第105話 夏の悪夢は忘れた頃にやってくる

 終業式が終わり、冬休みに入った喜びから一転、俺の目の前には現実がうずたかく積まれていた。


「何も各教科でこんなに出さなくてもいいよなぁ? 化学の斉藤さんみたいに冬休みは短いから宿題は少な目とか気の利いたことできないのかよ……」


 この辺で冬休みといったら正月を含めた12日間のことを指す。北海道とか東北とか、あっちのほうは確かに雪深いから冬休みが長くてもしょうがないけどさ? ここだって十分降るじゃん。向こうほどじゃないけど降るには降るじゃん。なんでこんなに短いんだよ?

 休み明けにはさっそく実力テストがあるから、それに向けてしっかり勉強しておくようにって、この量だとほぼ毎日勉強しないといけないじゃん。まぁ、それが狙いなんだろうけどさ……。


 12日しかない休みなので、できるときに宿題はやっておかなくてはいけない。1割だけ進めてあとは最後の方に取っておこう。1割やるだけでも十分えらいって。



 俺は一度机に積まれた宿題の山から目を逸らし、窓の外を眺めてみる。

 もう昼はとっくに過ぎたというのに外は薄暗くて、随分と水気の抜けた雪が外をちらついている。

 この調子だと今日の夜には積もるかな。明日の朝は早速雪かきに駆り出されそうだ……。


 この間両親の車のタイヤをスタッドレスに履き替える手伝いをしたばかりだというのに、もう雪かきの手伝いか……。

 そんでしばらくもしないうちに正月の飾りつけを手伝わされるわけだ。正月なんていろいろ手伝いしないと親がうるさいし、これといって楽しい行事じゃないよなぁ……。


 寒さと曇天でやられた頭はネガティブなことばかり考えてしまう。せっかくの休みなのだからもう少し楽しいことも考えなくては。


 そうだなぁ。こっちでも積もるってことは、もう山の方はとっくに積もってるよな。てことはスキーができるじゃないか! スキー場も開き始めたって両親も話していたし、親が正月休みに入れば連れて行ってもらえそうだな!

 そうだ、由美ちゃんも一緒に行けばいい。どうせなら夏希や雪芽も誘ってみんなで――。



「……みんなで、か」


 昨日の朝、雪芽と広瀬が明日はイタリア料理の店でデートだ何だという話を楽しそうにしているのを聞いてしまった。きっと今頃食べ終わって二人仲良く街でも歩いているのだろうか。

 俺が由美ちゃんとしたようなことを、もしかしたらそれ以上のことを、あいつらはしているのだろうか。

 空から落ちて来る雪を鬱陶しいと思う俺と違って、ロマンチックだなんだと騒いでいるのだろか。


「ま、好きにしたらいいさ」


 そうだ。それが二人の望むことなら、あいつらが何してようが俺には関係ない。

 飯島さんや夏希は雪芽が望んで広瀬と付き合っているわけじゃない。なにかメリットがあるんだって話していたけど、今ではそれが本当だったのか俺には分からない。


 雪芽は俺に広瀬とのことでこれ以上関わるなと言ってきたし、それ以降広瀬とは楽しそうに話している。昨日の話をかんがみるに雪芽と広瀬は楽しくデートをしているようなので、きっと思い過ごしだ。


 だから俺は今までより少し距離を置いて、それでも友達のままでいればいいんだ。最近では挨拶くらいなら普通にできるようになってきたし、以前の関係に戻りつつあると思っている。

 きっと時間が解決してくれるさ。そう思い悩むこともない。



「ん?」


 窓の隙間から吹き込む空気が寒くて、俺がカーテンを閉めようとしたとき、机の上に放ってあったスマホが震えた。

 継続的に間隔をあけてバイブレーションしているところを見ると、どうやら電話のようだ。


「母さんかな? 夕食作っとけみたいな?」


 そう思ってスマホの画面を確認すると、そこには先ほどまで思っていた人物の名前が示されていた。


「雪芽……?」


 口に出しておかしいと思った。まだ広瀬と一緒にいるんじゃないのか……?

