第140話 問いの答えは今すぐに出せずとも
足元に落ちた小さな包を見下ろして、俺は小さく鼻から息を吐いた。
――じゃあいいよ! お兄ちゃんなんてもう知らないッ!!
そう言ったときの晴奈の表情は、怒っていると言うより悲しげだった。
手の中でひしゃげた小包は、そんな晴奈の感情の残滓があるかのように、なんだか悲しげな顔をしている気がした。
――なんでお兄ちゃんはホントのこと話してくれないの!?
「本当のこと、か」
由美ちゃんのことを恋人として好きになれなかったのは事実だけど、そこに雪芽を守るという使命が関係していなかったとは言い切れない。
そういった意味では本当のことを全部話したわけじゃないか。
拾ったチョコの外箱のしわを伸ばしながら、俺はどうするのが正解だったのかを考えていた。
あの夏のことは話せない。おかしくなった世界と雪芽のことを話して仮に信じてもらえたとしても、それは俺の望む未来ではない。
飯島さんにはたくさん迷惑をかけたし、負わなくてもいい負担をかけてきた。それを他の誰かにも背負わせることはできないんだ。
そう思ったから話さなかったのに、その態度が嘘をついているように感じられたのかもしれない。
結局答えは出ないまま、俺はチョコの外箱の形を大雑把に整えると、そっと炬燵の上に置く。
まだ歪なその姿を見ると、少しだけ悲しくなった。
「……落ち込んでる場合じゃないか。晴奈はどこへ行ったんだ?」
先程玄関から外へ出ていく音が聞こえたけど、まさかこんな時間に家出とか……?
それはまずい。非常にまずいな。この時期のこんな時間に夜出歩いている人はいないとはいえ、なにか事件に巻き込まれないとも限らないし、寒さで凍えたりしてたら大変だ。
俺はずぐさま2階に上がり、脱いだばかりの防寒具を身にまとう。
カイロとか晴奈用のマフラーとかも必要だな。雪も降ってるなら傘もないと……。
そんなふうに準備を進めて、いざ出発しようとスマホを手に取ると、通知ランプが点滅していた。
見ればメッセージの通知のようだ。相手は……。
「……由美ちゃん?」
一瞬スマホを持つ手が強張る。俺を非難する言葉が書かれているんじゃないかと、嫌な想像が脳裏をよぎる。
……いや、そんなはずないか。このタイミングでそんなことをする理由もないだろうし。
俺は臆病な想像を振り払い、メッセージの中身を見た。
『晴奈はうちにいるので安心してください』
その文章を読んだとき、俺はホッと胸をなでおろした。
強張った肩から力が抜けて、こんなにも緊張していたのだと思い知る。
『晩ごはんをこっちで食べてから送っていくので、待っててくださいね! って、もう作っちゃってたらごめんなさいですけど……』
「ははっ」
思わず気が抜けたような声を出して笑ってしまった。
それは晴奈が無事てあったこともそうだけど、由美ちゃんの言葉が以前と変わらなかったところにもあるのかもしれない。
「晴奈のやつ、こんな時間にお邪魔して……。由美ちゃんにはお詫びの品でも用意しておかないとな」
今の俺が用意できるお詫びの品といえば、考えるまでもなく頭に浮かんだアレしかないだろう。たしかあまりの板チョコがお菓子箱に入れてあったはずだ。
『迷惑かけちゃってごめんね。それに晩御飯まで……。
送ってもらうのは悪いから俺が迎えに行くよ』
そうメッセージを返すと、由美ちゃんからすぐに返事があった。
『いえ! ウチが行くほうが都合がいいので、送らせてください!』
そう言われると無理に迎えに行くのも何なので、了解の旨を伝える。
俺はスマホを自室のベッドの上に放り投げると、着たばかりの防寒具を再び脱いでいく。
さて、夕食まではまだ時間があるし先に仕込みを終わらせとくか。冷やすのにも時間がかかるしな。
そして夕食までの時間をチョコ作りに費やすのだった。
――――
古くなって電池が切れかけてきたチャイムが、ポーンと間抜けな音を立てた。
もはや慣れて、ピンポンのピンはどこに行ったんだという違和感もないまま、俺は
「陽介ー? 晴奈帰ってきたんじゃないの?」
「あぁ、俺が出るよ」
「後でお母さんも行くからね。お礼言わなくっちゃ」
そう言うと母さんは
廊下に出て玄関に向かうと、鍵の開いた扉を開けて晴奈が家に入ってきているところだった。
「おかえり」
