第100話 雪の精は答えに悩まされて
……また、あの夢だ。
いつのことなのか、果たして実際にあったことなのかも分からないけど、この光景を私は知っている。
今度は白い空間に漂ったいるわけではなかった。相変わらず白い空間なのには違いないが、私は今確かに地面に足をつけて立っている。感触からしてコンクリートかアスファルトか。どちらにしても舗装された地面だ。
「――――」
そして私の目の前では、相変わらず正体不明の人影が何か話しかけてくる。私はそれに何かを答えているんだけど、その声はどうしてか聞こえない。
「――、――――――。――――」
人影は尚も何かを言い続ける。その声は聞こえないはずなのに、なぜか安心感を覚えた。
そして人影は一呼吸置くように言葉を止めると微笑む。見えないが、微笑んだように感じた。
「さて、では問おう。君は――」
その部分だけ、はっきりと聞き取れた。それでも声からは男女の区別がつかず、年の頃も分からないけど。
でも、その声はなんだかとても――。
「私は――」
そして、私は目を開けた。
目の前には白い天井がある。もうすでに見慣れた、私の部屋の天井だ。
……また私がなんて答えたのか、分からなかったなぁ。
「……答え? 私は何かを聞かれたのかな?」
夢の記憶は指の間からポロポロとこぼれ落ちていって、私の手の中に残ったのは、私が何かを答えようとしていたという記憶だけだった。
私は何を答えようとしていたんだろう? そもそも何を問われたのだろう?
寝起きのはずの頭はやけにはっきりとしていて、そんなことを考えるのだけど、答えは結局出ないままだった。
カーテンに遮られた窓からはぼんやりとした光が漏れてくる。きっと今日も曇りなのだろう。
私の目覚めより遅れて鳴り出すアラームを止めて、私はベッドから体を起こす。そうしてやってきた寒さに、思わず身震いする。
思い出せない夢のことなんて考えていても仕方ないよね。それよりも早く準備をしないと、学校に遅れちゃう。
「……行きたくないなぁ」
今日は月曜日なのだと思い出すと、行きたくない気持ちが沸き起こってくる。
学校に行けば嫌でも陽介と顔を合わせることになる。それはやっぱり気まずい。
陽介は自分なら大丈夫だって、みんなで力を合わせれば乗り越えられるって言ったけれど、本当にそうなのか私には分からない。
広瀬君は言った。私が広瀬君の元を去れば、再び陽介のありもしない噂が流れるだろうって。きっとそれくらいなら陽介の言うようにみんなで協力すれば乗り越えられるのかもしれない。でも、広瀬君はこうも言ったんだ。
――今度は俺も庇うような真似はしない。そうしたら陽介は一体どうなるだろう?
そして私は思い出した。陽介が感情的になったクラスメイトに殴られそうになっているところを。
あの時はなぜか広瀬君が庇ってくれたけど、今度同じような状況になったら庇うようなことはしない。きっと広瀬君が言いたかったことはそういうことなんだと思う。
もし広瀬君の言う通り、陽介に暴力が振るわれるような事態になったら――。
想像しただけで耐えられなくなった。
「だから、あれでよかったんだよ」
関わってこないで、と。そう突き放したのは正解だったんだ。だって、私は陽介に広瀬君と別れろって言われたとき、とっても嬉しかったから。もし何度も同じことを言われたら、私は近いうちに頷いてしまう気がしたから。だから、きっと正解だったんだよ。
それに、何度も同じ嘘をつき続けるには、私の心は弱すぎるから。
好きでもない人のことを好きだって、本当に好きな人に向かって言うのはもう無理だ。ましてそんな嘘の
だからこれで――
「本当に、よかったのかな……」
夢も現実も、結局答えは分からないままだった。
誰か、答えを教えてくれれば楽なのに。
――――
駅につくと、なっちゃんがすでにホームで待っていた。なっちゃんは私を見つけると、じっと私が近づいてくるのを見つめていた。
「おはよう、ユッキー」
「うん、おはよう」
形式じみた挨拶の後、なっちゃんはそのままの表情で問いかける。
「ユッキーさ、陽介に何言ったのよ?」
陽介の名前にピクリと肩が反応する。何かいけないことをしたのがバレたときみたいに、私はかすかな焦燥を感じる。
「何って、特に何も言ってないよ?」
「嘘よ。陽介があんなに落ち込んでるの、私見たことないもの」
「……そんなこと、ないと思うけど」
私の言葉になっちゃんは目を丸くする。その表情に私は答えを間違えたんだなと分かった。
「本気じゃないわよね? あんたは学校でも隣の席にいる。分からないはずないでしょ?」
私は返す言葉もなく
本当は分かってる。私がもう関わらないでと陽介を拒絶した次の日から、陽介は抜け殻のようになっていた。昏く、どこか遠くを見つめる、かつて見たことのある目。出会ったばかりの頃の陽介に似た目をしていた。
それが私のせいだって分かってはいるけど、あれは陽介のためだったんだ。だからしょうがないよ……。
「……まただんまりなのね。都合の悪いことは話さない。賢くて楽な方法だと思うけど、それって卑怯よ」
「……っ!」
私が驚いて顔を上げると、なっちゃんは射抜くように私を見ていた。その視線に捉えられて、私は目をそらすことができなかった。
「だってそうでしょ? それってちゃんと向き合わないってことじゃない。嘘を言うのも嫌で、それでいて本当のことも話さない。それなら後で何とでも言えるものね?」
「違う! 私はそんなつもりじゃ……!」
