第138話 もう一つの想いは秘密に隠されて

 廊下の先に消えた夏希を見送ると、騒がしかったやつがいなくなって、廊下は先程までの静けさを取り戻した。

 なんだか急に冷えてきた気がする。


「……帰るか」


 夏希からもらったチョコをもう一口頬張って、下駄箱に向かう。うん、やっぱりうまいな、これ。

 靴を履き替えて外に出ると、なんだか雪でも降り出しそうな天気だった。こりゃ今夜も降るかもしれないな……。


 そんな予感に身震いして、昇降口を出る。

 ガラリとして寂しげな駐輪場から自転車を引っ張り出し、足跡だらけの雪上にわだちを刻む。



 足元に注意をはらいながら、まだ溶け切らない雪……、というより氷の上を慎重に歩き、坂を下りきったところで顔を上げると、そこは校門だった。

 そして、そこに寄りかかる人物を目にして、俺は思わず声に出してその名前を呼んだ。


「雪芽……?」


 雪のように白い頬を寒さで薄く朱に染めた彼女は、俺の呟きのような声に顔を上げる。

 目が合うと困ったように笑い、白く煙る吐息とともに言葉を吐いた。


「早かったね、陽介」

「なんで――、いや、それよりこんなところで待ってたら体に障るぞ。体調崩したらどうするんだ」

「あはは、ごめんね。でも大丈夫だよ? 最近は体調もいいし」

「この前倒れたばかりなのに何言ってんだ。こうなるかもって思ったから先帰れって言ったのに……。それに、どうせ待ってるならもっとあったかいところで待っててくれよな」

「……うん、そうだね。次からはそうする」

「全く、あんまり心配かけんなよな」

「うん、ごめんね……」


 少し言いすぎただろうか、雪芽はしゅんとしてうつむいてしまった。

 でもこんな寒いところで待ってて風邪でも引いたら大変だ。雪芽にはもう少し自分の体を大切にして欲しいものだ。


「分かればいいんだよ。ほら、もう行こうぜ。コンビニ寄ってあったかい飲み物でも買おう」


 そう促して一歩足を踏み出すと、雪芽は小さく頷いてから俺の後に続いて歩きだした。



 それから少しの間、足元の雪に気をつけながら無言で歩く。

 雪芽はその間ずっと俺の一歩後ろで足元を見ながら歩いていた。


「ねぇ、陽介」


 雪かきのされた歩道に出たあたりで、雪芽は遠慮がちに口を開いた。

 振り向いて見ると、雪芽は相変わらず足元に目をやっていた。


「そういえば用事はどうなったの? ずいぶん早く帰ってきたけど」

「用事は終わったよ。雪芽のおかげだな、ありがとう」


 お礼を言われるのが意外だったのだろう。雪芽はキョトンとした表情で足を止めた。


「お前、夏希がチョコを用意してくれていること話してくれようとしただろ? おかげで無事受け取れた」

「な、なんでそれ知ってるの!? 私最後まで言ってないのに……」

「そりゃ夏希からチョコもらったかって聞かれたし、その後であんな顔して夏希はーって言われたら、俺だって気がつくよ」


 俺がそういうと、雪芽は信じられないものを見るような目で俺を見た。

 なんだよ、俺がそこに気がついたことがそんなに意外なのか? 普段の俺って一体どんなイメージなの?


「……まぁ、いつもの俺だったら気がつかなかったかもしれないけどな。今年は外野が騒がしかったせいか妙に意識しちまってたからさ……」


 高野は毎朝カウントダウンにくるし、隆平は夏希や雪芽から貰えるかもなんて期待させるようなこと言いやがるし、意識したくなくてもしちまうだろ?


 だから放課後になっても夏希から何も言われなかった時はちょっと残念だったんだ。去年だってブラックサンターもらえたし、今年も何かあるんじゃないかって勝手に期待していたから。

 だから雪芽が夏希のことを話題に出したとき、もしかしたらって思ったんだ。もしかしたら夏希は何か用意してきてくれてたんじゃないかって。


 でも、チョコを受け取りに行くなんて自意識過剰なことはできなかった。幼馴染とはいえ恥ずかしいものは恥ずかしい。

 だから大義名分が必要だった。あくまでも自然な流れで夏希が用意しているかもしれないチョコを受け取る理由が。

 そして、俺の自衛チョコはそれにぴったりだったという訳だ。


「チョコを渡してチョコ交換って流れなら自然だろ? それに夏希が用意してなくてもあいつは責任とか感じずに済むし。こっちの妙な期待をあいつに押し付けたくないしさ」


 一通り俺の思惑を伝えると、雪芽は唖然あぜんとした様子で口をぽかんと開けていた。

 しかし、すぐにその口元に笑みを浮かべて柔らかく微笑んだ。


「やっぱり陽介は陽介だね」

「当たり前だろ」

「うん、でもなんか安心した」


 そういう雪芽の笑顔が嬉しそうだったから、それ以上は何も聞かなかった。

 雪芽はそのまま小走りで俺の隣に並び、俺たちは再び歩きだした。



「それで、なっちゃんは他に何か言ったりしなかった?」

「他にって?」

「その……、チョコのこととか」


 雪芽の一言で俺は夏希とのやりとりを思い出す。

 俺にしかチョコ作ってないって言ってたよな……。でもなんか本命ってわけじゃなさそうだし、幼馴染チョコとか意味不明なこと言ってたな。雪芽の準友達と同じレベルの意味不明さだ。


 でも、去年はブラックサンターだったのに、今年はいきなりあんなにクオリティの高いものをくれた。

 それに、あのチョコは相当がんばらないと難しい出来だったように思う。幼馴染ってだけでそこまでするかな、普通?


