第102話 当たり前の大切さは離れた時に気づく
「ただいま~」
まだ日の高いうちに家の玄関を開けあたしは、気の抜けたただいまを投げる。
しかし返事はない。やっぱり誰も帰ってきてないか。
お兄ちゃんは今日から半日だって聞いてるけど、街から帰ってくるまでにはどうしても時間がかかるし、お母さんとお父さんは仕事だし。
……あ、今思い出した。そういえば今日お母さん帰り遅いから、二人で夕食作ってって言ってたな。お兄ちゃんが帰ってきたらあれこれ注文を付けてやろう。
そんなことを考えていた時、あたしのスカートのポケットの中でスマホが震えた。
『ごめん晴奈、言い忘れてたけど俺今日帰り遅くなるわ』
「は? なんで?」
お兄ちゃんからのメッセージに、あたしは思わず声に出して呟いてみたが、思い当たる節は一つしかない。
『由美ちゃんとこっちで遊んでから帰ることになったから』
そうだ。今日帰り際にも由美なんだか嬉しそうで、クラスメイト達からも何かいいことがあったのかと聞かれていた。あれは絶対彼氏ができたんだって噂になってたくらいだ。
あたしが遊びに誘ってもお兄ちゃんとデートだからって断られたんだった。一瞬忘れてた。
『晴奈! ウチ陽介さんと付き合えることになったんだよ!』
昨日、夜中に電話がかかって来て、なんだと思って出たとたんそんなことを言われた。
それを聞いた瞬間、あたしの頭に浮かんだのはお祝いの言葉ではなかった。
その現実を受け止めたくないという気持ち。何かを失ってしまったかのような喪失感。それがあたしの感じた気持ちだった。
「え、それマジで言ってるの?」
『まじまじ!』
「マジか……、おめでと。まさか由美とあのバカ兄貴がねぇ……」
『ありがとー! ウチ真っ先に晴奈に報告したくて、ごめんね、こんな時間に』
「ううん。それより本当におめでとう。あたしも嬉しいよ」
『ホント!? そう言ってくれるとウチも嬉しい!』
言えるわけがなかった。嬉しいという気持ちよりもショックの方が大きいだなんて。
本当に嬉しそうな声で夢のようだと語る由美に、親友として言える言葉が自分も嬉しい以外であるものか。
「お兄ちゃん、由美と付き合い出したんだってね」
電話を終えてから、バカ兄貴を捕まえてそう尋ねると、あいつは少し驚いたような顔をして、それでも嬉しそうに笑って言うんだ。
「ああ、そうだよ。俺、ついに彼女ができたんだ」
……つまんない。なんか、つまんない。
由美もバカ兄貴も楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうで。それを祝ってあげなくちゃって思えば思うほど、煮え切らない思いがある。
この気持ちを、なんていうのだろうか。
きっと、とっても汚い言葉で表される気持ちのような気がした。
そんなことがあっての今日だ。バカ兄貴も由美も今日と明日だけは半日授業だし、デートに行きたくなる気持ちも分かる。
そりゃあたしとなんて遊んでる暇ないよね。二人ともお互いのことしか目に入らない時期だろうし、しょうがないけどさ。
……でも、なんか、つまんない。
「あー、もうっ! やめやめ、こんなこと考えてたって仕方ないって」
あたしは誰もいないのをいいことに、大きな独り言を呟きながら居間に荷物を降ろす。
そして、既読をつけたまま放置していたスマホに返信を打ち込む。
『今日お母さんがご飯自分たちで作れって言ってたの忘れてるでしょ』
『あー、そういやそうだったな。わりぃ晴奈、夕食までには戻るから献立考えておいて』
『はいはい。せいぜい楽しんで来てよね』
『ああ』
なにかのキャラクターが親指を突き立てているスタンプが送られてきて、バカ兄貴が心底浮かれていることが伺える。
やっぱり今日の夕食のこと考えてなかったし。まぁ、あたしもさっきまで忘れてたんだけど。
でも、最近のバカ兄貴はなんだか元気がないっていうか、やつれていたっていうか、危うい感じだった。それが由美と付き合いだしたとたんに元のバカ兄貴に戻って、一安心っちゃ一安心だけどさ。
だけど、あたしはてっきりお兄ちゃんは雪芽さんに気があるんじゃないかって思ってたのに、違ったのかな? もし雪芽さんとお兄ちゃんが付き合っていたら、あたしはこんな気持ちにはならなかったのかな?
