蠢く夏の夢

第104話 地の雪は泥にまみれて

 この街に、雪が降る。

 しんしんと音もなく、空から舞い降りた雪は次々に地面に舞い降りて、水たまりの中に所々白い島を作っていく。


 東京にいた時は八王子で雪がこんなに降っただとか、都内でも電車などの交通網が混乱したとかそんなニュースが流れているのに、こっちでは初雪が降りましたくらいの報道しかしていなかった。

 学校の皆もそれほど気にした様子はなく、ただいつもより寒そうにストーブに身を寄せ合っていた。


 終業式を前にしたクラスメイト達は、明日から始まる冬休みに少し浮足立っている様子だった。

 このまま降ればもうじき積もるだろうから、雪かきが面倒だなんて言っている声も聞こえた。前もクラスの人にものすごく積もるから気を付けろって言われたし、大丈夫かなぁ……。



「やあ雪芽。ついに雪が降り始めたね。この様子だと今晩は少し積もりそうだから、気を付けるんだよ」

「うん、ありがとう」


 いまや自分の席のようにリラックスした様子で陽介の席に座る広瀬君は、本当に心配しているのかも怪しげな雰囲気で気遣うようなことを言う。


「そういえば雪芽の名前には雪の文字が入ってるけど、由来はなんなんだい?」

「……さぁ、聞いたこともないかな」

「本当かい? 俺が小学校の頃は学校の宿題で聞いてきなさいみたいなものがあったけどね」


 名前の由来。私も聞いたことはある。

 私が生まれたのは3月の中頃。そのころ東京では珍しく雪が降ったらしくて、お父さんがそんな雪にも負けずに顔を出している芽を見たらしい。それがとっても美しくて生き生きしていたから、私にも美しく、強く育ってほしい。そんな願いが込められていたらしい。


 ……そんな願いに反するように私の体は弱々しくて。心もきっと、お父さんとお母さんの願い通り強く美しくはないのかもしれない……。



「そうだ雪芽。明日って暇かな?」


 広瀬君はそんな私の心中を知ってか知らずか、笑顔でそう尋ねた。


「まぁ、暇だと思うけど……」

「そうか! じゃあよかったらデートしないか? 明日から冬休みだし、クリスマスはなんだかんだであまり一緒に居られなかっただろう?」


 私はその誘いに思わず顔をしかめそうになる。

 この間のクリスマスの時も、夜に家族でクリスマスパーティーをやるから忙しいと断って、一緒にいる時間を短くしたのだ。本当は顔も見たくないけど……。




 ――クリスマスに一緒にいないカップルなんておかしいだろう? 俺も友達に惚気話を催促されていて困っているんだよ。雪芽も話のタネがあったほうが何かと便利なんじゃないか?




