第137話 想いの結晶は胸中に届く

 2月も14日。もう春が立って10日も過ぎたというのに廊下は寒々としている。

 この寒さで春だなんて言われてもピンとこねぇよなぁ……。甘めに見積もっても3月半ばくらいからだろ。

 廊下の窓から覗く中庭は、庭石に雪の笠をかぶせたまま、冷たい暗さで満ちている。朗らかな春の息吹はかけらも見受けられない。


「……っはぁ、寒っ」

「あ、陽介……。待っててくれたんだ」


 中庭に積もった雪を睨みつけていると、教室からこの時期にぴったりな名の少女が出てきた。

 身にまとった冬服もすっかり馴染んで、もう新鮮味はないな。それでも妙な嬉しさがこみ上げてくるから不思議だ。


「まあな。用事はもう済んだのか?」

「うん……」


 雪芽は手に持った深い緑のマフラーを首に巻くと、その中に顔をうずめた。

 なにか浮かない顔だな。夏希と何やら話していたようだったけど、また喧嘩したとかじゃないよな?


「夏希となんか話してたみたいだけど、あいつ今日は忙しそうだからなぁ。さっきも後輩に囲まれながら廊下を歩いていったぞ。ははっ、芸能人みたいだな」

「なっちゃん優しいから。私と初めて会ったときも色々面倒見てくれたし」


 当時を思い出したのか、雪芽は優しげな笑みを浮かべた。

 ……喧嘩ってわけじゃないのかな。だったらいいんだけど。


「そうだったな。あの時も進んで案内してたし、昔っから面倒見いいんだよ」

「うん、おかげでお母さんと街に来ても迷わなかった」


 街? 学校案内の話じゃないのか?

