第143話 女神の愛は平等にあらず

 夏希先輩へ捧げる歌を歌いきると、茜は信じられないといった顔をしてこちらを見ていた。


「こいつホントに替え歌して夏希先輩讃美歌にしてやがった……」

「ファンクラブ会員だったら全員歌ってると思うけど」

「もはやカルト教団じゃん。秩序に反するのやめとき?」

「じゃあ約束してた再会編ね」

「……あのさ、一方的な宣言は約束とは言わないって知ってる?」

「それから私は夏希先輩に再び会うために受験勉強に力を入れたの」

「そうだよねー。知るわけないよねー」



 その姿に両親は驚きつつもとても喜んで、やっぱり実際の高校を見てイメージを固めると勉強にも身が入るのかなんて言ってたけど、あながち間違いでもなかった。

 私は夏希先輩と過ごす薔薇ばら色の高校生活を夢見て、寝る間も惜しんで受験勉強に没頭したのだから。


 もともと成績は悪い方じゃなかったけど、それからの数週間だけで各教科の点数を軒並み十点近く上げ、より上の学校も目指せる位置まで上り詰めていた。


 先生方のもっと上の高校を目指すべきだ、という戯言を無視して迎えた受験当日。私は受験会場である学校へ向かいながら、すでに通学のイメージを固めるくらいには余裕があった。

 受かって当たり前、この高校に通うことはあくまで前提条件なのだから、試験や合否発表もなんら緊張することはない。

 そして私は難なく合格を手にしたのだ。



 それから入学式を終え、新学期が始まる登校初日。私はガチガチに緊張していた。


 あの先輩に再会したら何を話そう? 私のこと覚えていてくれてるかな? 先輩と高校生活を夢見てきたなんて言ったら引かれるかな?

