第125話 人の在り方は完璧に不完全




「……ざけんじゃねぇぞ、優利」




 初め、俺にはその声が高野のものだとは気が付かなかった。それだけいつもの高野とかけ離れた、低くドスの利いた声だったんだ。


「お前、今ヒナに向かって何言ったのか、分かってんのか?」

「……ああ、もちろん。ヒナを使えば俺にもまだチャンスがある。陽介の不祥事を盾に、俺の株の暴落をいくらかは抑えることが――」

「そうじゃねぇ! お前は今ッ! ずっとお前のことを慕ってきた女に、好きでもない男と寝てこいって、そう言ったんだよッ!」

「あ、明!? 何言ってんの!?」

「ヒナだって思ってたはずだ! 俺たちは優利の傍にずっと居たのに、何もできなかった、してこなかったって!」

「そ、それは、そうだけど……」

「それにこいつはヒナのことを……! 黙っていられるわけねぇだろ!?」


 皆、高野の剣幕に言葉を失っていた。

 いつもどこか抜けていて軽い言動の高野が、今は怒りに肩を震わせている。


「俺たちが優利の敵? そんなはずねぇだろッ! 俺たちはずっとお前の親友だった。親友のつもりだったッ! なのに優利にとって俺たちは、自分の立場を回復させるだけの道具だったんだな!」


「……俺も親友のつもりだったさ。でも、先に陽介に寝返ったのは明たちだ! 親友なら俺の味方をするべきだろ!?」


「違う! 俺たちはお前が自分のために、他の奴らを物みたいに扱ってきたことを、ずっと見て見ぬ振りをしてきた。でもそれは間違いなんだよ! 俺たちは優利の家の事情も、お前が抱える心の闇も知ってる。だけど、だからこそッ、俺達はお前のやってることを止めなくきゃいけなかった! お前を救ってやんなきゃいけなかったッ!」


「救って貰う必要なんてない。俺は俺一人でどんなことでも切り抜けてきた。お前たちはただそこにいて、笑ってくれていればよかったんだ! 俺を理解して、隣りにいてくれればそれで良かったんだッ!!」

「それじゃあダメなんだよッ!!」


 奥底から絞り出すような、心の叫び。それは辺りに木霊して、寒々とした木々の間を通り抜けていく。


 残響が消える頃、高野は握りしめていた拳を開く。そして、震える肩をなだめるように大きく息を吐いた。



「……俺は、優利が家のことで苦しんでんの、ずっと知ってた。分かってたんだよ。でも俺にできることなんてなにもないって、馬鹿な俺じゃ優利の助けになんてなれないって、そう思ってた。でも、陽介を見てそんなことねぇって分かったんだ」

「……え? 俺?」


 まさか名前を呼ばれるとは思わず驚く俺に、高野はかつてないほど真剣な眼差しを向ける。

 目が合うと、高野は確かに頷いてみせた。


「優利がリレーの噂で夏希や雪芽を責め立てようとしてた時、陽介は身をていして守ったんだ。こいつは優利とは違って勉強もできねぇし、大した取り柄もねぇ。どっちかってと俺よりの人間だよ」


 ……これはバカにされてるのか? もしかして俺って高野と同レベルって思われてたの?

 しかし、高野の目は未だ真剣で、冗談を言っているわけではないようだ。


「でも、こいつは友達を守ろうと行動した。自分の持ってるもんすべてを賭けて、自分にできる最大のことをした。それ見てたら、俺は自分が恥ずかしくってよ。優利の隣でいっつもバカやってばかりで、俺は一度も優利を助けてやれなかった……。優利は俺なんかよりよっぽど優秀だからって、言い訳してばっかでさ……」


 ……そうか。俺が雪芽たちを守ろうとしたあの行動は、高野の目にはそう映っていたのか。

 俺は俺のやり方で、俺にできることをした。その行動は最適解じゃなかったのかもしれないけど、その思いは間違ってなかった。そう言われているように感じられて、俺は救われたような気持ちになった。


「だけど、俺にだってなんかできることがあるはずなんだよ。だから今しかねぇ、これ以上見て見ぬ振りなんてできねぇって、そう思ったんだ」


 友達だからこそ、高野は広瀬を止めるために俺たちに味方することを選んだ。きっと、庭も同じ気持ちだったのだろう。

 もしかしたら、広瀬がこんな風になってしまったのは、自分たちにも責任があると思っているのかもしれない。きっとそんなことはないんだろうけど、その気持は俺にも分かる。


 大切な人を守るために、自分できることは全部やらないと、きっと後悔するんだ。

 でも高野たちは今、広瀬と向き合った。それにはきっと遅すぎるなんてことはなくて。


「だからさ、俺にも、俺達にも背負わせてくれよ。優利が抱えてる悩みや苦しみ、嬉しいことや幸せなこと。友達で、親友でいさせてくれよ……」


「……無理だ。これはお前たちが背負えるほど簡単なことじゃないんだよ。結局のところ俺は両親には逆らえない。彼らの敷いたレールを走ることしかできないんだよ。そしてそのレールを脱しないために、俺にはかつての優等生の仮面が必要で、そのためには他人を蹴落として進むしかないんだ」