 しかし、そんな疑問は3歩ほど進んだところで解消した。


「……そうか、そうだったな。初めて夏希に会ったのは、あの夏の街を案内してたときだったか」

「なんか懐かしいね。気がついたらあっという間に冬だもん」

「ああ、そうだな。懐かしい」


 もっとずっと、ひどく遠い昔のことのような気がする。

 こうしたふとした瞬間に思い出す。俺は今、いくつもの夏休みの先に立っているのだということを。

 10回も失敗し、11回目の奇跡の上で生きているのだということを。



「陽介はさ、なっちゃんには毎年チョコもらってたの?」

「へ? チョコ? う〜ん、どうだったかな……。俺個人にってくれたのは去年が初めてのはずだよ。ブラックサンターだったけど」


 随分急な話だったから、間の抜けた声がこぼれてしまった。

 見れば雪芽は俯いたまま歩いている。マフラーに顔を沈めているせいだろうか。


「あ、でもそれだと今年はもらってないな。ほら、毎年じゃない」

「あ……。うん、そうだね」


 少し冗談めかして言ったのだが、雪芽は寂しそうに笑っただけだった。


 それから少しの間、無言で廊下を歩いた。

 こう寒いと廊下に響く声や足音も、なんだか乾いている気がする。音の広がりが鋭いというか、そんな感じた。


 そのせいだろうか。自分たちの立てる足音がひどく気になった。

 俺の足音が2つ鳴るたびに、隣で3つの足音が鳴る。

 それは不規則にバラけているはずなのに、不思議とリズムは合っているように聞こえた。


 その足音の1つがパタリと止む。もう1つはそのまま2つ音を鳴らして止んだ。


 どうしたのかと振り返ると、雪芽は先程と同じように俯いていた。

 そして、意を決したように顔を上げる。




「あのねっ、なっちゃんは……!」




 しかし、雪芽の言葉は乾いた残響に変わってしまった。

 マフラーから覗く口元をへの字に引き結び、ピーコートの裾を一瞬だけ強く握ると、雪芽はまた俯いた。


「……ごめん、なんでもない」

「そっか」


 そしてまた同じリズムで廊下を歩き出す。



 ……なんとなく雪芽の言いかけたことは分かった。

 でも確信はないしなぁ、どうしたもんか……。


 あっ、そういや自衛チョコがまだ1つ残ってたな。これ使って確かめてみるか。

 でも確信ないことに雪芽を付き合わせるのもあれだな。今日のところは雪芽一人で帰ってもらうか。


 そんなことを考えながら廊下を進み、やがて昇降口にたどり着いた。

 雪芽を先に行かせ、靴を履いたタイミングを見計らって声を上げる。


「あっ、そういえば用事あったの忘れてた! わりぃ雪芽、先帰っててくれ」


 手に持った靴を再び下駄箱に戻し、俺は鞄を背負い直す。


「えっ? だったら私待ってるけど」

「いや、時間かかると思うし待たせるわけには、な。んじゃ、足元気をつけて帰れよ!」

「え、あっ、ちょっと!」


 戸惑う雪芽に背を向けて、俺はそそくさと下駄箱の向こうに姿を隠す。

 そうして廊下を少し駆けたあと、後ろを振り返って雪芽が追いかけてきてない事を確認する。


「さて、とりあえず部室まで行ってみるか。……っと思ったけど、よく考えたら今部活中じゃん。どーすっか……」


 うーむ、なんの計画もなしに動き出してしまった。部活中に乱入してっていうのも悪目立ちするし、おとなしく夏希が部活を終えるまで待つしかないか。


 ここは風が吹くから寒いし、教室にでも入っていようかと歩を進めたところで、俺は立ち止まる。

 あー……、でも教室いたら夏希とすれ違いになるかもしれんしなぁ。部活終わる時間も分かんないし、ここで待つか。


 そんなこんなで再び昇降口に戻ってきて、手近な壁によりかかる。そしてポケットからスマホを取り出した。


 幸いなことにやることはあるから、待ち時間も退屈せずに過ごせるのだ。

 ゲームのバレンタインイベントをまだやりきれてないし、周回周回っと。



 そうしてスマホを突いて少しすると、誰かが廊下を歩いてくる音が聞こえた。


「あれ? 陽介帰ったんじゃなかったの?」


 名を呼ばれて顔を上げると、ウインドブレーカーに身を包んだ隆平が驚いた顔をしてこちらを見ていた。


「そのはずだったんだけどな。ちょっと用があってさ」

「……もしかして、女子から呼び出されたか!?」

「んなわけあるか! むしろ逆だ」

「逆……? まぁいっか。俺靴取りきたんだったよ。掃除の時間に雪かきに駆り出されたから、こっちに置いてたの忘れてた」


 隆平は下駄箱から自分の外履きを取り出すと、そのまま少しゲームの話をしてから去っていった。

 隆平のやつ、結構進んでんだなぁ。完全に出遅れた。この待ち時間は有効に使わせてもらおう。


 隆平に触発される形でゲームへのモチベーションを上げ、スマホを突くスピードも上がる。


 しかし、それも長くは続かなかった。燃え上がった俺の対抗心も、この寒さの中ではあっさりと鎮火されてしまい、かじかんだ指先はスマホを叩くたびにコツンと硬い感触を返した。



 ボーッとスマホを眺めていると、廊下を誰かが駆けてくる音が聞こえる。どうやらこちらに近づいてきてるようだ。


 外から吹き込む冷たい風がふくらはぎあたりを撫でていって、思わず身震いする。

 垂れそうになった鼻水をすすり、首元から熱が逃げないようにネックウォーマーを引っ張り上げた。


 足音の主は走るのをやめて、俺の方に近づいてくる。

 そして通り過ぎるかと思われたその人は、俺のすぐ横で立ち止まった。




「なーにしてんのよっ、こんなところで」




 聞き慣れた声に驚いて顔を上げると、制服姿の夏希が立っていた。

 あれ、今は部活中じゃ……? 早く終わったんかな。にしても早いよな?

