第106話 雪の精は深き眠りについて
ただ、走った。太腿がもう上がらないと悲鳴を上げても、上り坂で後輪が滑ったとしても、ただ走った。
無心にとはいかない。頭の中は焦りや不安、自分に対する不甲斐なさでぐちゃぐちゃだった。
俺は雪芽が搬送されたという病院にたどり着き、駐輪場に自転車をとめる。
鍵をかけるのももどかしく、俺は受付へと走った。
「あの、面会に来たんですけど……!」
「はい、ご家族の方ですか?」
「いえ、友人です」
「では患者様の入院されている病棟まで行っていただいて、そこで面会の旨をお伝えください」
入院している病棟って、どこだ? 俺は知らない。
そういえば晴奈に聞いたのは病院の場所だけで、病棟や病室までは聞いてなかった。
「ちょっとお兄ちゃん! 急ぎすぎっ……」
俺が受付で立ちすくんでいると、正面玄関の方から晴奈が歩いてきた。
どうやら俺は急ぐあまり晴奈を置き去りにしてきてしまったらしい。
「あ、ああ、ごめん晴奈。それで、雪芽はどこにいるんだ!?」
「急ぎたくなる気持ちは分かるけど、ここは病院だよ? 走ったり大きな声出したりしちゃダメなんだからね?」
晴奈にそう
確かにそうだ。今ここで急いだとしても大きく何かが変わるわけじゃない。雪芽が
「すまん……」
「もう、お兄ちゃんは心配性なんだから」
晴奈は呆れたようにため息をつくと、歩き出す。
俺は幾分落ち着いた心持ちで晴奈の後を追う。
雪芽が倒れてしまったということは、もうあと数日もしないうちに死に至るかもしれないということだ。もし仮に病名が白血病だと診断されていたら、もう後はないかもしれない。
体育祭の時は倒れても何とか快復した。だけど今回もそううまくいくとは限らないんだ。
そんな不安と緊張に
「陽介君、晴奈ちゃん」
ちょうど面会カードに記入している最中に、後ろから声がかけられた。
振り向くと、疲れた表情で笑みを浮かべる静江さんが立っていた。
俺は静江さんのその表情に、嫌な予感が増していくのを感じた。
同じに見えたのだ。その表情が。あの夏休みで雪芽が倒れ、白血病だと診断されたときの静江さんのそれと。
「静江さん、雪芽の容体は……?」
「……説明するより見てもらった方がいいかしらね」
その言葉に、俺は自分が今まで感じていた予感が当たっているのだと確信した。
でも目を逸らした。そんなはずはない。雪芽はきっと体育祭の時と同じように貧血で倒れただけなんだ。きっとすぐよくなるって、そう微笑みを浮かべてくれるはずなんだ。だから――
「雪芽ね、目を覚まさないのよ」
しかし、そんな俺の淡い願いは、目の前に広がる光景でいともたやすく打ち砕かれた。
いつかのように様々な管で体中を繋がれた雪芽が、規則的に音を立てる機械たちに囲まれて、そこに寝ている。
その目はそっと閉じられ、手も足も口も動かず、ただ胸だけがゆっくりと上下していた。
「お医者様が言うにはね? まだよく分からないんですって。状態は安定してるのに目を覚まさないから、何かの病気の可能性もあるって。倒れたばかりの時は熱があって咳もしていたから、風邪かもしれないって言われていたんだけど、もしかしたらその風邪で免疫力が落ちて、他の病気を併発しているかもしれないって……。今のところは安静にして、しばらく様子を見ることになったの」
「そんな……」
静江さんの話を聞いて、晴奈は驚きの表情を浮かべた。
しかし、俺は何も言えなかった。何もできなかった。何も聞こえなかった。
ただ目の前で眠る雪芽を見て、絶望していた。
……同じだ。あの時と。同じに見えるんだ。
雪芽が死んでしまって、葬式に行ったあの時。俺は安らかに眠る雪芽の顔を見た。何度も、何度も。
あの時の表情と一緒なんだ。安らかで、苦しみ何て一つもなくて、今にも起き上がってきそうなあの表情と。
いっしょ、なんだ……。
「おばさんが昨日家に帰るとね? 雪芽ずぶ濡れだったのよ。なんでもお出かけした時に水たまりで転んじゃったらしくてね。帰って来てからもそのままの格好でずっといたらしいの。どうしてって聞いても何も答えてくれなくてね。きっとそのせいで風邪ひいちゃったのね。もともと風邪気味だったのに無理するから……」
「う、うそだ……」
静かな病室に掠れた声が吸い込まれていく。
その声が自分の声だと分かるまでに、俺は少しの時間を要した。
「……お兄ちゃん?」
「うそだ。嘘だよな?」
あの時電話で寒いって言ってたのは本当だったんだ。雪が降るような寒さの中で、濡れたまま一体何時間過ごしていたんだ。
俺が、俺が何かを間違ったせいで、雪芽はこんなことになってしまったんだ。
俺は雪芽を助けられたはずなんだ。助けるって誓ったんだ。なのに、それなのに……!