 俺は疑問に思いながらも着信に応答し、スマホを耳に運ぶ。



「もしもし雪芽か? どうした?」

『あ、陽介? 少し聞きたいことがあって……。今時間いい?』

「あ、ああ、いいけど……」


 突然の着信と最近ろくに話してなかったこともあり、少し緊張する。

 いや、緊張しているのはそれだけじゃない。雪芽の声がやけに真剣で、でもどこか沈んでいて、そして微かに緊張していることが感じ取れたからだ。


『私今日ね、広瀬君とお昼を食べてたんだけど、その時に聞いたの』


 雪芽は確かめる様にゆっくりと言葉を並べる。その声は微かに震えていて、まるで何かにおびえているようにも感じた。

 そして雪芽は呼吸を整える様に一度口を閉じると、大きく息を吐く。


『陽介に彼女ができたんだって』


 なぜだろうか、俺は雪芽の言葉を聞いてひどく不味いことをしたような気分になる。

 テスト前にこっそりゲームしていたのを親に見つかったときのような。いや、それよりももっと重大な何かに気付かれたような。そんな気分。

 きっと雪芽の雰囲気がそうさせるのかもしれない。そのことがとても重要なことのように言うから。


「広瀬がそんなことを?」

『うん。中学生くらいの女の子とキスしているのを見たって。それって由美ちゃんのこと?』

「……ああ、そうだ。由美ちゃんに告白されてな。俺たちこの間から付き合ってるんだ」


 俺がそう言った瞬間、電話口の向こうで雪芽が微かに息を呑むような音が聞こえた。


『……そうなんだ。おめでとう! 由美ちゃんとってもいい子だから、陽介にはもったいないね』

「おいおい、それどういう意味だよ?」

『そのままの意味だよ! 陽介ってば鈍感だし、由美ちゃんはこれからもいろいろ大変そう!』


 雪芽は先ほどまでの重々しい雰囲気から一転、楽し気に声を弾ませる。

 それにつられて俺も気持ちが軽くなっていく。今まで黙っていた罪悪感から、祝福される喜びに変わっていく。



「まぁ、俺も彼女なんて初めてだし、いろいろ至らないところも多いと思うけどな? 手を繋いだりとか、腕を組んだりとかさ。デートのエスコートだってろくにできないし」

『まったく、そんな調子じゃ愛想尽かされちゃうよ? なにか困ったことがあったら私やなっちゃんにも相談してね』

「おう。今のところは晴奈にいろいろ助けてもらってるかな。いずれお前らにも相談するかも」

『うん。でも彼女ができたなら、私にも言って欲しかったな。だってわたっ、私たち、親友っ、なんだからっ……』

「雪芽……?」


 明るかった雪芽の声は、徐々に震える様になり、次第に途切れ途切れになっていった。


「泣いているのか……?」

『な、泣いてなんかないよ! 外が寒かったから、鼻水っ、止まんなくて……』


 雪芽はそんなことを言ってわざとらしく鼻をすすってみせる。

 しかし、噛み殺したようなその言葉は、濡れているように感じた。


「いや、やっぱりお前……」

『泣いてない! それじゃあ二人ともお幸せにっ……!』

「あっ! ちょっとま――」


 それだけを言い残して、電話は切れてしまった。

 俺は開いたままの口をそっと閉じると、スマホを持った手を力なく下ろした。



「……やっぱり泣いてた、よな?」


 そう呟いてみても、答えをくれる人は誰もいない。

 ただ最後に言った雪芽のセリフが、どうにも耳に残って離れなかった。


「お幸せに、か」


 吐き捨てる様に、投げつける様に、絞り出すように。きっとその言葉はそうやって言うんじゃない。もっと温かくて、そっと相手に贈るような、そんな言葉のはずだ。


 なにか、気に入らないことがあったのだろうか。俺が間違ったことを言ったのだろうか。

 それとも親友なのに一番に伝えなかったことに怒っていたのだろうか。晴奈も今でこそ普通だが、最初はなんだか不機嫌だったし。


「ま、今度会った時に聞いてみればいいか」


 冬休みの間に会う機会があるだろうか? 初詣ならばったり会うかもしれないな。

 そんなことを考えて、俺はスマホをベッドに放り込んだ。



 ――どうして、当たり前にまた会えると思ったのだろうか。元気な姿で言葉を交わせると。

 どうして、忘れていたのだろうか。当たり前にある日常など、突然に崩れ去ってしまうのだと。

 どうして、気が付かなかったのだろうか。雪芽との関係を維持することが、すでにできていなかったことに。


 そして俺は再び思い知ることになる。

 運命の残酷さと、自分の愚かを。





 ――――





 それは雪芽から電話がかかってきた翌日の昼過ぎに、慌てた様子の晴奈と一緒にやってきた。


「お兄ちゃん! 大変だよ!!」


 ノックもなしに部屋に飛び込んできた晴奈は、焦りを浮かべた表情でスマホを握りしめていた。

 だらだらとスマホでゲームをしていた俺は、ちらりと晴奈を一瞥いちべつすると、再び画面に視線を戻す。


「どうした? そんなに慌てて。学校に忘れ物でもしたか? 冬休みでもちゃんと連絡すれば――」

