昇る太陽
第126話 事件の終わりは謝罪に謝礼 上
授業の終わりを知らせるチャイムが響く。
換気のために誰かが窓を開け、吹き込んできた冷たい空気に思わず身震いをした。
さて、弁当はあるが何も飲むものがない。寒いのは嫌だけど何か買ってくるか。
「あれ、陽介今日は購買なの?」
俺が財布を手に席を立つと、隣の雪芽は珍しいものを見るような顔でこちらを見た。
いつも母さんが弁当を作ってくれるからな。毎日朝早く作ってくれて、感謝しかない。
「いや、飲み物がなくてさ。ちょっと自販機で買ってくるよ。雪芽も何か欲しい物ないか?」
「ううん、私は大丈夫」
「分かった。じゃあ夏希たちと先食べててくれ」
「はーい」
穏やかに返事をする雪芽に思わず微笑みを浮かべて、俺は教室を出た。
あれから数日、俺はいつもの日常に身を置いていた。
雪芽がいて、夏希がいて、隆平がいる。刺激的なことはなにもない、平凡で平和な毎日。強いてあげるとするなら、そろそろセンター試験で、来年はお前らも受けるんだから~と山井田さんがうるさいくらいか。
「陽介」
昼休みで賑やかになった廊下に、俺を呼ぶ声が響く。
……ん? 響くっておかしくないか? だって周りは賑やかなはずだろ。
気がつけば周囲は静まり返っていた。いや、正確には声のボリュームを落として皆会話している。
その理由は後ろを振り返ったときに分かった。
「……なんの用だ、広瀬」
「少し話したいことがあって、今いいかな?」
遠慮がちに口元に笑みを浮かべる広瀬に、俺は警戒しながらも頷いた。
本来は話を聞くこと自体危険なのかもしれないが、この表情には裏表がないような気がしたから、少しくらい信じてもいいと思ったんだ。
「ありがとう。じゃあ場所を移そうか」
そう言って隣に並ぶ広瀬とともに、俺は歩き出した。
――――
たどり着いた中庭は、この寒さのせいで人一人いなかった。
ちょうどよい高さの石に腰掛ける広瀬と少し距離を置いて、俺も適当な石に腰掛ける。
広瀬はそれを見て、ぽつりぽつりと話しだした。
「まずはこれまでのこと、本当にすまなかった。何度こうして謝ったところで君が許してくれるはずもないけど、せめてもうあんなことはしないということは信じてほしいんだ」
「……」
「そう、だよね。それが当然の反応だ。……実は、ずっと迷ってたんだ。君に話すべきか、距離を置くべきか」
落ち着いた、柔らかな声音だった。以前のようなハキハキとしゃべる明るさはなかったが、俺にはこっちのほうが親しみやすい気がした。
「でもやっぱり話しておこうと思って。ヒナも明もそれは今必要ない、それよりほとぼりが冷めるまで接触は控えるべきだって言ったんだけどね。それでもちゃんとケジメはつけなくちゃいけないと思ったからさ」
「何の話だよ」
「雪芽の話さ。正確には、雪芽と俺の話」
雪芽と俺。その言葉が広瀬の口から出た時、どうしてか俺は一言文句を言ってやりたくなった。
なぜだろう? その理由は分からないんだけど、そんな気になったんだ。
「……なんだよ、話って」
しかしその気持を抑え込んで、俺はそう尋ねた。
広瀬はそんな俺の雰囲気を悟ったのか、慌てたように弁解する。
「違う違う、別に陽介が今思ってるような何かあったわけじゃない。むしろ何もなかったって言おうと思ってたのさ」
「何もなかった?」
「ああ。雪芽は俺がいくら脅しをかけても、いくら言いくるめようとしても動じなかった。俺は最初彼女のことを吹けば飛んでしまいそうな儚い人だと思っていたんだけど、どうやら逆だったようだ。雪芽は確かな芯を持った、強い人だよ」
広瀬は自分から見た雪芽の話を、憧れているような目をして話した。