俺はゆっくりと手を伸ばす。雪芽の白い手に触れれば、その温かさを感じれば、安心できると思ったのだろう。
雪芽はまだ生きている、ここにいるんだって。まだ遅くはない、俺にもまだできることは残されているんだって。
「お兄ちゃん」
「……晴奈?」
声が大きくならないように配慮しつつ、だか力強く俺を呼ぶ声がした。
伸ばした俺の手は、雪芽に届く前に小さな手に掴まれて、触れることは叶わなかった。
「しっかりして。お兄ちゃんが取り乱してどうすんの?」
「で、でもっ、もう雪芽が目を覚まさないんじゃないかって……」
「そんなわけないでしょ。雪芽さんはまだちゃんと生きてるし、ただ眠ってるだけだって。きっと疲れてたんだよ」
そう、なのだろうか。雪芽はこのままいなくなったりしないのだろうか。また目を開けて、俺を見て、微笑んでくれるのだろうか。
その時、俺の肩にそっと手が置かれた。
振り向くと、静江さんが柔らかい笑みを浮かべて俺を見つめている。その目が、その表情が、なんだか雪芽にそっくりな気がした。
「ありがとう、陽介君。そんなに心配してもらえるなら雪芽も喜ぶわ。でも大丈夫よ。晴奈ちゃんの言う通り疲れて眠っちゃってるだけで、きっとすぐに目を覚ますはずだから」
……あぁ、俺はなんてバカなんだろう。一番辛いのは、一番心配なのは静江さんのはずなのに。それなのに俺は何をしているんだろう。
「……はい。俺も、そう思いますっ……」
不甲斐なさに下を向く俺の肩を、静江さんは優しく叩くのだった。
それから俺たちは病室を出ることにした。雪芽にはまだいろいろ検査が必要なようで、看護師さんが来たからだ。
「ああ、陽介君、それに晴奈ちゃんも。よく来てくれたね」
病室の外に出ると、ちょうど鉄信さんが手にトートバッグを持って現れた。
きっと雪芽の身の回りのものとかを用意していたんだ。今朝倒れたって聞いたから、今の今まで忙しくしていたんだろう。
「あの、雪芽のこと、すみませんでした……」
俺が自責の念から思わず謝罪を口にすると、鉄信さんは途端に険しい表情になって俺に顔を近づける。
「なに? 君が雪芽をずぶ濡れにしたっていうのか?」
「い、いえ! そうではないですが、俺がもっと雪芽のことを気にかけてやっていれば、こんなことにはならなかったんじゃないかって……」
そう言うと、鉄信さんはそっと笑って腰に手を当てる。
「そんなことを気にしていたって仕方ないだろう? それを言ったらおじさんなんて毎日雪芽のことを気にかけているというのにこのざまだ。たかが小僧一人でこの事態を回避できたなんて、思い上がりも甚だしいんじゃないかな?」
「え、えっと……」
「ちょっとあなた? あまり娘の友達をいじめるものじゃないわよ。ごめんなさいね、この人ったらやきもち焼いちゃって」
「誰がやきもちなど焼くものか。子供が生意気なことを言うから教育してやってるだけだろう」
「まぁ、めったなことを言うもんじゃありませんよ。うふふ」
「ん? それもそうか。ははっ」
そんな風に二人は笑って見せた。きっと俺に気を使わせまいとして振る舞ってくれているのだろう。
……そうだな。起こってしまったことをああだこうだと言っても仕方ない。今はこれからのことを考えなくては。
「でも本当に気にすることはないよ、陽介君。こういったことは前にもあったんだ」
「え? 意識を失ったことがですか?」
