第141話 2月の終わりは焦燥に駆られて

 バレンタインが終わって一週間。昼下がりの教室は何も変わらぬ日常へと帰ってきていた。

 バレンタインを機に誰々が付き合い出したなんて噂をちらほら耳にしたが、そのどれも俺の周囲には何ら影響しそうにもない。


 思えば今年は珍しくたくさんのチョコをもらえたなぁ。

 まぁ、自分でも渡してるからチョコ交換に近いか。夏希や広瀬みたいなモテモテとは違うんだ。自惚れるなよー、俺。


 紙上をペンが走る音と紙をめくる音だけが聞こえる教室で、俺は浮つきかけた気持ちを振り払う。


 しかし、夏希と雪芽はそれっぽい雰囲気で渡してきたから、翌日顔を合わせるまで悶々もんもんとしていたのだが、会ってみればいつもどおりだった。


 やっぱり本命ではなかったのかと肩を落としつつも、悩む必要がなくなったので気持ちは楽になった。

 安心した、という表現がしっくり来るかもしれない。


 でも、こうしたふとした瞬間に考えてしまう。

 もし。もしもあれが本当に本命だったのなら、俺はどうしたのだろう、と。

 雪芽と結ばれる未来を選んだだろうか? 夏希を傷つける決断ができただろうか?

 そのもしかしての先で、果たして雪芽は無事なんだろうか?