 そんなことを考えて、夏希先輩と再会したときのシミュレーションを何通りもしていた。


 そして上級生と初めて顔を合わせる対面式を終えた後、各部活の勧誘が始まった。

 私はそこであの人と再会を果たしたんだ。


「あっ……」


 一目見た瞬間分かった、あの先輩だって。その他の多くの先輩たちの中に混じっても、あの日見た輝きが確かに見えたから。


 でもシミュレーションの甲斐もなく、私はなんて声をかければいいのか分からずただ彼女を見つめることしかできなかった。


「陸上部でーす! 興味のある人はぜひ一度仮入部に――」


 元気に声を張り上げていた彼女は、私の視線に気がついたのかこちらを向く。

 その瞬間目と目が合って、私の胸は期待に膨らむ。


「あれ、あなた……」

「なに、夏希の知り合い?」


 彼女の後ろで一緒に勧誘していた女生徒が、彼女の名前を呼ぶ。

 夏希先輩。それがこの先輩の名前なんだ。

 私はその名前を深く深く胸に刻んだ。


「うん、確か……、そうだ、迷子になってた子じゃない!? すごい、合格したんだ!」

「は、はい! 覚えてくれてたんですね……!」

「当然よ! でもほんとにすごいじゃない。うちって結構偏差値高いし、女子人気もあって倍率高いのに。本当におめでとう!」


 まるで自分のことのように喜んでくれる夏希先輩に、私の胸はいっぱいになった。

 両親や先生に祝われたときはこんな気持にならなかった。当たり前だから、これがゴールじゃないからって、どこか冷めた気持ちでいた。

 でも――、




「これでほんとに私の後輩ね! 私、小山夏希っていうの。これからよろしく!」




 今はこんなにも温かな感情で溢れている。

 あの日からずっと夢見てきた光景が今目の前にあって、ああ、私はこの瞬間のために今まで生きてきたんだって、そう思った。

 そうしたら、ずっと憧れてきた生活が始まったことに今更気がついて、涙が溢れた。


「ちょ、ちょっと、どうしたのよ? 具合悪い?」

「い、いえ、ぐずっ。私本当に合格できたんだって、思ったらっ、嬉しくて……!」

「……そっか。頑張ったのね」

「はいっ……!」


 涙で歪んだ視界の中で、夏希先輩は優しく微笑んだ。

 その微笑みがじんわりと温かくて、私はまた涙をこぼした。


 あぁ、だめだ。早く泣き止まないといけないのに。ここには人がいっぱいいて、ずっと泣いてたら夏希先輩の迷惑になっちゃうんだから。

 私は溢れて止まらない涙を手の甲で何度も拭うけど、それでも涙は止まらなくて。


 そうして私が泣きじゃくっていると、それを見かねたのか、夏希先輩がぐっと私を抱き寄せた。

 驚く私は、なすままに夏希先輩の肩に顔を埋める。


「ごめん、ハンカチ持ってなくて」

「そ、そんなっ! 先輩の制服を汚すわけには――」

「いいからいいから。その嬉しさを噛み締められるのなんて今だけなんだから、めいっぱい喜びなさい」


 それからしばらくの間、私は夏希先輩の温かさに包まれながら、大勢の前で泣き続けた。

 今思い返してみるとすごく迷惑でおかしな子だったけど、そんな私を夏希先輩は受け止めてくれたんだ。



「再会編、完」

「……夏希先輩ちょーイケメンじゃん。てかあのときワンワン泣いてたの千秋だったんね」

「ようやく茜も夏希先輩の素晴らしさが分かってきた?」

「っ! べ、別に? 校長と比べて千秋の話のほうがちょっとだけ興味あっただけだから。てかまじでいい加減静かにしなって。怒られるから」

「うん分かった。しかし! 幸せいっぱいだった私の高校生活に、最大にして最悪の敵が現れたの」

「あれか、耳か。耳がイカれてるから人の話が聞けないんか」



 そいつは入学後一月もせずに私の前に現れた。


 確かちょうど入部する部活を決めた頃だった。

 私は仮入部で陸上部に行ったけど、体力的に厳しかったのと運動は苦手だったこともあり、泣く泣く吹奏楽部にしたのだ。

 もともと両親の影響もあって楽器は得意だったし、吹部の部室である音楽室は夏希先輩たち陸上部の部室にも近かったから、妥協案としては悪くなかった。



 その日も部室へ向かう夏希先輩を待ち伏せていると、向こうから女神が近づいてくるのが見えた。


「夏希先輩……!」


 その当時の私は今より少しシャイだったから、大声で駆け寄ったり教室まで押しかけたりはできなくて、こうして遠くから見つめたり、偶然を装って挨拶したりするのが関の山だった。

 それ故にそいつの存在に気がつくのに遅れてしまったんだ。


「……知らない男だ」


 どこかぼんやりとした雰囲気の、覇気のない男だった。

 これといった特徴もなく、背も高くもなければ低くもなく、顔も悪くはないがイケメンではない。そんな普通の男。


 夏希先輩がよく塚田先輩と一緒に部室まで来ることはあったけど、あの先輩のことは知らない。私は一気に警戒度を引き上げた。


 塚田先輩はリサーチの結果無害だと判明してるけど、そいつはノーマークだったから、まずは情報収集のために接触する必要がある。私は隠れるのをやめて夏希先輩たちの前に飛び出した。


「あら、千秋ちゃんじゃない。これから仮入部? またうち来る?」


 少しいたずらっぽくそんな事を言う夏希先輩があまりにも素敵すぎて、しばらく我を忘れてしまったけど、私はなんとか意識を取り戻して言葉を探す。

 まずは遠回しにカマをかけて、この先輩と夏希先輩の関係を探るべきだ。




「あの、この人は夏希先輩の彼氏さんですか?」




 …………。

 ああぁぁあっ! ど真ん中ストレートを投げちゃったぁぁあ! アウトコースで様子見するつもりが、動揺していたせいで全力でど真ん中を貫いてしまったぁぁああ!!