そしてこちらを見て恥ずかしそうにはにかむ。
「実はさ、クリスマスの日、俺は雪芽にキスを迫ったんだ」
「なっ!?」
「でも断られた。突き飛ばされて、最低だって罵られたよ。今思えば俺は焦っていたのかもしれない」
広瀬の告白に動揺した俺は、結局広瀬と雪芽の間に何もなかったことに胸をなでおろした。
でもこいつ、雪芽にそんなこと迫ってたのか。まぁ形だけとはいえ恋人だったわけだし、何もおかしなことはないんだろうけど……。俺だって――、いや、あれは俺が断る側だったか。
「多分、なんていう曖昧な理解なんだけどさ。俺は雪芽が好きだったんだと思う」
「どういうことだよ。お前は恋人ごっこはする気なかったんじゃないのか?」
「そのはず、だったんだけどね。俺の話を聞いて受け入れてくれた雪芽に、俺は惹かれていたのかもしれない。あるいはいくら言い寄ってもなびかない彼女を落としたいという思いがあったのかもしれない。どちらにせよ、俺は彼女の魅力に惹かれたんだ」
「……お前、まさかまた雪芽にちょっかい出すつもりじゃないだろうな。もし次があるなら容赦しないぞ」
「しないしない! もう俺は諦めたよ。雪芽にも、何があってもあなたの彼女にはならないって言われたしね。だから俺は、今までないがしろにしてきたことの清算をするつもりさ」
「……そうか」
そういう広瀬は、なんだか清々しい顔をしていた。まるでもう清算を済ませた人間が浮かべるような、落ち着いた笑みを。
「さてと、俺が陽介に伝えたかったことはこれで全部だ。俺は君の雪芽に手を出したりなんてしてない。安心してくれって言いたかったんだ」
「俺の雪芽って、なんだよそれ」
「だってそうだろ? あんなに必死になって俺から取り返したじゃないか」
「あれはお前が無理やり雪芽を――」
「好きなんだろ? 雪芽のこと」
広瀬の言葉に、俺は言い訳を述べていた口を閉ざす。
な、なぜそのことがバレてる? 俺誰にも言ってないよな?
「全く、羨ましいよ。きっと君たちは――、いや、やっぱりやめとこう」
「なんだよ、気になるだろ?」
広瀬はなにか言いかけて立ち上がると、俺に背を向けた。
「せめてもの仕返しさ。羨ましいね、本当に。羨ましいよ」
そう言い残して、広瀬は俺の前から消えた。わけの分からない置き土産を残して。
一体何だったのか、しばらくの間考えていたのだが、結局答えは出なかった。
……まぁ、考えたってしかたないよな。こうやって悶々とすることが、広瀬の言う仕返しなのかもしれないし。
「あれ〜? 柳澤君じゃん。こんなとこで何してるの? ボッチ飯?」
ぼんやりとまだ雪の残る中庭を眺めていると、誰かが俺の視界を遮った。
「雪芽が教室でキミが早く帰ってくるのを待ってるよ~!」
「ヒナこそ何してるんだよ。広瀬ならもう行ったぞ」
こちらを見下ろすヒナは、人懐っこい笑みを浮かべると、俺のすぐ正面の石に腰掛けた。
「そんなの知ってるし。ヒナは柳澤君に用事があってきたの」
用事? よく考えたら高野とはよく話すけど、ヒナとはあまり話さないな。だからと言ったらあれだが、用事と言われてもピンとこない。
「あ、その前に〜。ヒナも柳澤君のこと陽介君って呼んでもいい?」
「え? 別にいいけど、急にどうした?」
「だって陽介君、ヒナのこと受け入れてくれたじゃん? だからお礼」
受け入れたなんて心当たりが無いんだけど……。でもそんなこと言ったら騒がれかねん。大人しく受けとくか。
「あ、あぁ。そうなのか……?」
「うん! あっ、それでね? ヒナの用事っていうのは、ちゃんとお礼言ってなかったから、それ言おうと思って」
またお礼。なんだろ、やっぱり心当たりがない……。