 ……なんてな。そんな妄想を繰り広げてもなんの意味もないか。

 ちょっと自意識過剰気味になってるな。モテない男子のさがってやつか……。


 俺はそんな自分にため息をつく。

 今はそんなことよりも目の前のことに集中しよう。後回しにしてきた問題をどうするか、それを考えなければ。



 手に持ったまま微動だにしなかったシャーペンをくるりと回すと、一度頭を空にして紙と向き合う。

 ちょうどその時、終わりを告げるチャイムが教室に響き渡った。


「はいそこまで。名前書いたの確認して後ろから前に回せー」


 山井田さんの号令とともに教室は今までの静寂が嘘のような賑やかさに包まれる。

 辛い時間が終わったことへの喜びの声。自分の不安を解消すべく友人と答え合わせをする声。このあと噂の新作スイーツを食べに行こうと相談する声。


 それらの声をどこか遠くに感じながら、俺は大きく息を吸う。

 そして椅子の背もたれに力なく身を預け天を仰ぐと、長く息を吐いた。


「終わったな。完全に終わった」

「お疲れさま。感触はどうだった?」


 一切の希望がなく、いっそ穏やかな気持ちで微笑みを浮かべていると、隣の席から様子をうかがう声が聞こえた。


「……まずまずかな」

「一瞬間があったけど」

「テストは終わったんだよ雪芽。もう、終わったんだ」


 遥かな前方に運ばれていった俺のテスト用紙に遠く想いを馳せ、目を細める。

 せめて汚れなき姿で送り出せたことを喜ぶとしよう。


「また適当なこと言って。雰囲気には騙されません」

「大丈夫だって。きっとギリギリ赤点だよ」

「まぁそれなら――、って赤点じゃん!?」


 俺はすべてを許す仏のように穏やかな表情で雪芽に向き合う。

 雪芽はそんな俺の神気に当てられたのか、続く言葉を失った。


「終わったことはもうやり直せないんだ。だからもう忘れよう。この冬という季節にあいつのことは置き去っていくんだ」

「なになに? もしかして陽介ったらまた赤点ライン?」


 前方から歩いてくる夏希はニヤニヤとした笑みを浮かべて上機嫌だ。


「そういう夏希はどうだったんだよ?」

「私はそこそこできたから。ユッキーに教えてもらったおかげね」


 夏希と雪芽は互いに目を合わせると仲睦まじく微笑み合う。

 なんだろ、そこはかとなく割って入っちゃいけない雰囲気を感じる。


「ていうかあんたも教えてもらってたでしょ? なんで危ういのよ」

「男の子には悶々として何も手につかないときがあるんだよ」

「なにそれ下ネタ? サイテー」

「サイテー」

「いや違うから。とんだ勘違いだから」


 それから少しの間、夏希と雪芽は懐疑的な視線を向けて来たが、すぐに興味を失ったように話題を切り替えた。



「まぁいっか。それよりテストも終わったし、来週は三送会と卒業式ね」

「卒業式かぁ。部活入ってないから先輩が卒業してもなんら惜しくないな」

「私も先輩とは関わりないなぁ」

「ふたりとも冷めてるなぁ。部長なんて陽介を勧誘できなかったってすごく残念がってたのに」

「引退したってのに熱心な人だ……」


 冷めていると言われればそうかもしれないが、関わりのない人たちの旅立ちを惜しめるほど情にもろくはない。

 もうそんな時期なのか、と。式は長いからやだなと思う程度だ。


「でも、先輩たちももう卒業なのね。それで私達が最上級生か。なんかピンとこないかも」

「私も。学年とかあまり気にしたことないからかな?」


 そうだ。先輩らが卒業すれば、次は自分たちが最上級生だ。

 今、受験のせいで校内に立ち込めるピリピリとした空気を肌で感じて、来年は自分たちがこの只中ただなかにいるのかと思うと今から嫌になる。


 部活もとっくに世代交代して、夏希は陸部の副部長だと言うし、広瀬も部長になったらしい。

 委員会もクラスから何人か役員に就任して、高校最後の一年が始まる予感は、今や学年全体に伝播でんぱしていた。