 私は自分のしでかしたことに頭を抱えて逃げ出したくなったが、ぐっと堪える。

 聞いちゃったものは仕方がない。夏希先輩の返事次第で私の心配はなくなるんだから!


 気を取り直して夏希先輩を見ると、彼女は音が出るんじゃないかと思うくらいに顔を真っ赤にした。


「は? え? こ、こここいつが私の彼氏!? な、ないない! こいつとはただの幼馴染で、腐れ縁なだけだし! こんなバカが彼氏なんてありえないって!」

「おっとぉ? もしかして俺お前に嫌われてる? そこまで全力で否定しなくても良くない?」

「べっ、別に嫌いとかじゃ……。ほらっ、陽介だって勘違いされたら困るでしょ?」

「……確かにな」

「え……?」

「周囲から冷やかされたりするのはめんどくさいから嫌だ」

「……一発ぶん殴ろうかな」


 それだけで十分だった。そのやり取りから、その態度から、その声から。夏希先輩の全身から伝わってきた。

 心配はなくなるどころか的中して、私はその瞬間に絶望のどん底に叩き落されたような気分になった。


「そっか、そうなんですね……。夏希先輩とその先輩はお付き合いしていると。そういうことなんですね……」

「いやっ! 違うって言ってんでしょ!?」

「そうだぞー後輩。夏希はそのへんの男より男らしいからな。絶賛恋人募集中なんだぜ」

「募集してないから!」


 夏希先輩には好きな人がいたんだ。そっか、そうなんだ。夏希先輩はこの先輩が好きなんだ。


「さよならっ……!」


 気がつけば私は夏希先輩に背を向けて走り出していた。


 それは失恋に似ていたのかもしれない。胸の真ん中にぽっかり穴が空いたような、例えるなら好きなアイドルが結婚してしまったかのような、そんな喪失感があった。

 しかも結婚相手が一般男性だというのだからたまらない。


 結局その日、私は部活にも顔を出さずに家に帰ったのだった。



「害虫との遭遇編、完。あー、思い出したくもない過去だった……」

「じゃあ話すなよ。ていうか千秋完全にストーカーなの気づいてる? 前々からヤバいやつだとは思ってたけど、完全にアウトなヤバさだからね」

「憧れの先輩を遠くから眺めるなんて少女として普通の行動でしょ。害してないからセーフ」

「害してない……、のか?」


 一通り夏希先輩との出会いの話をし終わると、どうやら同時に三送会も終わったらしかった。


「ってホントに三送会のあいだ中千秋の話で終わっちゃったし……。ごめんなさい先輩方、卒業式はちゃんとするので」


 目を閉じて謝る茜の姿は、謝罪というより祈っているように見えた。



 3年生が体育館から退場したあと、明日の卒業式に向けて会場準備を手伝うように先生からアナウンスがあり、在校生は各々の仕事のために動き出す。


 さて、さっきは邪魔が入ったせいで夏希先輩を堪能できなかったからなぁ。仕事は適当にこなしつつ夏希先輩に会いに行こうっと!


 そう思って私も動き出そうとしたところで、茜が声をかけてきた。


「てかさ、千秋がどうしてその先輩を嫌ってるのかよく分かんないんだけど。嫉妬?」


 最初はあんなに話を聞くの嫌がってたくせに、なんだかんだで気になっちゃう茜は素直で可愛いなぁ。

 見た目は髪染めたり制服着崩したり顔怖かったりで不良っぽいのに、根は真面目で素直なんだよね。


「嫉妬もまぁあったけど、夏希先輩の寵愛ちょうあいを一身に受けているのにそれに気づかないとかありえないでしょ」

「気づいてればいいってこと?」


 茜は周囲の人達に釣られるように、体育館の壇上に向かって歩きながら首を傾げた。


「気がついてるならいいよ。もしそうなら私から夏希先輩にあいつは付き合う気ないって教えてるから。でも気づいてないってことは夏希先輩と先輩が付き合う可能性があるってことでしょ?」