「優利のこと、助けてくれてありがと。ヒナたちだけじゃどうしようもなかったと思う」
「そんなのお互い様だろ? 俺たちだってヒナや高野がいなきゃ雪芽を助けられなかった。こっちこそありがとうな」
俺がお礼を言うと、ヒナは何がおかしいのかクスクスと笑い始めた。
「なにかおかしかったか?」
「あははっ! ごめんごめん、だって陽介君、優利みたいなこと言うんだもん!」
ヒナは少しの間そうして笑うと、校舎に目をやる。その目はどこか懐かしむように細められていた。
視線の先は、どうやら俺たちの教室の辺りのようだ。
「優利もね、よくそんな事を言うの。俺がこうしていられるのはヒナたちのおかげなんだから、お互い様だって。あははっ、そうして考えてみると優利と陽介君って似てるかも」
「はぁ? どこが似てるんだよ。正反対だって言われたほうがよっぽど納得できる」
「多分優利もおんなじこと言うと思う。でもヒナは似てると思うな」
「だからどこがだよ」
「似てるけど、だからこそ正反対のところが目についてぇ。だから優利は陽介君に突っかかったんだと思うよ」
リレーのときの活躍を見て表情変わったし。ヒナはそう呟いてニカッと笑った。
……なんか誤魔化された感が否めないな。広瀬に似てるって致命的なことな気がするから、はぐらかさないでほしいんだが……。
「でも羨ましかったんだと思うよ。陽介君が自分とは違って自由に生活していて、雪芽や夏希からあんなに好かれていて。優利も沢山の人に好かれていたけど、あの人にはそれが薄っぺらく感じられたんだと思う」
「それはあいつ自身が薄っぺらかったからだろ」
「うわー、辛辣ぅ。まぁその通りだけどぉ」
「……悪い、お前は広瀬のことが好きだったな」
「ちょっと、やめてよねー! めっちゃ恥ずいじゃん! もーっ、明がみんなにバラすから……。ていうか優利にもバレてるだろうし……。でも何も言ってこないってどーゆーこと!?」
「厄介な男に惚れたもんだな。応援してやるからせいぜい頑張れ」
「それ陽介君が言う? 君も十分に厄介だと思うけど」
「はぁ? どこがだよ。俺は広瀬ほどひねくれてないぞ」
「……自覚ないから厄介なんだよねぇ~。雪芽たち可愛そう」
ヒナは何か小声で呟くと、おもむろに立ち上がってスカートについた砂を払った。
そしてこちらを見下ろすと、思い出したように声を上げる。
「あっ、そういえば聞こうと思ってたことあったんだった」
「なんだ?」
「陽介君さ、どうしてヒナがこんなに呼び名にこだわってるのか、気にならない?」
口元に人懐っこい笑みを浮かべつつも、その瞳の奥は真剣に見えた。
どうして、か。そんなの興味がないからなのだが、言われてみれば気になるには気になる。
「教えてくれるのか?」
「んー、まだダメェ。それで? どうして聞かないでいてくれたの?」
なんだ、結局教えてくれないのか。
じゃあ気にするだけ無駄だと、そう素直に伝えるとしよう。
「気にするだけ疲れるからだよ。別にどんな理由だろうがお前はお前だ。それは変わんないだろ」
「ふーん、そうなんだ」
ヒナは後ろ手を組んでくるりと背を向けた。
そのまま一、ニ歩進むと、再び俺に向き直る。
「もう少し早く出会ってたら、ヒナも雪芽たちの仲間入りしてたかもね」
じゃあね、と。そう言い残してヒナは去っていった。
……きっと、なにかヒナにとって大切なことだったんだ。だから真剣に見えたし、最後にあんな表情を浮かべたんだろう。
「正解、ってことだったのかな」
最後に見た、ヒナの嬉しそうな笑みを思い出して、俺も思わず微笑みをこぼすのだった。
――――
それから俺は本来の目的を思い出し、冷たい風に吹かれながら平気な顔して立ち並ぶ自販機群に歩み寄る。