 先生たちは一年なんてあっという間だという。でも、この一年を振り返っても短かったなんてかけらも思わない。

 俺が特殊なのかもしれないけど、あの夏を抜きにしても短かったとは思えないんだ。たがらなのか、受験と言われてもどこか他人事のような、まだまだ先な気がしている。


「受験、かぁ」

「なによ、今から大学行けるか心配になってんの?」

「赤点かもしれないもんね」

「いやちがっ――、くもないけど、なんか実感わかねぇなって話だよ。志望校もまだ決まってないし」

「あれ、陽介まだ決めてなかったの?」

「決めてないどころか方向性すら曖昧なんだよなぁ」


 そんな話をしていると、クラスメイトと話をしていたらしい隆平がこちらにやってきて声をかけた。


「お疲れー。テスト終わったなぁ」

「あっ、隆平はどう? 志望校決まってる?」


 夏希に話を振られた隆平は、唐突な質問に戸惑いつつも答えを出そうと律儀に首をひねった。


「うーん、まだかな。どうして?」

「あんたたち、揃いも揃ってのんきなもんねぇ」

「そういう夏希はどうなんだよ。どこ受けるんだ?」

「私? 私はH大の経営学部が第一かな。将来的にも陸上に関わっていくなら選手は厳しいし、陸上用品とかでアプローチするのに経営学んで損はないでしょ?」


 H大は陸上も強いし。夏希は最後におまけのようにそう付け加えた。

 思いの外ちゃんとした答えが帰ってきて、俺はからかいの言葉を告げようとしていた口を閉ざした。


「へ、へー。雪芽は? どうなんだよ」

「私はT大学に行くつもり。できたらその、医学部目指したいなぁって思ってるんだ」

「医学部!? 池ヶ谷頭いいもんなぁ。無理な話じゃないよ」

「そ、そうかな? あはは……」


 感心した様子の隆平の言葉に、雪芽は照れたように笑った。

 でも、自信なさげに笑っている雪芽の雰囲気は、とても固い意志のようなものをにじませていた。


「そっか……。なんかみんなちゃんと考えてんだな」


 受験、受験、受験。どうりで周りの大人たちが口うるさく言うわけだ。

 広瀬じゃないけど皆考えてるんだ。将来の自分、進むべき道、この先にある未来のこと。

 本当に、本当にもう目の前なんだ。俺がずっと先にあると思っていた一年先は、きっとあっという間にやってくる。そう思うと妙な焦燥感に駆られた。


「あんたたちも早めに学部くらいは絞っといたほうがいいわよ~?」


 そう言い残して夏希は自席に戻っていく。見れば周囲の生徒たちも次の掃除のために動き出していた。


「受験、かぁ……」


 口に出せば実感が湧くと思ったのに、やっぱりまだ遠くにある気がして。

 あとに残ったのは、胸にくすぶる宛のない焦燥感だけだった。





 ――――





 テスト終わりの帰り道、これから遊びに行くという雪芽たちと別れて、俺は一人いつものカフェに来ていた。

 ここはいつ来ても静かで穏やかだ。まるで外の世界とは切り離された空間のような、一つの異世界のような、そんな気がする。


 邪魔が入らない自分だけの世界は、自分自身を見つめ直すには心地よくて、なにかに行き詰まったり悩んだりしたときはよくここに来るようになってしまった。

 ここに来ればなにか希望が見える気がして。俺に未来を示してくれるあの人が現れる気がして。そんなすがるような気持ちが俺をこの場所に導くんだ。


「受験、かぁ」


 そしてもう一度つぶやいてみる。でもやっぱりそれはどこか遠くて、カップから立ち上る湯気の向こうにおぼろげな景色を描いて消えてしまった。ノイズだらけでまるで想像できない未来の景色。それだけを残して。


 自分のやりたいことってなんだろう。将来なりたい自分は何なんだろう。どんな大人になって、どんな仕事について、どんな未来を歩んでいくんだろう。歩んでいきたいんだろう。