 そんなことを言われては断ることも難しくなってしまった。

 私も陽介にあんなことを言ってしまった手前、広瀬君と仲良くやっているふりくらいはしなくてはいけない。


 これは陽介を守るために必要なことなんだ。だから我慢しないと。

 ……でも、これが本当に私のしたかったことなのか、それはもう分からなかった。自信をもって私は間違っていないと、そう言い切れなくなっていた。


「……お昼ご飯くらいなら」

「本当かい? それはよかった! もちろん交通費やお昼代は俺が出すよ。なにか食べたいものとかあるかな?」

「なんでもいいよ、別に」

「うーん、じゃあここらでおいしいって有名のイタリアンのお店にでも行こうか。あそこはパスタが絶品でね――」



 それから、明日のお昼に行く予定のイタリア料理のお店の話をする広瀬君に、作った笑顔で適当に相槌を打ちながら、私の視線はぼうっと教室を眺めていた。

 陽介はまだ来ていないみたい。相変わらずギリギリの電車できてるみたいだし、遅刻とかしなきゃいいけど……。


 その時教室の扉を開けて陽介が入ってきた。彼は寒さでかじかんだ手を温める様にポケットに入れ、口元まで巻いたマフラーから白い息を吐いていた。

 後ろ手で素早く扉を閉めると、ちらりと私たちを一瞥し、スタスタとこちらに近寄ってきた。


「おはよう、お二人さん。悪いな広瀬。ちょっと避けてくれ」


 自分の席なのになぜか広瀬君に謝る陽介は、手早く荷物を片付けるとさっさとストーブの方に行ってしまった。


 ……また声かけそびれちゃったな。せっかく陽介が挨拶してくれたのに。

 私が関わらないでって拒絶してから、陽介とは全然話してないなぁ。彼の優しい声が、私は大好きだったのに。もうその優しさが私に向くことはないのかなぁ……。


 そんなことを考えて、私の胸はきゅっと寒くなる。

 ストーブに当たりながら塚田君と何やら楽しそうに話している陽介を見ていると、その寒さはより一層増した。


 もう、以前のように陽介と笑い合うことはできないのかなぁ。

 もう一緒にどこかに遊びに行ったり、一緒に登下校したり、一緒にテスト勉強したり、できないのかなぁ。

 もう友達でいることも、できなくなっちゃうのかなぁ……。


 胸の奥はどんどん冷たくなっていって。でもその奥底からせり上がってくる何かは、目頭を熱くさせた。

 ……泣いちゃだめだ。そんな資格、私にはないんだから。



「――実はそこの店主が俺の両親と知り合いで……って、雪芽? 大丈夫かい?」

「……え? あぁごめん。聞いてるよ。ゴホゴホッ」

「本当に大丈夫かい? 風邪でも引いたかな? 最近随分寒くなったし、気を付けてくれよ?」

「うん、ちょっと風邪気味なだけ。大丈夫だから」

「そうか……」


 うん。風邪のせいかな。こんなにネガティブなことばかり考えちゃうのは。

 最近咳も出るし、少し熱もあるみたい。頭がぼぅっとして、体が弱かったあの頃に少しだけ戻ったような気分。最近は体の調子も良かったんだけどなぁ。


 きっと風邪気味だなんて陽介が知ったら、


「体育祭の時だって急に倒れたんだから、風邪だって甘く見るんじゃねぇぞ? また入院だなんてことになったら困るからな?」


 そんなことを言ったかもしれない。……少し前までの陽介なら。

 今はどうかな? 同じように優しい言葉をかけてくれるかな? きっと陽介は優しいからそう言ってくれるかもしれないけど、少しだけ自信ないや……。


「雪芽、もし具合が悪いなら明日はよしておこうか?」

「ううん、本当に大したことないから大丈夫」

「そうかい? それなら俺としては嬉しいけど……」


 ……あぁ、だめだ。頭がぼぅっとする。広瀬君の話が耳に入ってこないや。

 適当な生返事で広瀬君の話を聞き流しながら、私はずっと陽介のことを見つめていた。


 一時期は私のせいで陽介を傷つけちゃったかなって心配してたけど、今はすっかり元気みたいで笑顔も増えてきた。

 私が守りたかったものを、私はちゃんと守れたんだ。そう誇りに思わなくては私は私を保てなかった。



 ――なにかが、うごめく。

 黒くて冷たいなにかが、私の中を蠢いている。

 それは少しずつ、でも確実に私の中のなにかを食いつくしていく。

 少しずつ、少しずつ……。潮が満ち始めた海のように、ゆっくりと水かさを増して、私の足元の何かをさらって行く。


 そんな寒気に、私の体は一瞬だけ震えるのだった。





 ――――





 まだ、この街の雪は降り止まない。

 昨日まで水たまりに浮いていた白い雪の島は、みるみるうちに大きく成長していた。


「それで去年明が雪でも自転車のほうが速いって言って、豪雪だったのに自転車で登校してきてね」

「……」

「……雪芽?」

「……え?」

「どうしたんだい? やっぱり具合が良くないんだろう?」

