第130話 事件の残り香はカフェに漂う 上
トン、トン……、と。コピー用紙の上を叩くシャープペンシルの芯の音が、静かな部屋で規則的に鳴り響く。
暇を持て余した左手を頬にあてがい、傾いた顔で窓の外を見る。
ベランダの手すりに積もった雪は、最初30cmほどあったにもかかわらず、今はもう10cmほどしか残っていない。
その奥に佇む吸い込まれそうなほどに暗い夜の闇は、退屈そうにこちらを見る男の姿を映し出した。というか俺だった。
「はぁ〜、やる気出ねぇ……」
俺は
チラリと目をやると、シャーペンは先程まで俺を悩ませていた問題の上で、はよ解けと言わんばかりにじっとこちらを見つめている。
そのまま目に映った、全面にびっしりと赤でペケがしてあるプリントに、俺は思わず顔をしかめた。
つい数週間前にあったセンター試験以降、各授業では度々こうしてセンター試験の過去問を宿題として出されるのだ。
しかし、まだ習ってないところも多く出題されるので、こんな風に赤ペケだらけになってしまう。
以前山井田さんにあまりに出来が悪いと呼び出されたときにそう言い訳したら、全部教えたところだからあとは問題の解き方を考えれば解けるはずだと怒られた。
その解き方が分からないと言うと、居眠りしてるからそういう大事なことを聞き損ねるんだと更に怒られ、追加課題としてこのプリントを渡されたわけだ。
全問正解できるまで解き直しだなんて横暴だよなぁ? ハラスメントだ、ホームワークハラスメントだよこれ。
そしてこれでもう3周目。さすがに
今日はこのへんでいっか! ゲームしよゲーム!
机の気持ち遠目に置かれたスマホを手に取り、俺は最近また力を入れ始めたソシャゲのアイコンに指を伸ばした。
「ただいま〜」
ちょうどその時、玄関で間延びしたただいまが聞こえた。どうやら晴奈が帰ってきたらしい。
もうすぐ夕飯の時間だというのに、一体どこで何をしていたのやら。少しずつ長くなってきたとはいえまだ日が落ちるのは早いんだから、お兄ちゃんとしては気をつけてほしいものだ。
起動したゲーム画面を見ながら、俺は顔をしかめる。
それは決して複雑な兄心からではない。まぁそれも半分くらい含まれて入るだろうが、一番の要因はスマホの画面に表示されたアップデートの文字列だ。
そこそこ量があるようで、家のよわよわWi-Fiでは相当な時間がかかる。
モバイルデータ通信は父さんがケチったせいでたった数GBしかないし、我慢するしかないだろう。
にしてもなんかでかいイベントでも来てるのかな? ついこの間までゲームどころじゃなかったから情報何も仕入れてねーや。
ま、アプデが終われば分かるからいっか。隆平に聞いてもいいしな。
そう割り切ると、俺はスマホを充電器につないでベッドの上に放り投げる。
さて、暇だし下行ってテレビでも眺めてるか。
「どう? 楽しんできた?」
「まぁね。由美もついてきちゃったから大所帯だった」
「いいわねぇ〜。お母さんが晴奈くらいの時はおばあちゃんに手伝ってもらってたから、お友達となんて憧れちゃうわぁ〜」
「はいはい」
階下に下ると、夕飯の支度をしている母さんと晴奈が何やら話をしているようだ。
今日のことかな。結局晴奈はどこいってたんだろう?
「晴奈お帰り」
俺が声をかけると、晴奈は途端に表情を消した。
顔に話したくないって書いてあるようだ……。
「……ただいま」
そして短くそれだけ言うと荷物を持って二階の自室へと行ってしまった。
「陽介、ほんとにあんた何したの? あっ、もしかしてこの間、お母さんがあんたと晴奈の洗濯物一緒に洗っちゃったのがいけなかった!? ごめんねぇ〜」
「違うでしょ。晴奈もお年頃ってことだよ、きっと」
「そ〜お? やっぱり洗濯物分けたほうがいいのかしらねぇ? 水道代がかさむわぁ」
「……母さん、話聞いてた?」
「……? 聞いてたわよ」
「?」
「?」
母さんと二人して首を傾げる。
あれ、晴奈も晴奈なりにいろいろ思うところがあるって話だったよな? あれー?