「優利……!」


 高野の叫びを受けても、広瀬の考えは変わらなかった。

 きっとこいつはそれしか生きるすべを知らないんだ。そうすることでしか生きてこれなかったやつなんだ。




「そんなこと、ないと思うよ」




 後ろから聞こえる声に、俺は思わず振り返った。

 その声の主はゆっくりと前に進むと俺の隣に並び、毅然とした態度で言葉を投げる。


「きっと広瀬君は自分で選択肢を狭めているだけなんだと思う。だからそれしか方法がないって、そう思い込んじゃうんだよ」


 雪芽は胸の前で固く手を握り、何かを確かめるように、胸の奥にある何かを探るように、言葉を紡ぐ。


 広瀬がうつむけていた顔を上げる。その表情はさっきよりもずっと毒の抜けたものだった。


「他の方法があるっていうのか?」

「うん。広瀬君はご両親の言うことが絶対だって思ってるみたいだけど、それは違うと思う。広瀬君とご両親は家族だけど、でも別人なんだよ。広瀬君のことは広瀬君だけが選べて、他の誰にもあなたの生き方を決めることなんてできない」


「俺の生き方は、俺が決める……? でも、今更そんな事言われたって、俺にはどうすることも……」

「広瀬君は独りじゃない。誰かの助けを借りても、あなたが選んだならそれはあなたの選択なんだから」

「だけどッ! 俺は完璧でなくちゃいけないんだ。兄さんや姉さんのように、俺は何でも一人でこなせる完璧な人間にならないとっ……」


「はっ、完璧な人間、ね」


 我慢できずに口から漏れ出た言葉は、広瀬の発言をバカにするようなものだった。


 だってあまりにも広瀬の言い分がおかしかったから。一言文句を言ってやりたくなったんだ。

 だから、いつか見たすがるような目をする広瀬に言ってやるのだ。



「完璧っていうのがどんな定義なのかは知らないけど、容姿端麗、文武両道、誰からも好かれる完璧超人。そんなやつはこの世に存在しない。人間はいろんなやつがいて、その全部のあり方が正しいんだ」


 完璧な生き物なんていない。強いて言うなら、不完全な状態が、完璧なんだと思う。

 何かに特化すれば何かを失う。誰かに好かれれば誰かに嫌われる。得意なことがあれば苦手なこともある。何でもこなせるように見えても、他人の気持ちを考えられないようなら、それは完璧には程遠い。


 人間には複雑に絡み合った、ゲームのようなパラメータがあるんだと思う。そしてきっと、みんなパラメータに振れるポイントは一緒なんだ。


 生まれてきた時に、どこに何ポイント振るか、それは自分では選べない。でも、ポイントの上限以上には振れない。だからばらつきがあって、極端なやつもいれば、平均的なやつもいる。


 振ったポイントは必ずしも目に見えるわけじゃないし、自分が気付けるところじゃないかもしれない。

 でも、確かにその人間を形作っているんだ。


「お前は完璧っていうのにこだわってるみたいだけど、自分を偽って、無理をしている時点で完璧には程遠いよ。だからお前は俺と同じくらい半端な人間だ。バカで、愚かで、みっともなく足掻く。人間だよ」


「俺が、半端な、人間……?」

「そうだ。だから支え合い、争う。自分に足りない何かを補うために。……それで? お前に足りないものはなんだ。それを補ってくれるやつは誰だ」


 広瀬は少しの間考える素振りを見せると、ハッとした様子で辺りを見た。

 そこには傍らに座り込む庭と、正面に立つ高野がいる。



「……そうか、俺の傍には、もう……」


 うつむく広瀬に、庭はそっと広瀬の肩に手を置き、高野もしゃがみ込んで広瀬のもう片方の肩に手を置いた。


「そうだよ、優利。ヒナたちが優利の助けになるから。優利がそうしてくれたように、今度はヒナたちが優利を助けるから。ねっ? 明」

「たりめーっしょ? リンリンと俺たちはマブじゃねぇか」

「ヒナ、明……。俺はずっと、お前たちを大切にしているつもりで、守っているつもりで、そんなことはなかったんだな……」

「優利……」

「ヒナ、ごめん。さっきはあんな酷いことを……。ははっ……、明に殴られるもの当然だ」

「きっつい一発だったから目ぇ覚めたっしょ?」


 広瀬は高野に微笑みかけると、庭の手を借りて立ち上がり、まっすぐに俺に向かって歩み寄ってくる。

 思わず身構える俺に、広瀬は疲れたような笑みを浮かべた。



「陽介、確かにお前の言うとおりだったよ。俺は形ばかりにこだわって、大切なものが何も見えてなかった。今ようやく分かった」


 そう言うと、広瀬は一歩後ろに下がる。そして俺と雪芽を交互に見ると、勢いよく頭を下げた。


「すまなかったッ! 俺が陽介と雪芽にしたことは許されるようなことじゃないって分かってる! でも、どうか俺に贖罪しょくざいのチャンスをくれないか? どんな罰でも受ける覚悟はある」