「ううん、大丈夫だよ」


 反射的に大丈夫って答えたけど、そんなことないのかもしれない。

 さっき広瀬君とお昼を食べたのに、もうどんな味だったか思い出せない。ううん、食べているときも味を感じていたか、定かじゃない。


 きっととても美味しい料理だったんだと思う。今こうして飲んでいるお茶も、きっと美味しいのだろう。今の私にはその味が分からないけど。



「そろそろ行こうか? 雪もだいぶ降ってきたし」

「うん、そうだね」


 広瀬君に促されるままに、私は席を立つ。

 店長さんとお話しながらお会計をしている広瀬君を待つ間、私は外を眺めていた。

 クリスマスの夜に初めて降った雪は、今までずっと降り続いている。ふわふわと空から舞い降りて、少しづつこの街を白に染めていく。

 それは街だけでなく、私までも覆い尽くそうとしているように感じられて、少しだけ怖いと思った。


「お待たせ。じゃあ行こうか」


 お会計を済ませた広瀬君はお店の扉を開けて私に外に出るよう促す。


 足元はところどころ溶けかけた雪の残骸でぬかるんでいて、油断したら足を取られそうだ。

 広瀬君はそんなのへっちゃらみたいな顔をして、いつものように微笑みを浮かべて話しかけてくる。

 私は足元に目を落としながら適当に相槌を打つ。ぼぅとしていたら転んでしまいかねない。



 そうして歩いていると、いつの間にか人気のない路地に迷い込んでいたことに気がつく。隣の広瀬君を見ると、彼はそのことに気がついていないようでまだなにか話している。


「広瀬君、道間違えてるみたいだよ。戻ろう?」

「え? ああ、そうみたいだね」


 そう言ったきり、広瀬君はその場から動かない。


「ねえ、雪芽。俺たち付き合ってるんだよね?」


 どうしたのかと顔を見上げると、広瀬君はいつもの微笑みを消して、真剣な声音でそんなことを尋ねた。


「そうだけど……」

「それじゃあキスをしてもおかしくはないよな?」

「え? 何を――」 


 広瀬君は私の疑問の声をかき消す様に、素早く私との距離を詰める。

 驚く私の肩に手を置くと、その動作は遅くなるも、縮まる距離はとどまるところを知らない。

 やけに真剣な目をした広瀬君の顔が徐々に近づいてきて、瞳の中に映る景色が見えるほど近くに迫る。


「いやっ!」


 思わず、私は広瀬君の胸を突き飛ばした。あと少しで触れるかといったほどに近づいていた距離は遠くなり、私の手には重たい衝撃がじんじんとした痛みと共に残っていた。

 ぼうっとしていた頭もすっかり覚めてしまった。驚きと恐怖で心臓がバクバクとうるさい。


 突き飛ばされた広瀬君はよろけて後退したが、転ぶことなく体制を立て直す。

 俯いた顔からは、その表情をうかがい知ることはできない。


「今、なにをしようとしたの……?」


 広瀬君が顔を上げる。その表情は悔しそうに歪められていて、恨めしそうに地面を見つめていた。


「キスだよ。だって俺たちは付き合ってるんだろ? だったらキスの一つしてもおかしくない」

「どうして急にそんなこと……!」

「……あいつに負けるのはしゃくだからさ」

「え?」


 何かを呟く広瀬君の声は小さく聞き取れなかったけど、地面を睨む目は鋭く光り、ここじゃないどこか、私じゃない誰かに向けられていた。

 しかし、すぐに元の張り付けたような笑みを浮かべると、なんてことない風に言った。


「別にいいじゃないか。俺たちは恋人同士なんだよ? キスなんてこの先何度でもするんだから、遅いか早いかの違いしかないだろう?」

「なにをっ……! 言ったはずだよね。私はあなたの恋人にはなるけど、あなたのことは好きになれないって。勘違いしないで」

「手厳しいなぁ。やっぱりまだ俺のものにはなってくれないんだね。そんなに陽介のことが気になるのか」

「よ、陽介は今関係ない!」

「関係あるさ。君が俺のことを拒む理由に、少なからず陽介は含まれているんだからね」

「それは……」


 広瀬君は冷たい目をして、吐き捨てる様にして鼻で笑った。

 いつもの張り付けた笑みとは違う。とても邪悪で、冷たい笑み。私は恐怖で背中が凍り付きそうになる。




「皮肉な話だよね。陽介は君のことなんてきれいさっぱり忘れて、彼女と楽しくやっているっていうのにさ」


「…………え?」




 彼女? 彼女っていったい誰? 陽介に彼女ができたなんて、そんなの信じられない。

 でも、彼女って言ったからって恋人とは限らないよね? もしかしたら広瀬君の知っている女の子なのかもしれないし。そうだよ、なっちゃんとかと一緒にいるところを見かけてそう言っているんだ。陽介に彼女ができたなんてそんな――


「なんだ知らなかったのかい? 俺見たんだよ、クリスマスイブの夕方に。雪芽と別れてからも駅前にいたんだけど、その時に陽介が中学生くらいの女の子と一緒に歩いているのをさ」