……まあ、でもそんな風に年頃の娘に邪険にされる父親のようになるのも時間の問題か。
由美ちゃんとのことがあってからというもの、晴奈の俺に対する態度はあのように素っ気なくなってしまった。
それも当然だよな。晴奈にとって由美ちゃんは姉妹みたいなもんだし。その由美ちゃんを俺は振ってしまったわけだしな……。
きっとまだ納得してくれてないんだろう。
でも、俺は晴奈に納得できるだけの理由を与えてやれない。由美ちゃんの想いより大切な、その理由を。
「はぁ〜〜、どうしたもんかねぇ……」
「ほんと、どうしようかしらねぇ……」
そして俺と母さんは揃ってもう一度溜息をつくのだった。
それから諸々を済ませて自室に戻ると、スマホにはアップデート完了のウィンドウが表示されていた。
一体なんのイベントが来たんだ? 2月だと……、節分とか? ゲーム映えしないからそりゃないか。
では何なのかと気になってゲームをスタートすると、真っ先に浮かんできたお知らせウィンドウには、大きな文字でこう書かれていた。
「……バレンタイン? あぁ、そうか。バレンタインイベントか」
バレンタインって2月のいつだっけ? 毎年関わりなく過ぎ去っていくから詳しい日付まで覚えてないな。
……でもそうか、バレンタインね。去年は夏希がお情けでブラックサンターをくれたんだっけ。それでホワイトデーに、ブラックサンターに相応しいお返しとして買ってきたキャラメルを数個渡してやったら、なんだか複雑な表情で礼を言われたんだったな。
文句があるなら何が欲しいかくらいは言ってくれよなぁ。
あれならいっそチョコでお返ししてやればよかった。チョロルなら2、3個で等価交換だろ。
「……ん? 等価交換? チョコを交換……、か。うん、悪くないんじゃないか? いや、悪くないぞこれは」
俺は思い至った一つのアイディアに、思わず頬を緩ませるのだった。
――――
「なるほど、ではその後変わりないということですね」
「はい。言われたとおり広瀬のことも注意してましたが、すっかり落ち着いてて別人ですよ」
「ふむ……、やはり違ったようですね」
「ええ」
飯島さんはコーヒーカップに手を添えながら、深く考え込むように息をついた。
いつものカフェは、土曜日だというのに俺たち以外の人影が見えず、とても静かだ。
そんな中俺たちは、広瀬との騒動の
ことが済んだ直後は飯島さんの都合が悪いようだったので、電話で
「広瀬君本人でなくとも、その後ろにこのループ事件の犯人がいると思っていたのですが……」
「それとなく聞いてみましたが、あいつは関係なさそうでした」
「それでも念の為、注意しておいてください」
「言われなくてもそのつもりです」
言ってしまえば広瀬は前科持ち。再び雪芽に近づくようなことがないように目を光らせておく必要がある。
飯島さんはそんな俺の言葉に、そのことばかり注力しないようにと釘を刺してから、こちらか本題とばかりに話し始めた。
「ところで、雪芽さんの
「状況の変化というと、雪芽や俺のってことですか」
「それもあるとは思いますが、私は犯人の状況の変化が大きいと思っています」
「犯人の?」
「はい。犯人は雪芽さんが倒れてすぐに彼女を昏睡状態にした。あのまま放っておけば高い確率で雪芽さんは命を落とし、再び世界は巻き戻ったでしょう」
……飯島さんの言うとおりだ。雪芽はこれまでのパターンに当てはめれば3日で死に至る。その3日の間で広瀬を退けることができたかと問われれば、分からないというのが正直なところだ。
「しかし、眠ったままの雪芽さんは実に6日もの時間を過ごし、無事命をつないだ。ここに来てなぜ犯人は行動を変えたのでしょうか」
それはきっと、そうするだけの理由があったからだ。
犯人からすれば雪芽を殺してループさせればいいだけの話。なのにそうはならなかった。まるで何かに守られるように雪芽は眠りについて……。
「雪芽に死なれては困る何かがあった……?」
「おそらくは」
「それって……!?」
身を乗り出す俺に、飯島さんは残念そうに目を伏せて首を振る。
「そこまでは分かりません。雪芽さんを生かすことが目的なのか、生かした先に何かがあるのか。なんにせよ犯人は雪芽さんを生かそうとしている。それは確かになりました」
……一歩前進、なんだろうか。まぁ、犯人が雪芽を殺そうとしてくるよりはよっぽどマシだけど、それが分かったからといって俺にできることはやっぱりなにもないままだ。
「ところで一つ確認なのですが、雪芽さんが眠ったまま目覚めないのは、今回だけじゃなかったんですよね?」
「ええ、こっちに越してくる前にも一度あったそうです。確か2日程度で今回ほど長くはなかったみたいですけど」
飯島さんは考えをまとめるようにしばし黙考すると、やがて確かめるように話し始めた。
「雪芽さんの昏睡は彼女を延命するためのものと考えることもできますが、それだとこちらに引っ越してくる前にも起こっていたことは不可解です。
雪芽さんの寿命はこちらに引っ越してきたあとの夏休みの最中に尽きるはず。だとすればこの昏睡は雪芽さんの延命措置としてだけの役割以外になにかあるはずなんです」
なにか……。雪芽が眠っている間には何かがあった。眠っている間にあることって言えばなんだ?
