第155話 恋の始まりは春にあり

『えー、在校生の皆さんは本日からひとつ上の学年に進学されました。1年生だった皆さんは先輩に。2年生だった皆さんはいよいよ受験生になります。えー、これからの高校生活において――』


 まだ桜の蕾が綻ぶには早い4月4日。いつまで続くのか分からない校長の話を適当に聞き流しながら、俺たちは今、高校最後の1年に向かう門出に立っていた。


 春休みは気がついた頃には終りを迎えていて、長期休暇とは何だったのかと疑いたくなる。

 昨日の夜一緒にボイスチャットを繋ぎながらゲームをしていた陽介も、宿題をやっていたら休みが終わっていたとぼやいていたっけ。

 これからはこんな風にゲームをする時間も減るのかなぁと、呟く陽介の寂しそうな声が印象的だった。


 外はまだ防寒着が必要なくらいには寒いけど、体育館の壁の上部をぐるりと取り囲む窓から差し込む光は、春の暖かさを俺たちに伝えてくれる。

 季節はもう変わったんだ。厳しい寒さの冬から、暖かい始まりの季節へと。


 ……昨日結局遅くまで陽介と話し込んじゃったから少し眠いなー。あいつは寝てないかな。

 暖かさからくる睡魔と戦いながら少し離れたところに立つ陽介に目を向けると、あいつもまた睡魔と戦っているようで、一定のペースでコクリコクリと船を漕いでいた。

 そんな陽介の姿を見ると、あいつらしいその姿に少し安心すると同時に、懐かしさを感じた。

 思い出すなー。俺たちが初めて出会ったあの春のことを。

 そして、俺に好きな人ができた時のことを。



 ――当時、俺はまだ中学生だった。

 自宅から一番近いという理由だけで今の高校を受験することに決めて、意外に偏差値が高かったからちゃんと受験勉強したっけ。

 授業はちゃんと聞いていたし、親の言うとおりテストでもそこそこの点を取れるよう勉強をしてきたから、受験勉強もそこまで苦ではなかった。

 普段の成績や過去問題の点数からも、まぁ合格できなくはない程度まで仕上げた俺は、試験当日を迎えた。


 途中までは順調だった。多少解けない問題もあったけど、まぁ体感8、9割は取れていると感じられた。過去のテストの経験から、実際の点数はだいたい1割程度低いだろうけど、それでも悪くないと思えた。

 これなら合格できるだろうと思っていた矢先、使っていた鉛筆の芯が折れてしまった。

 当然予備も持ってきていたのだが、今折れてしまったのがその予備だったことに気がついた。

 鉛筆削りを持って来ている人もチラホラ見かけたが、俺は予備の鉛筆があればいいだろうと高を括って持ってきていなかったんだ。


 結局その科目は折れた鉛筆の微かに残った芯だけで乗り切ったものの、次以降の試験には耐えられないことは明白だった。

 誰か知り合いに貸してもらおうか? いやでもどの教室に誰がいるかなんて分からないし……。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、ふと隣の席から何かが差し出された。