 中学生くらいっていえば晴奈ちゃんじゃない? きっと家族で街に来てたんだよ。きっとそうだ。


「そ、それはきっと陽介の妹さんだよ。二人とも仲良いから」

「そうか。妹だったのか。でもそれだとおかしいよね? だって――」


 その時見せた広瀬君の表情に、私の背筋は凍り付く。

 黒い夜で満たされたような、くらくて鋭い目。片側だけ歪につり上がった口元。まるで今にも谷底に落ちそうな人を見て、崖につかまるその手を踏みにじりながら笑う悪役のような。そんな表情。


 そしてさも楽しそうに、広瀬君は最後の一言を私に突き刺す。




「――キスしてたんだよ、あの二人」


「…………え?」




 キス、していた? 陽介と晴奈ちゃんが?

 ……いや、そうじゃない。あの二人がそんなことするはずがない。だったら陽介とキスしていた女の子っていうのはもしかして……、由美ちゃん……?


「……うそ」


 由美ちゃんが陽介に思いを寄せていることはすぐに分かった。きっと私なんかよりもずっと前から陽介のことを好きでいたんだと思う。

 でも、でもあの子はまだ中学生。晴奈ちゃんの同級生で、陽介からしたら妹も同然。彼の由美ちゃんに接する態度からもそんな雰囲気が窺えた。だからそんなの嘘だ。


「そんなの嘘だよ!」

「嘘だと思うなら陽介に確認してみるといい! きっと初めて彼女ができたんだって嬉しそうに報告してくれるだろうさ!」


 広瀬君の言葉を否定する私に、広瀬君は何がおかしいのか笑っている。心なしか発する言葉も楽しそうに弾んで聞え、その表情は快楽に浸る狂人のそれに見える。


「あぁ、もしかしたら陽介は悔しかったのかもしれないねぇ? 自分のものだと思っていた雪芽が俺のものになって。

 寂しかったのかもしれないねぇ? 大切な友達が離れて行ってしまって。

 だから彼女を作ったのかもしれないねぇ? 君を見返すために。寂しさを紛らわすために。

 確認してみるといいさ! きっと言ってくれるはずだよ! 俺は彼女と楽しくやってる。もうキスも済ませた、ってねえ! ははっ! あはははっ! あはははは――」


 パンッ! っと。乾いた音が路地に響き渡る。

 それと同時に広瀬君の高笑いも途切れた。


「……なにをするんだ。痛いじゃないか」


 冷たい目で私を睨む広瀬君に、私も負けじと睨み返した。

 まだじんじんと痛む掌を冬の寒さにさらしながら、私は熱くなる目頭を押さえることもせずに、ただ広瀬君を睨んだ。


「最ッ低ッ……!」


 そう吐き捨てて、私はぬかるんだ昼下がりの街を走り出す。

 もうだめだ。これ以上あの人と一緒にはいられない。

 心が痛い。じくじくと膿んだ傷口のように。血を流し、悲鳴を上げている。


「転ばないように気を付けるんだよ! 体調にも気を付けて! かわいい俺の雪芽え!」


 うるさいうるさいうるさい! 違う! 私は、私はっ!


「あなたのものなんかじゃないッ……!」


 噛み潰すようにして吐き出した言葉は、白い息となって後方へ流れていく。

 頬に当たる雪が溶け、雫となって流れ落ちていく。でもそれはなぜか冷たくなかった。



 うそだ。嘘だ。陽介が由美ちゃんと付き合っているなんて、絶対に嘘だ!

 広瀬君が腹いせにあんな嘘をついたんだ。私の苦しむ姿が、悲しむ顔が見たかったに違いないんだ!


「きゃっ!」


 ぼやけた視界のまま走り続けて、疲れ果ててぬかるんだ雪に足を取られる。

 体を襲う衝撃と痛み。服に染み込む溶けた雪が、私の体を冷やしていく。

 とても惨めで、切ない。温かいのは私の目からとめどなく溢れる涙だけだった。


「……絶対、嘘だよ」


 呟いた声は自信なさげで、でもそんなはずはないとまた心の声がする。


「……確かめなきゃ」


 そうだ、確かめなきゃ。嘘か本当か、陽介に聞いて確かめないと。

 私は再び立ち上がり、歩き出す。その目からはもう、涙は流れていなかった。

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