……そうだ、雪芽が言っていたじゃないか。目が覚めてすぐ、俺と二人きりの病室で雪芽は言っていた。
「……夢を見ていた」
「え?」
「不思議な夢を見ていたって、雪芽は目が覚めてすぐ、言っていました。俺たちの最寄り駅、あの無人駅で誰かと話してたって……!」
飯島さんは俺に言葉に目を見開く。
そして少し身を乗り出し、珍しく早口でまくし立てるように問う。
「それはいつ見た夢の話ですか? それよりも夢の内容は? その誰かとは誰ですか!?」
「ま、待ってください! 夢の内容については詳しくは聞いてないんです。ただその誰かに質問をされたと言ってました。一つ願いを叶えてやるから何を願うかって」
「それで、雪芽さんはなんと?」
「たしか……、恋がしたい。そう願ったらしいです」
飯島さんは大きく息を吐くと、背もたれによりかかる。
それに合わせ、アンティークな椅子がしわがれた声を上げた。
「やっぱり、その誰かが犯人なんでしょうか?」
「まず間違いないと見ていいでしょう。となると、雪芽さんの昏睡状態はその犯人との接触という役割も持つことになりますね……」
「じゃあ雪芽に話を聞いたほうが早いですよね。俺帰ったら早速――」
「待ってください。それは少し慎重になったほうがいいと思います」
犯人への手がかりを掴んだというのに、飯島さんは落ち着いた声で俺を制止する。
「そのことを聞くには、私達がこのループ事件の犯人を追っていることを雪芽さんに話さなくてはならない可能性があります。それはつまり、柳澤君の知られたくないことを知られてしまうということになります」
「それは……」
「大丈夫です。焦っても失敗の種を増やすだけ。落ち着いて時が来たら話を聞いてみればいいんです」
時が来たら、か。確かに焦っても何もいいことはない。それでまた雪芽に何かあっては元も子もないし、今は大人しくしておくべきだ。
でも、せっかく犯人へと続く道の扉を見つけたっていうのに、開けられないだなんて……。
だけど、開けたからと言ってその先に道が続いている保証はどこにもない。それだけが少し怖かった。
「しかし、そうですか……。願い、願いですか……」
飯島さんは椅子に寄りかかったまま、酷く納得のいったような表情で俯く。
それはどこか悲しげに見えて、苦しそうにも映った。
きっと、飯島さんの中では答えにも似た何かがあるのだ。俺よりもずっと近い位置で犯人を見据えている。
でも、同時にそれを教えてはもらえないだろうということも分かっていた。
そして、その答えをせがむことが飯島さんを苦しめるのだということも。
飯島さんはゆっくりとした動作でコーヒーを一口含むと、何かを流し込むかのようにその喉を鳴らした。
そうして小さく鼻から息を吐いて目を開ける頃には、いつもの飯島さんに戻っているのだった。
「しかし、徐々に犯人の行動が直接的になってきましたね。もしこれが余裕の無さからくるものだとしたら……。いや、この件に関わっている存在が複数であると仮定すれば、これは別の……?」
「……飯島さん?」
「あ、ああ、すみません。私ったらまた……。いけませんね、考えすぎて周りが見えなくなっちゃうのは私の悪い癖です」
でもそれは、どこかいつもの飯島さんとは違って見えた。
何かから目を逸らそうとしているような、何かを隠そうとしているかのような。そんな気がするというだけの曖昧な違和感。
そんな違和感を抱えたまま、俺は抱き続けてきた一つ疑問を投げる。
「いえ、それは全然。……でも、一つ気になることが。ループ事件の犯人って本当に人なんですか? あんなこと人間にできるとは思いませんけど」
飯島さんはコーヒーカップの縁をなぞる指を止め、眉を
「……どういう意味ですか?」
「この一連の事件、その犯人が人ならざるもの。俺達より高次の存在、神ではないかという話です」
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