「……ただいま」
声をかければ、晴奈は不満げにただいまを呟く。いや、少しだけ申し訳無さそうにも見えるか。
「心配したんだぞ。急に出ていっちゃうし、外は雪降ってるし。由美ちゃんから連絡なかったら探しに行ってたとこだった」
「……」
「まぁ無事に戻ってきたからよかったけどさ。由美ちゃんも迷惑かけちゃったみたいでごめんね」
「いえっ、ウチも陽介さんに用事があったのでちょうどよかったです!」
用事……? なんだろう、都合がいいって言ってたことと関係あるのかな。
「由美ちゃんいらっしゃ〜い。ごめんなさいね、晴奈が急にお邪魔しちゃったみたいでぇ」
俺が首をひねっていると後ろから母さんが顔を出した。
そして一言二言晴奈に文句を言ったあと、玄関の向こうの外を見ると、不思議そうな顔をして由美ちゃんに問いかける。
「あら? 由美ちゃんお母さんは? 送ってもらったわけじゃないの?」
「あ、はいっ。用事のこともあったので歩いてきたんです」
「あらそう……。この前のPTAじゃあまりお話もできなかったから楽しみにしてたのに、残念だわぁ」
母さん……。由美ちゃんのお母さんとおしゃべりしたくてわざわざ出てきたのか……。
「まぁとにかく上がって上がって。寒い中晴奈を送ってくれたんだもの、お茶くらい飲んでってちょうだい。ほら陽介! あんたもボーッとしてないで由美ちゃんを案内して。それで晴奈はお母さんとお茶の準備とついでにお説教ね」
「ええ!? なんで!」
「人様に迷惑かけたんだからあたりまえでしょう? ほら早くしなさい」
場を仕切る母さんの号令で、各々が動き出す。
その
由美ちゃんを居間に通し、晴奈が母さんの説教を終えるまでの間、俺達は二人きりで炬燵に向かい合わせで座っていた。
……やっぱり面と向かうとまだ気まずいな。
「ホントごめんね。晴奈が急に押しかけた上にご飯までご馳走になっちゃって」
「いえ! ウチも晴奈にお願いしたいことがあったのでちょうどよかったですし」
由美ちゃんは本当に気にしてないような明るい笑顔でそういった後、炬燵の上に置かれたしわくちゃのチョコに目をやった。
「それで、あの、これは……?」
「あぁ、これは……、晴奈にあげたチョコだよ。仲直りするきっかけにでもと思ったんだけどさ、逆効果だったみたいだ」
そして、由美ちゃんはチョコに目をやったまま、悲しげに呟く。
「くしゃくしゃですね。晴奈ったら、もう……」
「……いいんだ。俺の浅慮が原因だから。贈り物なんて安易な手段に頼ったのは良くなかった」
「でも、晴奈は欲しがってた答えをすでに知ってたはずです。他にどうしようもなかったんですから、陽介さんは悪くないですよ」
「……うん、ありがとう」
由美ちゃんはこう言ってくれるけど、俺がもっとうまく立ち回れていれば、もっと上手に秘密を隠せていれば、もっと周りが見えていれば。きっとこれよりマシな今があったはずだ。
「それじゃあお母さんは2階にいるから、由美ちゃん帰るときに呼んでちょうだい。送ってくからねえ」
台所とをつなぐふすまが開かれ、母さんの声が居間に響く。どうやら晴奈への説教は終わったらしい。
あれこれ言われたのだろう、晴奈はゲンナリした顔で居間に入りふすまを閉めた。
「あ、それ……」
そして炬燵の上のチョコに目を留めると、バツの悪そうな表情を浮かべる。
そのまま炬燵に歩み寄ると、机に人数分の紅茶を置き、何も言わずに炬燵に入った。
ぶつかった足が無言で場所をあけろと言うので、俺は少し場所を空けてやる。
炬燵に収まった晴奈は、それから少しの間黙ったままじっとしていた。
その目は机に置かれたボロボロのチョコに向けられている。
「……ごめんなさい」
そしてポツリとこぼすように呟く。
「ムカついたからってチョコ投げたのは良くなかった。作るの大変なのはあたしも知ってるし……。だからごめんなさい」
今度ははっきりと、俺の目を見て謝る。
少し驚いて由美ちゃんに目をやると、彼女は呆れたように微笑んでいた。
「……あぁ、そうだな。食べ物を粗末にするのは良くない」
「えっ……? う、うん、それは良くないことだけど……」
「じゃあちゃんと食べような? 嫌なら俺が食べるけど」
俺がそう言うと、場の空気を悟った由美ちゃんが元気よく手を挙げる。