「はいこれ、貸してあげる」


 驚き顔をあげると、彼女はその手にシンプルな鉛筆削りを持っていた。

 少しつり上がった気の強そうな目。キュッと上がる自信に満ちた口元。ハキハキとした口調。きっとこの人は多くの人に好かれるのだろうなと、そう感じさせる人だった。


「い、いいの?」

「ええ、どうぞ」


 彼女から鉛筆削りを受け取り、二本それぞれの鉛筆を無事削り終えたあと、礼と共にそれを返した。


「ありがとう、助かったよー」

「どういたしまして。また折れたら言って。貸してあげるから」

「うん、ありがとう」


 それから特に話すこともなく俺たちはお互い試験に戻っていった。

 結局俺の鉛筆が再び折れることはなく、彼女に鉛筆削りを借りるには至らなかった。


 俺と彼女の出会いはそんななんてことのないもので、俺もこのときは特に意識なんてしてなかったんだ。

 可愛い子だなぁとは思ってたけど、一目惚れとかそんなんじゃなかった。



 それからしばらくが経って、ついに合格発表の日がやってきた。

 合格しているとは思う。思うけど、それでも不安を拭いきれずにいた。

 俺は家から近いこともあって学校まで合格者一覧を見に向かうことにした。

 まだ雪の残る坂を必死に登ってたどり着いた昇降口前のガラス戸には、ずらりと番号を羅列した紙が一面に張り出されていた。


 自分の番号の付近まで飛ばし飛ばしで受験番号を追い、やがて自分の番号付近になると一つずつ丁寧に見るようになった。

 あと3つ、あと2つ、あと1つ――




「……あった」




 そして見つけた。自分の番号があるはずの場所に、ちゃんと自分の番号が記載されているのを。

 合格したんだ、俺は。この学校に通うことができるんだ。受験から解放されたんだ。




「えーっと……。あっ! あったあった! ほらあったわよ!」




 俺が胸の奥から湧き上がってくる嬉しさを噛み締めようとしたその時、すぐ隣で誰かが喜ぶ声がした。

 俺はその声に聞き覚えがあった。いつか聞いた声。かつて俺を救ってくれた声。


 俺は勢いよく隣を振り向く。そして俺の目に映ったその横顔は、記憶の中とは異なり喜色に染まっていた。

 ああ、彼女も合格したんだ。俺はこの子と同じ学校に通えるんだ。そう思ったら言い得ぬ気持ちが沸き上がって、叫び出したい気分になった。

 互いの合格を喜び合おう。また会えるなんてすごい偶然だって、あの時俺を救ってくれてありがとうって、そう伝えよう。そう思って声をかけようとしたその時、彼女の向こうに誰かいることに気がついた。


「んー? なに、どこどこ? 俺全然見つけらんないんだけど」


 そいつはなんだか眠そうな顔をしていて、覇気のないやつだった。

 ところどころ寝癖の立った髪。間抜けそうに半開きになった口。全身から気怠いという文句が聞こえてきそうな男子だった。


「ほら、あそこにあるでしょあんたの番号! よく見なさいよ!」

「えーっとぉ……? あーあったあった。合格してんじゃんさすが俺。よし帰るか」

「ちょっと! もっと喜びなさいよ! 私と同じ高校通えて嬉しくないの!?」

「嬉しいけどさ。まぁ合格するのは分かってたし、今更そんなに騒ぐほどのことじゃないだろ?」

「私に教えてもらっといてよく言うわ」

「俺だってお前に理系科目教えてやっただろ? お互い様だ。ほら行くぞー」

「あっ、ちょっと!」


 合格したことにさほど喜ぶ様子も見せず、彼はスタスタと校門に向かって歩いていってしまった。

 な、なんだ? あいつ……。合格したっていうのに嬉しそうじゃないし、合格して当然って感じだった。こっちは合格するかどうか祈りながら来たっていうのにさ。


「はぁ。なんなのよあいつ」


 どうやら彼女も同じことを考えていたようで、腰に手を当ててため息を付いていた。

 俺の視線に気がついたのだろう、彼女がふとこちらに視線を向けると俺と目が合った。


「あ……、合格、したんだね。おめでとう」


 突然のことだったから何も準備なんてできていたなかった俺の口から飛び出した言葉は、そんな何の変哲もないものだった。

 彼女は急に話しかけてきた俺を不審がる素振りも見せずに微笑みを浮かべる。


「ええ、ありがとう。あなたも合格したの?」

「うん、なんとかね」

「そう。じゃあ同じクラスになれるといいわね!」


 彼女は笑顔でそう言い残すと、背を向けて駆け足で去っていった。

 校門のところで先程の気怠げな男子と合流すると、一度彼をどついてから並んで歩いていき、すぐに見えなくなった。


「……仲いいんだなー。付き合ってたりとかするのかな」


 もし。もし彼女と同じクラスになれて、もしあの二人が恋仲じゃなかったら。そうしたら声をかけてみよう。友だちになってみよう。

 そんな決意を密かに胸に秘めた俺は、この時すでに彼女のことが気になりつつあった。

 周りに流されやすくて、これといった目標もなくのらりくらりと生きてきた俺とは違い、その目でまっすぐに自分の進むべき道を見定めているような、そんな芯の強さが。この冬の寒さを物ともしない、真夏の太陽のようなその眩しい笑顔が、気になってしょうがなかったんだ。


 あるいはそれが、俺が初めて自分から何かをしたいと強く望んだ瞬間だったのかもしれない。

 受験のときに隣の席で、同じ学校に通えるようになって、かつ同じクラスになるなんていう奇跡が叶うのなら、少しは勇気を出せるかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていた。

 そして、その奇跡はやがて叶うことになる。



 それから高校生活が始まって間もなく。俺は二人に合格発表の日会ったことを覚えているか尋ねたのだけれど、二人とも覚えていなかった。

 陽介とは話もしてなかったし、夏希はあの日陽介と二人で合格できたことが嬉しくてその他のことは覚えていなかったらしい。

 そのことに一抹の寂しさを感じながらも、俺が入学初日の自己紹介で趣味はゲームだと言っていたことを覚えていてくれて、陽介とゲーム談義に花を咲かせた。


 それから二人と仲良くなるまでにそう時間はかからなかった。

 話していくうちに陽介と夏希が付き合っていないことも分かったし、俺はどんどん夏希の魅力に惹かれていった。

 だからやったこともない陸上部にも入部したし、一時期は夏希と同じ短距離に移動するために本気で自主練もした。

 夏希に近づくために色々なことをやったけど、そのどれもがなんの効果もなかったんだけどね。

 夏希の視線を独り占めしている陽介が妬ましくて色々思うこともあったけど、それも今となっては懐かしいだけだ。



『――校長先生ありがとうございました。続いて校歌斉唱。全員起立』


 昔を懐かしんでいるうちに校長の長い話は終わっていたらしい。

 陽介は起きただろうかと目をやると、まるでさっきから起きていましたと言わんばかりにしっかりと目を開けて前を見ていた。それがあまりにわざとらしい表情だったから、俺は吹き出しそうになるのをなんとか堪えたのだった。