「気づくまでは分からんってことか」


 そうだ。何かのきっかけで先輩が夏希先輩を意識しだしたら、あの二人はくっつくかもしれない。

 先輩の自覚次第でまだ可能性が残されているということだ。


「だから下手に手出しできないんだけど、あんな鈍感で取り柄も少ないような先輩にかかりっきりだと、夏希先輩の貴重な青春を浪費することになっちゃうわけ」


 何年も想いを告げられないなら、きっとこのさきずっと夏希先輩たちの関係は変わらないだろう。

 それに、先輩に想いを告げたとして、夏希先輩が幸せになるとは思えない。きっと夏希先輩は傷つくことになる。


「……夏希先輩の青春を蝕む害虫は駆除すべきなんだ」

「なに、じゃあ別の人なら千秋は納得するん? 例えばさっきの話に出てきた安牌あんぱいの先輩とか」

「塚田先輩のこと?」

「そうそれ」


 塚田先輩が夏希先輩と……? 全く想像つかないけど、どうなんだろう。

 まぁ、塚田先輩は悪い人じゃないし、夏希先輩のこと好きだし、大切にはしてくれそうだなぁ。

 細かい変化にも敏感そうだし、気配りもできるから夏希先輩のストレスは少ないかも。

 ……でも夏希先輩が誰かのものになるなんて、やっぱりヤダ。


「先輩よりはマシだけど、夏希先輩が誰かのものになるのはヤダからなし」

「結局それか」


 茜は呆れたようにそう言うと、たどり着いた壇上の下でいくつかのパイプ椅子を手にとった。

 私も2つ手にとって、指示された場所にならべに向かう。



「でもさ、夏希先輩のことが本当に好きなら応援してあげるべきなんじゃないの?」


 なんとなしに、当たり前に、茜はそんなことを言った。

 驚いて茜を見るも、彼女の視線はパイプ椅子を置くべき場所に向けられている。


「応援って、先輩と夏希先輩がうまくいくようにって? ありえないでしょ!」

「なんで? 別にその先輩……、名前なんだっけ?」

「……柳澤陽介」


 先輩の名前を口にすると、私の頭には夏希先輩が先輩のことを語るとき見せる表情が浮かんだ。

 それに自分でも分かるほど顔が強張る。


「なんでフルネーム? まぁいっか。で、その柳澤先輩ってのは悪い人じゃないんでしょ? 女癖が悪いとか、暴力的とか、悪い噂はあんの?」


 悪い噂なんて一つも聞いたことがない。私が血眼になって探していたのに、悪い噂どころかいいことしか聞かない。

 誰に聞いてもあいつはいいやつだとか、優しいだとか、そんなことばかり。


 行動を監視していた時期もあったけど、あの人の人柄は夏希先輩や皆から聞いた通りの人だった。


 やっと見つけた悪い噂も広瀬先輩の流した嘘だったし、それを聞いてまず先輩がそんなことするはずないって思ってしまった。


「……悔しいけど特にない」

「じゃあいいんじゃないの?」

「全っっ然よくないって!」


 茜はその吊り上がった鋭い目で私を一瞥すると、小さく鼻から息を吐いた。




「まぁそれでもいいとは思うよ? でも夏希先輩の幸せを本当の意味で願うなら、腕を引っ張るより背中を押してあげるべきだとあたしは思うね」




 ぐうの音も出ないほど正論だった。

 そんなこと分かってる。そう言いかけて、分かってなかったからこんなに後ろめたい気持ちなんだと気がついた。


「茜、怒ってる?」

「……顔が怖いのは生まれつきなの! あたしと1年も一緒にいるんだからそれくらい分かれ」

「見た目不良なのに言うこと真面目だよね」

「見た目真面目なのに中身が不良品なあんたよりはマシ」


 私のどこが壊れてるんだ。そんなことを思いながら、胸の片隅にはまださっきの茜の言葉がこびりついて離れなかった。

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