘。


「なんじゃそりゃ」


 苦し紛れの冗談に笑う顔が、若い頃の妻に似ている。不安で落ち着かない私と違って、希子の方は機嫌が良いように見えた。学校帰りにデートでも行ってきたのだろうか。


「──お母さん、遅いね」

「そうだな、急に入った仕事が長引いているって連絡がきたぞ」


 妻はまだ帰ってきていない。


「お父さんとのディナーもいいけど、やっぱり三人揃っての食卓があたしは好きだな」


 急に淋しげな表情になって希子が呟く。


「ど、どうしたんだ急に」

「これからもずーっと、三人で仲良く過ごそうね」


 真っすぐなまなざしが、心に痛い。


「何を言い出すんだ、そうするに決まってるじゃないか」

「ならいいけど」


 機嫌が良かったわけではなくて、カラ元気だったのか。彼氏にフラれた? それとも何か勘づかれている?


「ただし、そうするためには希子、お前は家から出られないぞ」

「げ」

「大学も職場もここから通える場所、お嫁になんて絶対に行かせない」


 娘が言ったことはつまり、そういうことだ。お父さんはその言葉、一生忘れないぞ。


「仲良く過ごそうねって言っただけだし。別に仲良く暮らそうねって言ったわけじゃないからセーフ」


 ごちそうさま、と手を合わせ、希子はそそくさと台所へ向かった。「過ごす」の意味を後で調べてみよう。そんなことを考えながら、発泡酒を一気に飲み干した。



 いつもの日曜日がやってきて、ソファで新聞を読んでいた。


「ねえお父さん」

「なんだ?」


 洗面所の方から声が聞こえた。希子は今日も洗濯機をまわし、今は洗われた衣類をカゴへと出している。

 やらかい陽光が射し込む心地よい朝だった。


「お父さん、浮気してたでしょ?」


 背中越しに問う希子の表情は見えない。取り出しては洗濯物を叩く。パンパン、紙鉄砲のような音が、静かな家に響く。


「そんなわけないだろう」


 フンッと鼻を鳴らして答えた。極めて冷静に受け応えた自信があった。


「あー。そういうのいいから」


 パンパン、紙鉄砲のような音だけが、静かな家に響く。視線が新聞の文字の上を滑る。


「──確かめたから、本人に」

「ほ、本人?」

「そう。サトミさんに」


 パンパン。


「誰だいそれ」

「あー。そういうのいいって。お父さんが悪かったわけじゃないって分かってるから。悪いのはあの女の方よ」


 希子の声が機械音のように聞こえてくる。


「あ、そうそう思い出した。里美さんって、営業先のあの女性のことか……。どうして」

「あたしが気づいたか?」

「違う違う、どうしてそんな勘ち──」

「靴下」

「靴下?」


 里美からもらった、明るいボーダーの靴下? 希子のお気に入りの、あの靴下?

 背中越しに挙げられた希子の右手につままれた靴下。


「いつも靴下裏返してほっぽりだすでしょ? だから気づいたの」


 何に? つまんだ靴下をカゴに放り込む希子。


「裏側に刺繍があるのよ。S・Tって。表からは分からないようになってるけど。踝のとこ」


 パンパン。


「最近流行ってるの。大切な人への贈り物として。お父さんは『出張先で急に入り用に』なんて言ってたけど。」


 パンパン。心なしか洗濯物を叩く音が強くなってきた。音がする度に撃たれている心地になる。いつの間にか太陽は雲に遮られている。


「あ、そうそう思い出した。『仕事でお世話になったお礼に』って貰ったんだよ」


 なんだか冷えてきたと思えば、冷や汗だ。


「そんな言い訳されも困るから、こっそり調べたわ。こんなおしゃれなことをやってくれるお店なんて、この辺だと限られるからあたし一人でもできると思った」


 ──洗濯物が飛ばされてきたんだと思うんですけど、今朝庭に落ちてて。持ち主に返してあげたいんです。これを買った方と連絡取れませんか? と再現してみせる希子の声色はあまりにもいつも通りだ。


「それで、やっと見つけた。だから昨日会ってきたの。メッセージ届いたでしょ?」

「突然ごめんなさい。あなた以外に好きな人ができたの。さようなら……」


 思わず口に出してしまい、慌てて口元を押さえた、が遅い。


「そう。それあたしが送らせたの」


 そうか、希子は全て知っている。娘にバレてしまった。そして見事に里美から別れを切り出させることに成功した。


 だから昨晩は上機嫌だったのだ。そわそわしていることが見抜かれたのだ。


 妻は知っているだろうか。いや、それをしたくないから希子は一人で動いたのだ。事実上不倫問題は解消されたのだから、場合によってはこのまま──


「サトミさんには、これ以上お父さんに会わないでって伝えたし、お母さんが悲しむのも嫌だし、家族がバラバラになるのも嫌だったから黙っておこうと思ったの」


 ほら、希子は家族思いだ。これからは二人を全力で愛そう。贖罪をしなければ。


「でも最後の最後にちょっと揉めちゃって」


 パン、パン。


「──新聞沙汰になりそうだったから」


 パン、パン、パン。


「──先に白状しといた方がいいかなって」


 パン、パン、パン、パン。


 新聞沙汰? 手に持った新聞にふと目を落とす。小さな記事に戦慄した。


『◯日午後8時頃、X市Y町のアパートで「娘が腹部から血を流して倒れている」と110番通報があった。X署によると、同アパートに住む橘里美さん(34)が搬送先の病院で間もなく死亡。警察は殺人の容疑で調査を進めるという。』


 全く状況が整理できず目を閉じた。なんと間が悪いことに、二階から妻が下りてきた。


「あーよく寝た。話し声が聞こえたけど、何話してたの?」

「ううん。特になんにも」


 洗濯物を干しにかかろうとカゴを抱え、希子が振り返った。


「──これからもずーっと、三人で仲良く過ごそうねって話」

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