 まぁいっか。なんにせよこれ以上待つ必要はないってことだ。


「お前を待ってたんだよ、夏希」


 俺がそう言うと、夏希は驚いたように少し目を大きくし、ふいっと横を向いた。

 それに合わせてショートボブの髪がふわりと広がる。


「な、なんであんたが私を待ってんのよ」

「俺が夏希を待ってちゃいけないのか?」

「そういうことじゃなくてっ」

「ははっ、すまんすまん。ちょっとからかいたくなった」

「あんたねぇ……」


 声を上げて笑う俺を、睨みつける夏希は不満そうだ。


「そういや夏希、部活はもう終わりか? 随分早かったけど」

「ううん、まだこれから。練習行く前に私も陽介に用事があってさ。さっき隆平に陽介がまだ帰ってないって聞いたから、走ってきたのよ」

「用事? お前も?」


 予想外の答えに思わず聞き返すと、夏希は目をそらした。

 右に左に動く視線は、何かを隠そうとしているかの様に見える。


「うん、まぁね? その、大した用事じゃないんだけど、ね」

「走ってきたのにか?」

「それはそのっ……、ウォーミングアップよ! 練習前の!」

「ふむ……、言いにくいなら俺の用事から済ませようか?」

「ああいや、ちょっと待って! 私から先に言わせて!」


 俺の顔の前に片手を突き出して制止する夏希は、走ってきたせいか赤らむ頬をこちらに向けて、こんなときだけ鋭いだの何だのと不満げに呟いた。


 そして目を閉じて心を落ち着けるように大きく深呼吸をすると、後ろに隠していた手を突き出した。

 ボスッとくぐもった音とともに、胸に確かな振動が伝わる。

 俺の胸に手を当てたまま、表情を隠すように俯いた夏希は、強張った声で呟いた。


「……これ、あげる」

「これって……、チョコか?」


 小さく頷く夏希の表情は伺い知れない。ただ、髪の間から覗く耳が朱に染まっていた。


 胸に押し当てられた包を受け取り、改めてよく見てみる。

 プラカップに入ったトリュフチョコだ。まるで雪のように散りばめられたシュガーパウダーがアクセントになっている。

 このプラカップは1つのスノードームのようだと、そんなことを思った。


「すごく高そうだけど、いいのか?」

「買ったやつじゃないわよ」

「え、じゃあ貰い物……? さすがにそれは――」

「違うったら! 貰い物上げたりしないわよ!」

「てことはもしかして、夏希の手作り?」

「そのもしかしてよ。……なに、悪い?」


 腰に手を当てて偉そうな態度の夏希は、怒ったような表情を浮かべる。

 しかし、チラチラとこちらの様子を伺っている目は、怒っているようには見えない。


「……いや、すごいなこれ。マジで売り物だと思った。夏希ってお菓子作りとかできたんだな」

「と、当然よ! 私だってその気になればこれくらいできるってこと。ほらほら、感謝にむせび泣いてもいいのよ?」


 さっきと同じような偉そうな態度だが、表情は自慢げだ。


 これだけのものを作るのに、一体どれだけの時間をかけたのだろうか。一体どれだけの苦労を重ねたのだろうか。

 俺も自分で作ったから分かるけど、チョコ作りは見た目以上に繊細だし、1つのミスで全部ダメになることもしばしばだ。俺が普段作る大雑把な男料理とは訳が違う。


 ……きっと、すごく頑張ったんだろうな。


「……ああ、ありがとう。食べてもいいか?」

「え!? い、いま? それはちょっと……。ってあぁ!」


 夏希の返事を待たずして、俺はチョコを一粒手にとり口に放り込む。

 噛めばパリッとしたチョコの食感の先に、柔らかな生チョコがある。

 外側は少しビターで、中はとろけるように甘い。一粒で二度美味しい。そんなチョコだった。


「……どう? 一応味見はしたからそんなに変な味はしないと思うんだけど……」

「うん! これすごくおいしいよ。本当に売りに出せるんじゃないか?」

「バ、バカじゃないの? 大げさなのよ」

「大げさじゃねぇよ、自信持っていい。去年のブラックサンターも嬉しかったけどさ、こっちのほうがずっと嬉しいもんだな」

「あっ……。う、うん……」


 夏希は褒められて照れたのか、俯いてしまった。



「それにしても、これだけのもの作るの大変だっただろ? 雪芽や隆平の分もってなればさ」

「あぁ、えっと、ユッキーや隆平の分は作ってないのよ。あんたの分作るので精一杯だったから」

「へ? じゃあなんだ、俺以外にはチョコあげてないのか?」

「うん? まぁそういうことね」

「へー、じゃあ俺だけにくれるチョコ――」


 ……え、ちょっとまって。俺だけにくれるチョコ……? なんかどっかで聞いたセリフなんだが。

 えっとどこだっけ、確かヒナが広瀬にチョコあげたときの――、




 ――あげるチョコだよ。




 ……そうだ、それだ。

 そしてその言葉の意味は俺の思い違いでなければ、本命チョコという意味を持つのだが……。


 思い至った仮説に勢いよく夏希の顔を見ると、彼女はキョトンとした表情で首を傾げた。

 えっ、違うの? そういうことじゃないの? 友チョコ? 義理チョコ? え、でもなんで俺だけ?