 でもそれだと夏希は俺のことを……? いや! それはないだろ、それはない。

 俺は至りかけた結論に恥ずかしくなって、考えることをやめた。


「うーん、特に言われてないけど……。それがどうかしたか?」


 俺は自分に言い聞かせるように、そんなごまかしの言葉を口にする。

 まぁ、実際本命だなんて言われてないし。

 義理チョコだとも断言されていないぞという心の声は一旦無視する。


「そっか……。ううん、なんでもないよ。少し気になっただけ」

「……今夏希からもらったチョコ持ってるから、見せてやろうか?」

「ううん! それは大丈夫!」

「そうか」


 じゃあ何が気になったんだろうか? 雪芽は夏希が俺に何か話すかもしれないって考えていたのか?

 それがなんなのか聞いてみたい気もしたが、あまり詮索するのもアレなので、その疑問は胸の内にそっと秘めておくことにした。



「でもさ、夏希があんなにすごいチョコ作ってくるなんて思わなかったから。びっくりして、すごいって感心して。それで、すげぇ嬉しかったんだよ」


 きっと以前の夏希だったら、バレンタインにチョコを手作りして、幼馴染とはいえ男の俺に渡すなんて考えられなかっただろう。


 ……今は消えてしまった夏休みの中でも、夏希は自分を女子として見てほしいと言っていた。俺が見ていたのは夏希の昔から変わらない部分だけだったんだな。

 俺はどこかで今の夏希に昔の夏希の面影を当てはめていたのかもしれない。変わらずに俺のそばにいてくれたあいつは、昔のまま変わってないんだと勝手に思っていた。


「……変わってくんだな、あいつも」

「え?」

「いや、ちょっとだけ寂しい気がしてさ。これが娘が嫁に行く父親の気持ちなのかなぁ」

「えーっと……、うん。多分違うんじゃないかな」


 きっと、特別大きなことがなくても変わっていくんだ。

 小さな変化が積み重なって、いずれ大きな変化を生む。それはなんとなく分かっていたけど、目を逸らしていたい。

 俺は今に満足しているんだ。夏希や雪芽がいて、みんな笑っている平和な日常に。だから何も変わらなくていいのに、否応無しに変化は訪れる。


 ただ、変わるのが怖いんだ。その変化が今の俺たちを壊してしまう気がして。雪芽の命を奪っていく気がして。ただただ、怖いんだ。


 そんな恐怖で目をつぶって、俺はかすかな春の香りに混じって漂ってくる変化の予感に、気づかないふりをするんだ。

 そうして固く目を閉じて、肩を叩かれても知らん顔をして、ずっとまぶたの裏に映る景色を見つめていたい。いつまでもそんなことはできないと知りながらも、今はまだ。


「……陽介?」

「……ん? ああすまん、コンビニだな。あそこ入ろう」

「え? あっ、うん」


 そんな思考にふたをして、俺はコンビニへと向かった。





 ――――





 折よく到着した電車のドアは、かじかんだ手でも分かるほどに冷え切っていて、開けるのを少し躊躇ためらうほどだった。

 しかし、中に入れば暖房の効いた暖かい世界が広がっていて、冷たいのは開けたドアから吹き込む風に顔をしかめたおじさんの視線くらいだった。


 それを横目に通り過ぎ、人のいない4人がけの席に雪芽と向かい合って座った。

 ホッと一息つく雪芽の手には、大事そうにジンジャーレモンのペットボトルが握られている。悴んだ手が少しは温まっただろうか。



 他愛ない話をしているうちに電車は動き出す。

 昨日降った雪で白く染め上げられた景色が、視界の端を通り過ぎていく。


 電車に揺られながら、雪芽と今日あったいろいろなことを話しているうちに、話題はまたチョコのことに戻ってきていた。


「だからさ、この機会に晴奈と仲直りしたいなぁと」

「それでチョコ作るんだ? あはは、そこで買わないあたりが陽介らしいかも」

「……よく考えたら買っても良かったな。お高いチョコならあいつも喜ぶかもしれん」

「え!? 今気づいたんだ……。でも、手作りのほうが思いが伝わっていいと思う。きっと晴奈ちゃんも喜ぶよ」

「そうだといいんだけどな」


 晴奈はもう家にいるだろう。帰ったらすぐに渡すとしよう。

 どんな反応をされるのか怖いけど、今日渡した連中は概ね好意的な反応だったから、大丈夫だと思いたい。


 結局余ってたから隆平にもチョコを渡したんだが、なんか普通に喜んでたし。男からもらって喜ぶとか、俺の周りには変態しかいないのか?