「それならウチもいただいていいですか!?」
「もちろん。じゃあ二人で食べよっか」
「ちょっ! あたしまだ嫌とか言ってないんだけど! 食べる、食べるからっ!」
それから、俺達はグシャグシャの外箱の封を開け、案の定ひどい有様のチョコをつまみ始めた。
味は悪くないだとか、砕けたおかげて食べやすいだのと口にしながら、少しの間穏やかな時間がすぎる。
そして、しばらくもしないうちにチョコは綺麗サッパリなくなってしまった。
まぁ、1人分を3人で食べたんだ。そりゃすぐになくなるよな。
「はい、これお返し」
お茶だけが残った机に、晴奈が新たな包を置く。可愛らしいオレンジの包の中身は――
「あげるつもりなんてなかったんだけど、由美がどうしてもって言うからさ」
「ちょ、晴奈!」
「まぁ、それに? もらったらお返ししないとだし。一応」
「……そうか、ありがとな。すごく嬉しいよ」
それ以上になんて言えばいいのか、俺には分からなかった。
この全身を駆け巡る感情を言葉にして伝えたいのに、ありがとう以外の言葉が見つからなくて。
「お、大げさなんだよ、お兄ちゃんは。こんなの大したものじゃないし」
「でも嬉しいのは本当だ。ありがとうな」
「……まぁ、喜んでくれてるなら別にいいけど」
晴奈は照れ隠しをするように口を尖らせると、手元の紅茶を一口飲む。
そして由美ちゃんに目を向けると、こちらが本題とばかりに声を上げた。
「あーほらっ、由美も出しなって」
「えっ、今!? でも、これじゃあウチのチョコが晴奈のついでみたいだし……」
「あたしが由美のついでに出そうとしてたのに、全然出さないからでしょ」
「それはっ……、そうだけどぉ」
話の流れからして由美ちゃんもチョコを作ってきてくれた……、のかな?
しかし何やら
しばらくそんなことを続けていたが、やがて由美ちゃんは晴奈と色違いのピンクの包を取り出すと、おずおずと差し出した。
「あの、これウチからのバレンタインチョコです。受け取ってください!」
「それはありがたいけど……。でも、いいの?」
由美ちゃんとはもう別れたのだ。果たしてこれを受け取ってもいいものなのか。
そんな躊躇う俺とは対象的に、由美ちゃんは迷いない笑顔を浮かべ、
「ウチ、陽介さんが思ってる以上に諦め悪いんですよ? これは宣戦布告みたいなものですから!」
と、そんなことを言うのだ。
「宣戦布告か。……ああ、受け取らせてもらうよ。ありがとう」
「一応言っておきますけど、本命ですからね?」
「あ、ああ、分かってるよ。うん、分かってる」
包み隠すことのない好意に少したじろぐ。
この想いを素直に喜ぶべきなのか、俺にはまだ分からなかった。
だって、由美ちゃんとの関係は終わったばかりだ。まだどんな顔をして彼女と向き合えばいいのかもはっきりとしていない。
でも、彼女はまた新しい関係を築こうとしてくれている。
これはその第一歩。関係は終わったままじゃなくて、続いていくんだと。そんな宣言なのかもしれない。
「そうだ。受け取ったままじゃ悪いから俺からも。ちょっと待っててくれ」
俺は炬燵を抜け出して冷蔵庫に向かうと、冷やしていたチョコを取り出す。急ぎで作ったがなんとか形になったようだ。
その場で簡単にだがラッピングを施し、炬燵で待つふたりのもとへ帰る。
「お待たせ。はいこれ、俺から由美ちゃんに感謝の気持だ」
「へ? か、感謝ですか? ウチなにかしました?」
「晴奈のことでお世話になったからさ。それに、変わらず接してくれることに対しても、かな」
「分かりました。陽介さんだと思って大事にしますね!」
「いや、ちゃんと食べてくれよ!?」
そらからしばらくの間、柳澤家の居間からは楽しげな笑い声が響き渡っていた。
いくつかの想いに、答えに、蓋をして。それでも笑うのは、その先には不幸が待っていると皆分かっているからなのか。
白黒つけない灰色を、そんなものもあるのだと納得して。正解の分からない問題を後で解こうと後回しにするように。ずっと遠くのいつかの自分にすべてを委ねて、怠慢な俺は笑う。これでいいんだ。よかったよかった、と。
そうやって、ただ今だけを見つめて笑っていたのだった。
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