「そんなのしょっちゅうあったさ。貧血とかで度々倒れることはあったしね。ほら、この前の秋口でもあっただろう。まぁ、だからと言って安心できるわけではないけどね」
鉄信さんは手に持ったトートバッグを静江さんに渡すと、俺たちに歩くよう促した。
静江さんは鉄信さんから受け取ったトートバッグを手に、再び病室へと消えていった。
「いつもはこの前のようにすぐに意識が快復して、徐々に体調も良くなっていくんだが、こうして意識を失って快復しないということも以前一度だけあったんだ」
俺たちは鉄信さんに付いてその階にある休憩スペースへと移動し、対面して座った。
それから鉄信さんがジュースをおごってくれると言うので、厚意に甘えることにした。
「意識が快復しないって、とっても大変なことなんじゃないですか?」
鉄信さんからジュースを受け取って、晴奈は神妙な顔つきでそう尋ねた。
「まぁそうだね。だけど以前は特に目立った症状はなくて状態も安定していたんだ。それで医者がいろいろ手を尽くしてくれたのに全然目を覚まさなくてね。でも2日ほどしたらあっさりと目を覚ました。その時は健康そのものですぐ退院したものだ」
鉄信さんは少しだけ心配そうな顔をして、手に持った温かい緑茶をもてあそぶ。
結局何が原因だったのかよく分からなかったと語る鉄信さんは、きっと今回も同じように数日もしないうちに目を覚ますだろうと続けた。
しかし、その手は不安げに緑茶を握りしめていた。
「以前って、どれくらい前なんですか?」
「そうだねぇ……。ちょうどこっちに引っ越してくる前かな。病気がちだったからこっちに越してくるよう提案しようと思っていた矢先の出来事でね。その時倒れたのが決め手だと言ってもいいだろう」
「そうだったんですか……」
俺が思わず顔を伏せると、鉄信さんは緑茶を開けて一口流し込んだ。そしてコンコンと机を叩く。
思わず顔を上げると、鉄信さんは安心させるように笑っていた。
「そんな顔をしないでくれ。まだ全ての検査が終わったわけじゃないが、いろいろ精密検査やらもして脳に異常はないと言われたし、敗血病も疑われたがその心配もないという。医者の話じゃ心因性か疲労が原因だろうという話だ」
「心因性か疲労……」
思い当たる節はいくつかある。ここ最近の雪芽には心的疲労も多かっただろうし。
それを軽減できたのではないかと考えだすと、また自分を責めてしまいそうなのでやめた。それで鉄信さんに気を使わせるわけにはいかない。
「あの子は、雪芽は気が回る子だからね。きっと背負わなくてもいいものまで背負ったんじゃないかな。体調を崩すたびにおじさんたちを心配させてごめんって謝るような子だからね。そりゃ心配しなければ親じゃないが、いちいち気に病む必要もないというのに」
そう言って、鉄信さんは困ったように笑うのだった。
「親なんて、子供が生きて笑っていてさえくれればそれで十分だと言うのにね。むしろ謝らなきゃいけないのはおじさんたちの方さ。丈夫に産んでやれなかったんだからね」
そう言う鉄信さんは遠い目をしていて、少しだけ申し訳なさそうだった。
――――
それから俺たちは病院を後にした。
長居するのは迷惑だろうし、ずっと立ち止まっているわけにもいかないと思ったからだ。
「晴奈、お前は一人で帰れ」
「え。お兄ちゃんどこか行くの?」
「ああ、ちょっと街の方に行ってくる。急ぎの用事があるんだ」