もう、よく分からなくなってきた。夕食の献立でも考えてよ。
そうしてあたしは冷蔵庫を物色することで、自分の気持ちに背を向けるのだった。
――――
「なぁ晴奈ー。デートってやっぱりお洒落なカフェとかがいいのかな? ファミレスはないよなぁ?」
「知らないよ、そんなこと」
夕食を食べている最中、バカ兄貴はそんなことを言った。
先程帰ってきたと思ったら、慌ただしく夕食を作り今に至るのだが、帰ってきてこの方ずっとこんな調子だ。
「由美ちゃんと明日ランチの予定なんだけどさ、俺に気を使ってファミレスでいいって言うんだよ。たしかにそっちの方が安いから助かるけどさ、なんか味気ないっていうか……」
「由美がいいって言ったんだからファミレスでいいんじゃないの? それに由美なら奢ってもらおうとか考えてないだろうし、由美のためにも安いほうがいいでしょ」
「まぁそうかもしれないけどさ……。せっかくだからかっこつけたいじゃん」
「いまさらかっこつけても遅いでしょ。お兄ちゃんがダメダメなのは由美も知ってるだろうし」
「え、まじか」
バカ兄貴は衝撃を受けたようで、名前に違わぬバカ面を浮かべる。
由美にはあたしからバカ兄貴のバカ話をしているし、由美だって家に遊びに来たときにバカ兄貴のだらけきった姿をみている。とてもいまさらなことだ。
「だから別にどこでもいいでしょ。由美も気にしないって」
「とは言っても最初の内はそれっぽい所に行っておきたいし。ずっとは無理だけど多少は見栄も張りたいんだよ」
「じゃあもう勝手にすればいいじゃん」
「なんだよー。冷たいじゃないかよぉー」
……はぁ。あたしなんで真面目にアドバイスとかしてるんだろ。バカみたい。
バカ兄貴の反応からして答えは決まってるみたいだし、ただ
「じゃああたしはお風呂行ってくるから。お兄ちゃんは由美と電話でもしてれば?」
「おう、そうするわ」
なんだよ、いい顔で笑ったりしてさ。
いいさ、あたしの事なんて気にもせずに電話でもデートでも好きにしたらいいよ。
そんなことを考えながら脱衣所で服を脱いでいく。
一枚、一枚と脱ぎ捨てるたびに、あたしの動きは緩慢になっていく。
そんなことを考える自分が嫌だった。あたしだって素直にお祝いの言葉を言いたかった。
……でも、あたしの目の前にいてあたしと話しているのに、ここじゃない何処かにいるお兄ちゃんを見ていると、胸の奥がすっと寒くなる。
「よく分かんないけど、あたしはお兄ちゃんと由美が付き合うのが面白くないのかな……?」
ふと呟いてみれば、それは思いの外すんなりとあたしの心の中に落ち着いた。
面白くない。あたしはお兄ちやんと由美が付き合うのが面白くないんだ。じゃあ何で?
ダラダラと脱いでいた服をようやくすべて体から引き剥がし、あたしは身震いしながら浴室に入っていく。
体を温めるためにすぐシャワーをひねり、体へとかけていく。
あたしがお兄ちゃんのことが好き――、ではないな。そんなことを想像するだけで気持ち悪いっての。
じゃあ由美のほうかな? あたしは由美のことは好きだ。親友として、自信を持ってそう言える。
「それじゃああたしは、由美を取られたからバカ兄貴に嫉妬してる……、とか?」
シャワーを止めて、あたしは至った結論を口に出してみる。
「い、いやいや、それはないない」
思わず首を振ると、髪先についた水滴がパタパタと音を立てては浴室の床に弾ける。
反射的に否定したけど、確かにピッタリとは当てはまらない。ニアピンって感じだ。
あたしはもう少しで正解にたどり着ける気がして、一度落ち着くことにした。
浴槽に身を沈めて、ゆっくりと息を吐く。
そのまま体の力を抜くと、やがて口元まで湯に浸かる。
吐いていた息は泡になって、生まれたそばから消えていく。
うん。やっぱり嫉妬とは違うよ。由美はあたしのものだとも思ってないし、バカ兄貴から取り返してやろうなんて考えもしない。
じゃああたしはなんでこんなに――
「――寂しい、のかな……?」
ぴちょん、と。
天井に溜まった水蒸気が
「……そっか。あたしは寂しかったんだ。由美が、お兄ちゃんが、あたしから離れていっちゃうみたいで」
噛み締めて、それはすんなりとあたしに馴染んでいく。
由美はあたしとあまり遊んではくれなくなるだろうし、お兄ちゃんも今までのようにあたしの面倒を見てくれなくなるかもしれない。そうして一度にあたしの大好きな人が二人もいなくなっちゃったようで、あたしは寂しかったんだ。
「……って、バカ兄貴は違う違う! 由美だけだって!」
きっとエロ猫がいたらニマニマした笑いを浮かべて、
「ホントに晴にゃは陽介が大好きにゃんだにゃぁ」
とかって言われかねない。違う、違うから。大好きとかじゃ全然ないから!