「違う! そうじゃなくて、雪芽さんが、雪芽さんが……」


 すっと、俺の背筋に寒気が走る。

 それは懐かしくも恐ろしい、もう二度と感じたくはないと願った感覚だった。


 俺は突然重みを増した首を何とか動かし、晴奈を見る。

 その時の晴奈の目は、焦りと不安に震えていた。過去に何度も見た不幸の予兆。死を連想させる目だった。




「今朝、倒れたって……」




 その言葉に俺は手にしたスマホを取り落とす。スマホはくぐもった音を立ててカーペットに落ち、場違いに軽快な音楽を垂れ流している。



「倒れたって、なんで……!?」

「分かんない。でも静江さんは風邪が悪化したんじゃないかって」

「そんな……」


 その時、俺は思い出した。夏の悪夢を。飯島さんの言っていたことを。俺がしてきた行いを。


 ここ最近雪芽は度々咳をしていた。きっと空気が乾燥しているからそのせいなんだろうと、そう高をくくっていた。

 違う、違った。あれは死の予兆だったんだ。飯島さんが言っていたじゃないか、雪芽が倒れ、死に至る原因は彼女の精神面にあると。


 そして思えば最近の雪芽には大きな変化があった。俺が学校中から迫害を受けて、そのことで喧嘩をして、雪芽は広瀬と付き合うことになって、それでまた俺たちは疎遠になって。

 そんな度重なる変化に、雪芽の心は悲鳴を上げていたんじゃないか? 限界を迎えていたんじゃないか?

 やっぱり広瀬と付き合うのは、雪芽にとって幸せなことなんかじゃなかったんじゃないか? やっぱり俺を守るために無理して広瀬の恋人になったんじゃないのか?



「くそっ……! 俺は、俺はなんてバカなことをッ……!」


 俺は音がするほどに歯を食いしばり、自分の太腿を強かに打つ。


 俺は、俺は……! 気が付けたはずなんだ! あいつが苦しんでいることに、辛いと叫ぶ声に。

 それなのに、俺は由美ちゃんが彼女になったことで舞い上がって、雪芽には広瀬がいるからもう大丈夫だなんて言って、気が付けたはずのサインを、予兆を、見逃していた。せめて俺がしなくてはいけないことを怠っていた。


「バカ野郎だよ、俺は! とんだッ! バカ野郎だッ!!」

「お、お兄ちゃん、どうしたの!?」


 俺は何度も何度も、自分の太腿を殴る。しかしそうしてみても現状は何も変わらない。

 そんな突然自分を痛めつけ始めた俺を、晴奈は心配そうな目で見つめていた。


「……いや、なんでもない。すぐ雪芽の元に行こう。場所は分かるか?」

「う、うん、静江さんに聞いたから分かるよ。でもお兄ちゃん……」


 晴奈はなおも心配そうに俺を見つめる。その目には少しだけ恐怖の感情も含まれていた。


「怖がらせてごめんな? でももう大丈夫だ。行こう」

「うん……」


 俺がかろうじて微笑みを浮かべると、晴奈は完全にとはいかずとも納得してくれたようだった。



 それから俺たちは素早く身支度を整えると、雪芽が搬送されたという病院に向かうべく外に出た。


 外に出ると雪が降っていた。今朝から降り続ける雪は、朝に雪かきをしたというのにすでにうっすらと地面を覆っていた。

 今朝より幾分も勢いを増した雪は、外に出たばかりの俺の鼻の頭を冷やしていく。


 しかし、そんなこともお構いなしに俺は急いで自転車にまたがる。急がないと、急いで雪芽に会いに行かないと!

 会ってどうするのか、もし会えたとしても何を言うのか、今の俺には分からなかった。

 それでも行かなければ。そんな焦りだけが先走っていた。


 走り出す自転車は積もり始めたばかりの雪の上に曲がりくねったわだちを作り出す。

 急がなくてはと思うほどに車輪は雪で滑り、危うく転びそうになってしまう。



 急げ急げと動く脚。荒くなる呼吸。体は動いて温かくなっているはずだった。

 外は寒いだろうと何重も着込んだ服も相まって、むしろ暑いほどのはずだ。

 だけど、俺の体は温かくもなければ暑くもなかった。晴奈から雪芽が倒れたという報告を聞いてからずっと、俺の体はそれらとは真逆の温度に支配されている。


 寒くて寒くて仕方がなかった。胃が縮むような、足がすくむような、頭の先から血が落ちていくような、そんな寒さ。

 その寒さは俺の体から血の気を奪い、心をも徐々に冷やしていく。


 だから俺は無我夢中で自転車をこいだのだ。その寒さに追いつかれないように。支配されないように。

 きっと顔を見れば安心できると、そんな根拠もないことを考えながら、俺は必死に自転車をこいだ。

 でも、その寒さは俺に迫ってくる。足元からゆっくりと、でも確実に俺の熱を奪っていく。


 そうして雪芽の元へ急ぎながら、俺は嫌な予感がしていた。

 ここ最近続く曇天のせいか、今なお降る雪のせいか、あるいは近頃思う通りに事が運ばないせいか。

 そんな予感が、余計に俺を焦らせた。


 そして病院にたどり着いたとき、俺はその予感が正しかったと知ることになる。

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