 いくら自分の胸に問いかけてみても、それは壁にあたったボールのように跳ね返ってきてしまう。


 ずっと未来を渇望してきた。雪芽が生きて、皆が笑顔でいられる未来。そのためにできることは何でもしてきたつもりだ。

 でも、その未来はいつも俺の目の前にあった。手を伸ばせば届く距離で、だけど何かのきっかけで簡単に掴み損ねてしまう。そんな一瞬先の未来をずっと見つめてきた。


 だからかな。いきなり何年も先のことを考えろって言われても、どうしたらいいのか分かんないんだ。

 何年か先、そこにたどり着ける保証もないのに。



 そんな俺の思考を遮るように、店の入口から誰かの来店を告げる鐘の音が聞こえてきた。

 軽快な鐘の音にマスターの静かな挨拶の声が重なる。

 別に待ち合わせはしてなかったけど、誰が来たのか俺には確信があった。


「こんにちは」

「あれ、柳澤君……? どうしてここに?」

「今日はテスト最終日でして、俺ひとりでささやかな打ち上げをしてたんです」

「ふふっ、そうてしたか。お疲れ様でした」


 俺の待ち人である飯島さんは、小さく笑うとマスターにコーヒーを注文して俺の正面に座った。

 会えるかもとは思ってたけど、まさか本当に会えるとは。こうもうまくいくと運命的なものを感じちゃうな。


「飯島さんは休憩ですか?」

「ええ、そんなところです。それで柳澤君はどうしてここに?」

「やだな〜飯島さん。さっき言ったじゃないですか。ささやかな打ち上げをしてるんですって」


 俺の言葉に飯島さんは小さく微笑んで頷く。


「なにか人に話したいことがあるんじゃないですか? 私で良ければ聞きますよ」

「え? なんで……」

「顔に書いてありますから」


 ……参ったな。何でもお見通しなのか、この人は。

 ホント、敵わないなぁ。



 それから俺は受験についての不安を飯島さんに打ち明けた。

 抽象的でつたなくて、自分でも何を言っているのか分からないような話を、飯島さんは真剣な表情で聞いてくれた。

 そして俺が話し終わると、どこか懐かしむように口元に笑みを浮かべる。


「そうですか。それを聞いて少し安心しました」

「え、どこがですか」

「自分の将来について考えられている点です。柳澤君はずっと自分より雪芽さんを優先してきましたが、今は自分のことにも目を向けられている。私はそれが嬉しいのです」

「そう、でしょうか……。なんだかたるんでいる気がするんですけど……」


 忘れた頃に悪夢はやってくる。安心した頃に厄災は訪れる。体に染み付いたその教訓は、たるんでるんじゃないかと警鐘を鳴らしてくる。

 でも、飯島さんはそんなことはないと首を振る。


「前にも言ったと思いますが、柳澤君には柳澤君の人生があるんです。誰かのために捧げる一生も素敵ですが、自分を大切にできない人間はやがて歪んで他人を傷つけてしまいます」


 あくまで持論ですが。飯島さんはそう付け加えると一口コーヒーをすする。


「でも、いきなり自分の将来についてなんて言われてもよく分かんないです……」

「そうですよね。いきなりずっと先の未来のことを考えるのは難しいと思います。ですから、まずは自分の学んでみたいことを見つけてみたらいいんじゃないでしょうか」

「学んでみたいこと、ですか?」


「ええ、将来つきたい仕事があるならそこを見越して大学を選んでもいいと思いますが、ないならまずは興味のあること、好きなことをより深く学べる大学を選ぶのもいいですよ」


 興味のあること、か。

 ゲームで遊ぶのは好きだけど、作る側にはあまり興味ないんだよなぁ。


 強いて言えば繰り返す夏休みから始まった一連の出来事の真相については興味がある。

 だけどそれは進路とは関係ないよな……。


「うーん、興味のあることかぁ……。ぱっとは思いつかないですね」


「では今自分が好きなもの、やっていて楽しいと感じることを書き出してみるといいかもしれません。書き出すと頭の中身を整理しやすいので、そこから興味の持てるものを明確にできるかもしれませんよ」


「そうですね。まずは自分を知ることから始めようと思います」

「ええ、進路を決めるのはそれからでも遅くはないです。でも、勉強は今から始めないと手遅れになりますからね」


 厳しい表情でそう諭す飯島さんは、なんだか歳の離れた姉のようだと思った。



 そうして相談が一段落したところで、俺は今日ここに来た本当の目的を思い出した。


「そうだ、今日飯島さんに会えたら渡そうと思っていたものがあったんです」


 不思議そうに小首をかしげる飯島さんに見られながら、俺はかばんの中身を漁ると目的のものを机の上に出した。


「これは……?」

「チョコです。日頃お世話になってる飯島さんにバレンタインチョコをと思いまして。……といってもだいぶ遅くなっちゃいましたけど」


 本当は当日に渡せればよかったんだが、わざわざ呼び出すほどの理由でもないし、テスト勉強が控えていたからひとまず先送りにしていたのだ。

 テストが終わってから渡そうと思って作っておいたが、今日渡せてよかった。


「まぁ、ありがとうございます。まさか男の子からチョコを貰うとは思っても見ませんでした。私なんてなにも――」


 飯島さんはそこで言葉を途切れさせると、思い出したようにマスターを呼んだ。


「はい、なんでしょう」

「チョコケーキ一つお願いできますか?」

「かしこまりました」


 去っていくマスターの背中を眺めながら、俺は首をかしげる。


「飯島さん、そんなにチョコ好きなんですか?」


 俺の言葉に飯島さんは少しムッとした表情を浮かべると、語気を強めて言う。


「違います。これは私からのバレンタインチョコです。決して忘れていたとかではなく、次会ったらここのチョコケーキを奢ろうと思っていたんですから」

「な、なるほど。じゃあありがたくいただきます!」


 飯島さんの気迫に押される形でうなずいて、ケーキの到着を待った。

 やがて届いたチョコケーキを口に運ぶと、それはほろ苦くてなんだか大人の味がして。コーヒーの苦味も合わさって少し大人になれた気がした。


 それから飯島さんと互いの近況を話し合いながら、テスト終わりの優雅な昼下がりは過ぎていくのだった。

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