……でもまぁ、かまってくれなくなるのは寂しいけどさ。こんな田舎じゃ話し相手も少ないし、必然的にお兄ちゃんが話し相手になってくれることが多かったもんね。
遊び相手はほとんど由美しかいないし。そりゃ寂しくもなるか。
あたしは、なんだか分からなかったモヤモヤが解消されてすっきりする気持ちと、少しだけ安心した気持ちが入り混じっていた。
安心っていうのは、自分の感じていた感情が思っていたより汚いものじゃなくてホッとする気持ちだ。
あたしが由美とお兄ちゃんの幸せを祝えないのは、きっと嫉妬とか、そういう汚い感情だと思っていたけど、そうじゃなかったんだ。
だったら、あたしはもう大丈夫だ。
確かに寂しいのは本当だけど、それもいつか慣れていくはず。寂しいのは今だけで、きっとその内以前みたいにあたしとも遊んでくれるようになるって。
第一、お兄ちゃんが構ってくれなくて寂しいとか、ブラコンにもほどがあるでしょ。あたしは別にブラコンじゃないし、全然寂しくなんてないから。
「……あたしってブラコンなのかな? 違うよね……?」
ぼぅっと見つめた水面に、エロ猫のにやけた顔が映りこんだ気がした。
……うん、のぼせてるみたい。変な幻覚見ちゃったし、もう上がろ。
あたしは新たなモヤモヤの種を抱えながらも、一歩前には進めた気がしていた。
――――
その夜、あたしは自室のベッドに腰掛けて、なりだすコールに耳を澄ませていた。
『もしもし?』
5回ほどコールが鳴った後、聞きなれた声が電話の向こうから聞こえてくる。
その声はこんな時間に電話がかかってくるとは思ってなかったようで、少し戸惑っているように聞こえる。
「もしもし由美? ごめんね、こんな時間に」
『ううん、ウチもさっきまで陽介さんと電話してたんだ。だからこれからお風呂だし、まだまだ起きてるよ!』
「そっか、じゃあちゃちゃっと済ませよっか」
あたしはベッドから立ち上がって一二歩進むと、口を開く。
「由美、本当におめでとう。あのバカ兄貴じゃいろいろ迷惑かけると思うし、大変なことも多いと思うけど、よろしくね」
『何今更なこと言ってんのぉ? でもありがと! ウチもまだ夢みたいで実感わかないけど、困ったことがあったら晴奈に相談するね!』
由美は一度言ったお祝いの言葉をもう一度言ったあたしに対して、最初のころと変わらずに受け入れてくれた。喜んでくれた。
そのことが嬉しくて、あたしは肩の荷がすっと下りたような気分になる。
やっと言えた。心からのお祝いの言葉を。
由美が感じている幸せな気持ちを、あたしも幸せに感じることができる。それがこんなに素敵なことなんだって、あたしはやっと分かったんだ。
「うん。あたしが言いたかったのはそれだけ。じゃあね」
『あ、待って晴奈!』
何かを思い出したように呼び止める由美の声に、あたしは離しかけていたスマホを再び耳に当てる。
「なに?」
『ウチはまだ陽介さんと付き合い始めたばかりだから、何があるか分からないけど、たとえ何があっても、ウチは晴奈の親友だよ。それだけは絶対だから!』
「……うん、分かってる」
『そっか! じゃあお休み晴奈!』
「うん、お休み」
今度こそ通話の切れたスマホを耳から離し、ベッドに放り込む。
「何があっても親友、か。ばっかみたい」
学校で時々聞く、そんな友達ごっこのセリフを、あたしはいままで冷めた目で見ていた。
言葉で確認しなくちゃ保てない友情なんて、友情じゃない。
だから由美にそんなことを改めて言われても、あたしは冷めた気持ちでいるのだと思っていた。
「そんなの、当たり前じゃん」
でも悪くないって、そう思える。
そんな風に思い合える友達を、ずっと大切にしていこうと、そう思える。
後でお兄ちゃんにもくれぐれも由美を大切にするようにって言い含めておかないと。
あたしはお兄ちゃんを探すために一階に降りる。
部屋に置いた姿見にチラリと映ったあたしの顔は、とても嬉しそうに微笑みを浮かべていたのだった。
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