 そんなことを考えているうちに、もうすぐ降車駅に着くらしい。なんだかあっという間だったな。

 少し前までは雪芽と二人きりだとギクシャクしていたのだが、最近では以前のように話せるようになってきた。そのせいか二人で過ごす時間が早く過ぎるように感じる。


 あの夜、雪芽が昏睡状態から目覚めたあの夜。俺が雪芽に言いかけた言葉を、雪芽は待っていた。

 あのときはまだ雪芽は広瀬と付き合っていたから、状況を混乱させちゃいけないと思って言えずにいた。


 この思いを伝えたいと、そう思わないこともない。でも、なんのきっかけもなしに伝えられるほど、俺は勇気のある人間じゃない。いや、きっかけがあってもどうかな……。

 それに、今は雪芽との関係は現状維持すべきだ。下手になにかしてまた雪芽になにかあってはいけないし、現状維持で問題ないと飯島さんも言っていた。

 そんな風に自分に言い訳して、結局広瀬と雪芽が別れた今でも言えずにいる。


 だけど、近頃雪芽はあの夜のことについて何も聞かなくなった。

 そしてそのことに安心している俺がいる。それが少しだけ情けなかった。



 端の方に雪が積もるホームに降り立ち、寒さに首をすくめる。

 吐いた息がふわりと宙に浮かんで消えた。


 歩く俺たちを追い越して電車が通り過ぎて行く。

 電車が遠のくにつれ駅は静寂に包まれる。周りに積もった雪が音を吸い込んでしまうせいだろうか。

 俺と雪芽の足音だけが聞こえる世界は、なんだか特別な気がした。


「あの、陽介」


 俺の後ろを歩いていた雪芽が立ち止まり、俺を呼ぶ。

 振り返ると、雪芽はマフラーに顔を埋めるようにして俯いていた。そして何かをためらうかのように口を開きかけては閉じる。


「なんだ?」


 俺は少し緊張しながら問いかける。

 雪芽の声や表情が真剣な硬さをはらんでいたからだろうか。音のない二人だけの世界のせいだろうか。

 それとも、あの夜のことを考えていたせいだろうか。


 雪芽は二、三度俺と目を合わせては逸らすことを繰り返し、やがて意を決したように真っ直ぐに俺の目を見つめて、一歩前に出る。


「はい、これ」


 両の手で包み込むようにして差し出されたその包装の中身は確認するまでもない。今日という日が俺にそうさせる。

 それを反射的に受け取ろうとして、俺ははたと思いとどまる。


「これチョコだよな? でも雪芽からはもうチョコもらってるぞ。お昼に食べたけど……」

「うん、チョコだよ。……もう一つのバレンタインチョコ」

「もう一つ……?」


 雪芽の言葉の意味を理解出来ない俺に、雪芽は小さく頷いた。

 そしてもう一歩前に出ると、宙で固まったままの俺の手にそれを握らせた。


 その時触れた雪芽の手の冷たさに、思わず小さく肩が跳ねる。

 心臓が締め付けられるように縮こまって、口の中が乾く。

 少し見下ろした位置にある雪芽のはにかむような微笑みから目が離せない。


「え、っと……」


 状況が飲み込めずに固まる俺を置いて、雪芽は小走りで駅の改札に向かって行く。

 その姿を追いかけるように振り向くと、雪芽は後ろ手を組んだままくるりと振り返った。


「そっちが本当に陽介に渡したかったものだよ。お昼に渡したのは義理チョコだったから」

「じゃあこれは……?」


 雪芽は何かを言いかけて口を閉じた。

 そして柔らかな微笑みを浮かべると、何度も聞いたその言葉を口にする。




「秘密」




 その時に見えた笑顔はなんだか大人っぽく感じられた。あたりがもう暗いからだろうか。

 笑顔の前に見せた表情が寂しげに見えたのも、きっとそのせいだ。


「じゃあまた明日。晴奈ちゃんと仲直りできるといいね!」


 雪芽はそう言うと再び背を向けて駆け出す。


「あ、ちょっと!」


 呼び止める俺の声は届かなかったのか、雪芽は改札をくぐって見えなくなってしまった。

 静かになった駅のホームで、俺は手元に残った雪芽からのチョコを見つめる。


 お昼のが義理チョコで、これが本当に渡したかったもの。それって……、




「本命チョコ、ってこと……?」




 もう一度雪芽が消えた改札を見やる。そこにはもう答えをくれるはずの彼女はいなくて。

 あるのはただ、申し訳ばかりの外灯に照らされた駅のホームだけだ。


 ため息をつくようにして吐き出した息が、ネックウォーマーの隙間から漏れ出て視界をよぎる。

 それは、俺の胸の内を焦がさんばかりの熱を孕んで、とても、とても熱かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る