 ――――





「あっ、塚田先輩。ようやく来ましたね」


 始業式が終わって早々に解散した後、俺はスマホに届いたメッセージに従って駅前のカフェに来ていた。

 隠れ家的というのだろうか。人は少なくうちの生徒なんて一人も見かけない。話をするにはぴったりな場所だ。

 そこにはすでに杉山が待っていて、俺が到着するなり座るのも待たずに本題を切り出した。


「メッセでは簡単にオペレーション・ラブシーフの状況を聞いていましたが、改めて詳しい状況を聞かせてもらえますか」

「いいけど、メッセで伝えたとおりだよ。組分けまではうまく行ったし、池ヶ谷と陽介の仲の良さを強調して夏希の入り込む隙間がないことも意識させられたと思う」

「塚田先輩へ意識を向ける方はどうですか?」

「それは……」


 俺は杉山の問に思わず言い淀んだ。それは俺が最後まで踏ん切りがつかずに失敗してしまったところだったからだ。


 杉山の提案してくれたオペレーション・ラブシーフには3本の柱があった。

 1本目は陽介と池ヶ谷の距離を近づけること。これは2本目にも関係してくる。

 2本目は夏希に陽介を諦めたほうがいいと意識させること。この準備段階として陽介と池ヶ谷を近づける必要があった。

 3本目は夏希の意識を陽介から俺に向けさせること。俺はここを失敗したんだ。


「やっぱり失敗したんですね。言わなかったんですか? もし先輩に振られたら自分が夏希先輩の全部を受け止めてあげるって」

「そんな恥ずかしいこと言えるわけ無いだろ!?」


「はぁ……。だから塚田先輩はいい人止まりなんですよ! 多少クサくてこっ恥ずかしいセリフのほうが女の子はキュンとするんです。そういういざという時に何も言えないからいつまでも夏希先輩に振り向いてもらえないんですよ!」


「それにしたってあんな告白まがいのこと言えないって!」

「塚田先輩の場合、告白して強制的に意識を向けさせるくらいのほうがいいんですよ」

「お試しで告白させられたらたまったもんじゃないよ」


 杉山は俺の言葉に言い返そうと口を開きかけたが、口をつぐむと椅子の背もたれに体を預けた。


「まぁそれもそうですね。塚田先輩の言う通りこれはお試しです。それを考慮すればオペレーション・ラブシーフは成功と言えます」


 口ではそう言うがその顔はあまり納得しているようには見えない。

 杉山はあくまで俺と夏希をくっつけたいらしい。それは俺にとってもありがたいことのはずなのに、素直に喜ぶことができない。それを望むことはなんだかいけないことのような気がしてしまうんだ。


 夏希に近づいて、彼女をずっとそばで見てきて、いかに陽介のことを好きでいたかを知って。そこに横から割り込むようなことは、もう脈なしだから俺に乗り換えろなんて言うことはできない。したくない。

 夏希が俺に振り向いてくれることなんてありえないということは俺が一番良く分かっているから、俺が告白することで夏希の心理的負担にはなりたくない。


 ……俺はどうしたいんだろうなー。もう何がなんだか分からなくなってきた。

 夏希のことが好きで、でも自分の気持ちを打ち明けるのは気が引けて。自分はどうしたいのかも定まらないままフラフラとしている。

 ……ははっ、むしろ俺らしいと言うべきなのかなぁ。吹き流しみたいにあっちにこっちにフラフラして。誇れる個性じゃないよなー。


「――んぱい。塚田先輩! ちょっと聞いてますか!?」

「え!? な、なに?」

「何ボーッとしてるんですか。次の作戦ですよ! 今度は応援の第二弾をやるんですから、塚田先輩主導で立案してください!」

「わ、分かった分かった。受験勉強の合間に考えてみるよ」

「受験なんかより優先してください」

「ははっ、相変わらず無茶言うなー。……え、冗談だよな?」


 目がマジな杉山にそう問いかけるも、杉山は何も答えずすました顔でミルクティーをすすった。

 ……マジなのかー。俺、受験生なんだけどなー。

 これはなかなかどうして前途多難だ。俺は引きつる口元になんとか笑みを浮かべ、今週中には草案をまとめる決意をコーヒーで腹の底に流し込んだ。

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