「でも、少なくとも私はそう感じた」
返す言葉が見つからずに私が俯くと、ちょうどアナウンスが鳴り響く。まもなく電車が来るようだ。
なっちゃんはそれきり何も言わず、ただ前を見つめて立っていた。
それは程なくしてやってきた電車に乗り込んでからも変わらず、ただ真っ直ぐに前だけを見つめていた。
それに対して私はどうだろう。俯いてばかりだ。以前はよく見えていたのどかな風景も、刻一刻と表情を変える空も、今ではあまり見なくなった気がする。
枯れ草が並ぶ茶色の地面と、誰のかすら分からない数々の足たち。今の私に見えるのはそのくらいだった。
そうして俯いて思うのは、なっちゃんの言うことは正しいということだった。
嘘を言うのは嫌だった。もし嘘がばれたとき、嫌われてしまうのではと思ったから。
それでも本当のことは言えなかった。その結果私の大切な人が危険にさらされてしまうのが嫌だったから。
でも、そうしてどちらも選択せずに黙っていることは、卑怯だと
そうだよね。誰かに嫌われる覚悟もなく、危険にさらしたくないなんて、都合のいいこと。
嘘をつき通して、嫌な人になってでも大切な人を守るか、大切な人を危険にさらしてでも正直な自分を貫き通すか。どっちかを選ぶべきだったんだ。
どちらも選べなかった私は、結局陽介にもなっちゃんにも何も言えずにだんまりで、いざという時の自分の逃げ道を作っている。
……私って、悪い子だったんだ。
「ねぇ、ユッキー」
改札を抜けてバス乗り場へと続く道すがら、あと少しでバス停にたどり着く階段下で、なっちゃんはそう呼びかけた。
私が顔をあげると、なっちゃんは少しだけ言いづらそうに目を伏せると、逡巡ののちに口を開いた。
「さっきはきついこと言ってごめん……。私、陽介があんなに落ち込んでるの見たの初めてだからさ。なんか嫉妬したっていうか、ムカついたっていうか……。そんな感じだからちょっときつい言い方だったわね」
「ううん、そんなことないよ。なっちゃんの言ったことは事実だって思うから……」
「それはそうよ。私は今でもさっきユッキーに言ったことが間違いだなんて思ってないからね? ただ、言い方ってものはあるじゃない。……ってこれもちょっときつかったかな」
なっちゃんは真剣な表情でそんなことを言いながら
確かに言い方はまっすぐに私の胸を穿つような鋭さがあったけど、それでもなっちゃんの優しさが見え隠れしている。
なっちゃんが意地悪でこんなことを言っているわけじゃないって、それは分かっている。
「ああもうっ、そうじゃなくて! 私が言いたいことはねユッキー、もっと単純なことよ」
なっちゃんは顎に当てていた手で無造作に前髪をかき上げると、私の目を見る。私の目の、その奥を見つめるように、まっすぐ。
「今ユッキーがやっていることは本当にユッキーのしたいことなの? ユッキーは自分の気持ちに素直になっているの?」
「私の気持ち……?」
「そうよ。私にはユッキーが広瀬君と付き合っているのだって辛そうに見える。それは本当にユッキーが望むことなの?」
「……そうだよ」
「…………そう」
なっちゃんは私の目をじっと見つめた後、短くそう言って背を向けた。
しかし、二、三歩進んだあたりで何かを思い出したように立ち止まると、振り返る。
「ユッキー。私に自分に素直になることの大切さを教えてくれたのはユッキーなのよ。だから、ユッキーがそれを見失ってないことを祈ってるわ」
なっちゃんはそれだけ言うと、ちょうど停車していたバスに乗り込んでいった。
私はただそれを見送って、なっちゃんが乗ったバスが出発しても、しばらくその場に立ちすくんでいた。
「自分に素直に……」
そんなことを、言ったのだったか。あれももうずいぶんと昔のように感じる。
大丈夫だよなっちゃん。私はちゃんと自分の気持ちに素直に従ってるよ。私は陽介を助けるために自分にできることなら何でもやりたい。だからこうして広瀬君の彼女でいることも私が望んだことなんだよ。
そう自分に言い聞かせても、どうしてか納得できなかった。
「私は一体どうしたいんだろう……?」
呟いた問いかけに答える者は誰もいなくて、私は何となしに空を見上げる。
空は数日前より幾分重く垂れこめた顔で私を見下ろしている。なんだかそれは、私に重く圧し掛かってくるように感じられて、責められているような気分になる。
「……私は間違ってないもん」
ポツリと呟いた言葉は、自信なさげに朝の街に吸い込まれて消えた。
――――
その日、学校は保護者懇談会によって半日となっていた。私も今日お母さんが来て先生とお話しするらしい。
部活のある子は自主練習になったりすることが多いらしくて、早く帰れると喜んでいるのは帰宅部の子たちばかりだった。
陽介はやっぱりというべきか、喜んではいなかった。もしかしたら喜んでいたのかもしれないけど、私にはそんな素振りを見せなかった。
でも、なんだか今日一日ずっとそわそわしている様子で、私に拒絶されたからというよりは、他に何か気になることがあるように見えた。
あまり落ち込んでいないようで良かったと思う反面、何を気にしているのか気になってしまう。
結局今日一日、一言も話さないうちに陽介は帰ってしまった。
教室を去っていく陽介の背中を見ながら思うことは、本当にこんな状況を私は望んでいたのかということ。今朝なっちゃんが言っていた言葉だった。
自分に素直になること。それを私は分かっているつもりで見失っているのかな……?