財布の中身を確認し、飲み物を物色しながら、こう寒いとついつい温かい飲み物ばかり見ちゃうなと、ぼんやり考えた。
そうして物色していると、少し離れたところから見知った顔が歩いてきた。
そういえば部室がすぐそばだって言ってたな。よし、あいつにも世話になったしジュースの一本くらい奢ってやるか。
「おーい、杉山」
そう思って声をかけると、先程よりも幾分も近づいた杉山は視線を上げる。
「げっ」
しかし、そう声を漏らすと、何も見なかったかのようにくるりとターンし、来た道を引き返そうとした。
「おいおいおい! ちょっと待てって!」
俺は慌てて杉山に駆け寄ると、去りゆく手を取った。
「……ちょっと、離してもらえますか? 訴えますよ?」
「おぉ、悪い……。ってそうじゃなくて、どうして逃げたんだよ?」
「そんなの先輩を見たからに決まってるでしょう。毒虫を見たら誰だって逃げますよね? なので私も逃げますさようなら」
そう言ってまた逃げ出そうとする杉山を、今度は捕まえずに言葉を投げる。
「待て待て待て。何も逃げることないだろ? 俺なにかしたか?」
「先輩は存在が害悪なんですよ。なにかしたとかしてないとかは関係ありません」
「やっぱお前俺には辛辣だよな……」
「……で? 何の用ですか? 大した用じゃないなら先輩とはここで永遠にお別れです」
「永遠って……。まぁ、大事な用事だよ」
結局聞いてはくれるのか。なんだかんだ言ってこいつ、根は優しいんだよな。俺が困ってるときも力になってくれたし。
俺は首だけでこちらに向き直る後輩に、しっかりと頭を下げた、
「ありがとう。お前のおかげでなんとかなったよ。助かった」
下げた頭を上げると、杉山は拍子抜けしたような顔で俺を見ていた。
思い当たるフシがないって顔だな? なら教えてやるとしよう。
「お前、俺が広瀬に嫉妬したって噂が流れたとき、励ましてくれただろ? あれのおかげでだいぶ楽になったからさ。改めてそのお礼」
「は? 別に励ましてはないですよ? 私は夏希先輩の元気がない理由を知りたかっただけですので。先輩にはこれっぽっちも興味ないので。気持ち悪いこと言わないでもらえますか?」
「ははっ! 杉山は変わらないなぁ」
なんだかこのやり取りが懐かしくて、思わず笑みをこぼした俺に、杉山は犯罪者を見るような目を向ける。
「うわっ、罵倒されたのに笑ってるなんてっ! やっぱり先輩はドMなんですね!?」
「なぜそうなる!?」
「それはそれとして。謝意は受け取っておきます。私はいつもので」
杉山はコロリと表情を変えると、何食わぬ顔で自販機のミルクティーを指し示した。
……まぁいいけどね? これで物を受け取るのすら汚らわしいとか言われたら、さすがの俺も泣いちゃうし。
自販機に小銭を入れて、以前も買ってやったミルクティーを押下する。
ガコンと少々乱暴な音を立てて、自販機がミルクティーを吐き出す。それを拾って杉山に差し出してやると、意外にも素直にお礼を言いながら受け取った。
「じゃあ行きましょう」
俺が自分の飲み物を買うのを見届けると、杉山はそんな事を言って歩き出した。
「行くってどこへ?」
「吹部の部室ですよ。そんなことも分からないなんて、先輩国語の成績悪いんじゃないですか? 来年受験ですよね? お願いですから留年とかしないでくださいよ。同じ学年とか想像しただけで無理なので」
「杉山、今日は絶好調だな……」
どっちが毒虫だよ……。という言葉は飲み込んで、俺はおとなしく後輩の背中を追うのだった。
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