 混乱してもらったチョコと夏希の顔を交互に見るが、夏希は胡乱うろんげに眉をしかめるだけだった。


「えっとぉ……、もう一度確認するけど、夏希は俺以外にチョコあげてないってことでオケィ?」

「なによ、さっきからそう言ってんでしょ? 隆平といいあんたといい、何をそんな気にすることが――」


 夏希はそこで突然言葉を途切れさせると、視線を左下に移してしばし思案する。

 その後、何かに気がついたように顔を上げると、慌てたような表情で俺を見た。


「ああっ! えっとほら、あれよ! あんたとは付き合いも長いしっ、幼馴染チョコ的なアレよ!」

「えっ、幼馴染チョコ?」

「違くてっ! そうじゃなくて!」

「えっと、違うのか……?」

「いや! 違うんだけど違わないというかなんというか?」

「なぜ疑問形?」

「あぁもうっ! うっさいわね! あんたは黙って受け取って、いつもみたいな間抜け面で美味しいって言いながら食べてればいいのよ! 分かった!?」

「わ、分かった! ……って、え? 間抜け面?」


 思わず同意したが、聞き捨てならぬ単語に聞き返すと、夏希は弾けるような笑顔で吹き出した。


「あっはは! そうよ、その間抜け面! ふふっ、バカで間抜けでっ、ホント……、どうしようもないヤツ、なんだから……」


 しかし、その笑顔は言葉とともに次第に淋しげに変わっていく。

 心配になって覗き込むと、目があった夏希は薄く笑みを浮かべてみせた。


「……バカで間抜けなのは私の方か」

「え?」

「ううん、なんでもない。それよりあんたも用があったんでしょ?」

「あ、あぁ。俺のはほれ、これ渡そうと思ってさ」


 夏希に促され、俺は鞄の中に入っていた自衛チョコを取り出す。

 それを手渡すと、夏希は呆れたように笑った。


「なに、あんたも私にチョコ渡すつもりだったの?」

「そゆこと。晴奈に渡そうと思って作ってみたんだが、そのついでにな。もらいすぎてもういらないかもしれないが、このチョコの御礼ってことでもよかったら受け取ってくれ」


「何よその無駄な女子力……。まぁもらうわ。受け取らないわけ無いでしょ? それに今更1つや2つ増えたところで大差ないし」


 夏希はそう言うと俺のチョコを受け取り、確かに受け取ったと言わんばかりにかざしてみせた。

 そしていたずらっぽく笑って言うのだ。


「でも、チョコ交換ってことじゃ受け取らないから。だからちゃんとホワイトデーはお返し用意してきてよね! もちろん手作りで!」

「はぁ!? なんでそうなる!」

「あたりまえでしょ? 私のチョコは交換のために作ったんじゃないんだからっ。あんたのお返し、楽しみにしてるからね!」

「ったくもう……。だったらお前もお返し用意してこいよ? ちゃんと手作りで」

「はぁ!? なんでそうなるのよ!」

「あたりまえだろ? 俺だってチョコ渡したんだから、交換不成立ならお返しがあって然るべきだ」

「むぐぐ……。わ、分かったわよ! すごいの作ってきてやるんだから、覚悟しときなさいよ!」


 夏希は悪役が言いそうな捨て台詞を吐き捨てると、そっぽを向くように背を向けた。


「ああ、楽しみにしてる」

「……バカ。覚悟しときなさいって言ったのよ。じゃあね!」

「おう、また明日!」


 向こうを向いたまま走り出した夏希の背中にそう声をかけると、彼女は一瞬手を上げて返事をした。

 そして、そのまま夏希の背中は廊下を曲がって消えてしまった。


 だけど、視界から消える一瞬に見えた夏希の表情は、笑っていたような気がした。

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