 頭を下げながらそんな事を言う広瀬を、俺は冷たい目で見下ろしていた。

 罰? 贖罪? そんなもので許されると思うのか? もう殴る気なんてないが、許す気も当然ない。


「顔を上げろ、広瀬。そんなことをされたって俺はお前を許さない」

「ちょっ、すけっち!?」

「俺にしたことはもういいよ。初めから気にしちゃいないしな。でも、雪芽にしたことについては何をされたって許す気なんてない」


 話が違うとばかりに食ってかかる高野を無視し、未だ下げられたままの広瀬の頭を見つめる。

 広瀬、お前のやったことはそう簡単に許されるようなことじゃないんだ。今更何をされたって、俺は――


 その時、誰かが俺の手を取った。



「陽介、私は大丈夫だから」

「雪芽……。だけど……」


 食い下がる俺に、雪芽は首を横にふる。

 許せっていうのか? あれだけのことをして、もう改心したんだから許せって、そう言うのか?


 ……でも、俺にはもう、罰を与える気も復讐をしようとも思ってないことも事実だ。気が削がれた、とでも言うんだろうか。

 だから、雪芽が許せと言うのなら、俺は――。




「……もう二度と雪芽や夏希、俺の大切なものに手を出すな。そうしてる限り俺はお前をどうこうするつもりはないよ」




 広瀬はゆっくりと、驚いたような顔を上げて俺を見る。

 鳩が豆鉄砲を食ったような、広瀬にしては間の抜けた表情だ。俺のことを散々間抜けだなんだとバカにしてくれたくせに、何だその顔は。


「勘違いするなよ。俺はお前を許すわけじゃない」

「じゃ、じゃあなんで……?」

「はぁ……。もう疲れたんだよ。落ち込むのも、心配するのも、悩むのも、怒るもの、復讐するのもさ。こんな柄にもないことまでやらされて、正直今すぐ家に帰って寝たいくらいだ」


 注目を浴びるのも、激しく感情を動かすのも、もう疲れた。俺はただのんびりと、俺にとって大切なものに囲まれて笑えていればそれでいいんだ。


「だから高野やヒナと向き合うなり、人気回復のために奔走ほんそうするなり勝手にしろ。もう知らん」

「陽介……」

「じゃあな」



 なにか言いたげな広瀬に背を向けて、俺は歩き出す。

 正面には呆れたような笑みを浮かべた夏希と、嬉しそうに笑う隆平。そして後ろから小走りに追いついた雪芽が隣に並ぶ。


 これで良かったんだろうか。俺はまだ少し迷っていた。

 広瀬がしたことは当然許されるようなことじゃない。ごめんねで済めば警察はいらないという言葉もあるしな。


 でも、許さないでいても何も変わらないんだ。いつかどこかで妥協しなければいけない。

 だから広瀬にはああ言ったんだが……。


 もういいや、教室に置いた荷物持って、さっさと帰ろ……。


「あーあ、疲れた……」

「ホント、陽介らしいわね」

「うんうん、俺もそう思ったよ」

「でも、私は陽介がそういう人で良かったって思ってるよ」


 俺が疲労からため息をつくと、何故か皆口々ににそんな事を言った。


「なにが?」

「そういうところよ」

「はぁ? どういうところだよ?」

「ははっ、そういうところだよ」


 埒が明かない。そう思って雪芽に助けを求めてみるのだが、


「そういうところだね!」


 と、夏希や隆平と同じ答えを返すだけだった。


「……まったく。なんなんだよ、もう……」


 言ってる意味は分からないし、こいつらだけ通じ合ってて、なんか揶揄からかわれてるみたいだけど、それでもみんな笑っていた。


 ……きっと、全部が全部元通りになるわけじゃない。いろいろなことがあって、たくさん傷ついて、傷つけて。多くのことが変わった。

 でも、その変化はきっと全部が全部、悪いものじゃない。だって、俺の隣ではみんなが、雪芽が笑ってる。こうして元気で笑ってるんだから。

 やっぱり俺にはそれだけで、十分なんだから。



 外廊下を冬の冷たい風が通り抜けていく。それはとっても寒くて、俺は体を震わせるのだけれど、嫌な気はしなかった。


「ほら、さっさと帰ろうぜ」


 気がつけば、俺の迷いは消えていた。




 さあ、帰ろうか。かけがえのない、俺達の日常へ。



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