「雪芽。今日懇談だよね?」
私が考えを巡らせていると、広瀬君がこちらに寄ってきてそう問いかけてきた。
あれだけのことを言っておいてよくも話しかけられるものだと感心するけど、そもそもこの人はそういうことを気にもしない人なのだろう。
「そうですけど」
「確か4番目だったよね? じゃあ少し話でもしないか」
「なんでですか?」
「雪芽も親が来るまで暇だろう? それに俺たちは恋人同士なのにあまりに互いのことを知らなすぎると思わないかい?」
「知る必要もないですから」
肩書としては恋人だけど、本当の意味で恋人同士になるつもりはない。そんな私の態度にも顔色一つ変えることなく、広瀬君は微笑む。
「多少は知ってもらわないと困るんだよ。周りから見て仲のいい恋人に見えなくては意味がないんだからね」
「そうやってまた脅すんですか?」
「脅しているわけじゃないよ。ただ、恋人ってそういうものだろ?」
……広瀬君の言いたいことは分かる。こんなに冷めた態度で接していては、周囲から本当に恋人なのかと疑われても仕方ないということだ。
でも、もし私が広瀬君の恋人のように振舞ったとしても、そんな上辺だけの恋人ごっこがいつまでも続くとは思えない。
そもそも、どうして広瀬君は私にこだわるんだろう? 私じゃなくてもヒナとか、もっと身近に慕ってくれる女の子がいるっていうのに。
「はぁ……。いつまでそうしているつもりだい?」
私が黙ったままでいると、さすがの広瀬君もため息をついた。
しかし、ちらりと見上げた表情は呆れたような笑みで、イラ立っているわけではないようだった。
「雪芽、君は俺の恋人になって陽介を助けることを選んだんだろう? それなのにどうしてまだそう頑ななんだ。陽介に対する想いがまだあるのは知っているけど、陽介が君に想いを寄せることはもうないって、どうして分からないんだ?」
「……どういう意味ですか」
「陽介から見て君は俺の彼女だ。あいつはほかの男の彼女に手を出すほどの度胸はない。もし仮に陽介が雪芽のことを好きだったとしても、もうとっくに諦めているはずさ」
「ッ……!」
「どうしたんだい? まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。まさか今まで気が付かなかったわけじゃないだろう?」
広瀬君の言う通り、気がついていないわけじゃなかった。分かってはいたんだ。私のした選択は陽介を守る代わりに私の気持ちを諦めなくてはいけない選択なんだって。
広瀬君の提案を受けて彼とお付き合いすることを決めたとき。陽介に広瀬君と別れるつもりはないと言ったとき。私は陽介へのこの気持ちを諦めなくてはいけなかったのに。
でも、私はそれができなかった。
なっちゃんとの関係を秤にかけても諦めきれなかった想いだもん。そう簡単なことじゃないよ。
だけど、いくら私が諦めなかったとしても、その想いが実を結ぶことはもうないんだ。だって私はもう広瀬君の――。
「……そんなこと、分かってます」
「じゃあもう少し俺の彼女っぽくしてくれないかな?」
広瀬君の要求をはねのけるのは簡単だ。
確かに広瀬君と付き合っている限り私の想いは叶わないけど、それは広瀬君と別れれば解決する話だ。
でも、広瀬君と別れるってことは陽介に危険が及ぶかもしれないってことだ。そうなると最低でも卒業までは別れられない。
だから今の私にできることは……。
私は自分の無力さに思わず下唇を噛む。
そうして得られた痛みだけでは、到底自分の情けなさを払拭できなかった。
「分かりました。広瀬君を好きになることはないですけど、努力はします」
私がそう言うと、広瀬君は満足そうに笑う。
「ありがとう! じゃあまずはその敬語をやめてもらいたいかな」
「……うん、分かったよ。もう敬語はやめる」
「ふふっ、ありがとう、雪芽」
顔を伏せて答える私に、きっと広瀬君はいつものように笑いかけているのだろうと、そう思った。
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