病院を出て駐輪場に向かう途中、俺は晴奈にそう断りを入れる。
すると晴奈は心配そうに眉を
そして俺の進路を阻むように立ちふさがると、神妙な顔つきで言った。
「お兄ちゃん、なにか危ないことしようとしてるでしょ」
「なんでそうなる。そんなことしねぇよ」
「うそ。今のお兄ちゃんすごい顔してるもん」
「なんだそれ。不細工だって言いたいのか? お兄ちゃんの心はガラスの心なんだぞ?」
「もうふざけないで! 今のお兄ちゃん、なんか危ない気がする……。うまく言えないけど、独りにはできない!」
晴奈はそう言ってついには両手で通せん坊をした。
その仕草が駄々をこねる子供のように見えて、俺は思わず笑みをこぼした。
「……うん、そうだな。確かに晴奈の言う通り、俺はいまちょっと危ない。鉄信さんたちは雪芽が倒れたのは俺のせいじゃないって言ってくれたけど、やっぱり俺のせいだと思うし、正直自分が許せないよ。過去に戻れるなら俺をぶん殴ってやりたいくらいだ。
でもな、晴奈。俺は自分を痛めつけるために行くんじゃないんだ。罪滅ぼしをするために行くわけじゃないんだ。俺がしたいのは、今俺にできることを探しに行くこと。眠ったままの雪芽に何をしてやれるのかを探しに行くんだ」
俺はゆっくりと、諭すように言葉を並べる。ちゃんと晴奈の目を見て、俺の気持ちが嘘じゃないって分かってもらうために。
俺はそっと晴奈に近づき、その小さな頭に手を乗せる。
ふわりと柔らかな感触と共に、俺の指の間を細いその髪が流れていく。
そして俺は少しだけかがんで晴奈と目線を合わせると、安心させるように微笑んだ。
「でも俺一人じゃそれは難しくてな? だから街にいる飯島さんっていう人に相談しようと思うんだ。ちょっと会ってお話してくるだけだから何も危ないことなんてないんだぞ? 夕食前にはちゃんと戻ってくるから」
晴奈は心配そうに揺れる瞳で俺を見つめた後、小さく頷いた。
「……うん、分かった。無茶はしない、危ないこともしない。約束だよ?」
「ああ、約束だ」
俺は立ち上がると晴奈の頭をそっと撫でた。
懐かしい。こんな風にぐずる晴奈をあやすために、昔はよくこうして頭を撫でてやったものだ。
そんな晴奈もいつの間にか大きくなって、俺の心配までするようになったのか。妹に心配かけてちゃ世話ないな。
俺は一人去っていく晴奈の背中を見送り、しばし感傷に浸る。
……さて、俺も行くか。
晴奈の手前あんな風に格好つけたが、本当は不安でいっぱいだった。今にも叫びだして、考え得る限りの方法で自分を痛めつけたかった。
でもそれじゃあ何も変わらないって知っているから。今は前を見据えよう。
雪芽が死んでしまったら、また世界は繰り返すのかもしれない。そうしたら、広瀬にはめられる前に戻ってどうにかできるのかもしれない。
でも、もうこれ以上雪芽を殺すことなんて、俺にはできないよ。あんな気持ちは一生に一度で十分だ。
だから今を守るために、俺は虚勢を張る。
震える体に鞭打って、縮み上がった心に喝を入れて。手遅れになる前に。すべてが無に帰す前に。
俺は自転車にまたがり、駅に向けて走り出す。
俺を支配していたほの暗い寒さはまだあった。それでも心の真ん中には、微かに暖かい灯りが宿っているのだった。
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