第99話 乙女の祈りは太陽に届く

「だってあたし、ずっと前から陽介さんのこと、好きですから」

「……え?」


 由美ちゃんの口から告げられた言葉の意味を、俺は理解できなかったわけではなかった。ただ驚き言葉が出なかったのだ。

 一瞬冗談を言っているのでは、俺の思う意味とは違う意味なのではないかとも思ったが、そんな推測を許さないくらい由美ちゃんの目は真剣で、今は不安げに揺れている。


「どう、して……?」

「きっかけはずっと前。あたしがいじめられていたのを助けてもらった時からです。優しくあたしに寄り添って、背中を押してくれた。それからずっと、まるでお兄ちゃんみたいな陽介さんことが大好きでした」


 由美ちゃんは俺の要領を得ない質問に、少し目を伏せ答える。

 赤く染まる頬、潤んだ瞳、膝の上で固く握られた手。そのどれもが由美ちゃんの言葉を裏付けていた。


「最近までこの気持ちは忘れようって思ってたんです。陽介さんが小学校を卒業してから、あたしは陽介さんと全然会ってませんでしたし、これからもそうなんだろうなって思ってたんです。このまま陽介さんと一緒にいられる時間はないままなんだろうなって」


 由美ちゃんは未だに驚きから我を取り戻せない俺の目を見て、はにかむ。


「でも、夏休みに陽介さんと偶然出会って、お話しできて。その時に思ったんです。あぁ、やっぱりウチは陽介さんのこと好きなんだって」


 紡がれる言葉には恥じらいが込められていたが、どこか喜色をにじませていた。

 恥ずかしさをごまかすようにはにかむ由美ちゃんの表情は、今まで見たどの表情とも違うと思った。


「それで連絡先も交換できて、また遊びに来てもいいなんて言われたら、ウチにもうこの気持ちを忘れることなんてできなかったんです。だって、ウチはまた陽介さんの傍にいてもいい、いられるんだって分かっちゃったから」


 そんなことを、考えていたのか。今までずっと、そんな気持ちを抱いていてくれたのか。

 俺にとっては妹の友達だったけど、由美ちゃんにとっては友達の兄以上の存在だったってことなのか。



「そうか、そうだったのか……。だから晴奈と川に行った時もあんなに積極的で……。プールの時や花火大会の時も全部、そうだったのか……」

「……?」


 由美ちゃんはきょとんとした表情で俺を見上げる。

 俺の記憶の中にいる由美ちゃんがしたことを、今の由美ちゃんは知らない。でも、それが由美ちゃんであることに変わりはないんだ。


 由美ちゃんが俺を肯定してくれていたことも、感想を求めたりしたことも、優しくしてくれたことも、全部。

 どうしてなんだろうと疑問に思ったこともあった。でも、その全部がたった一つの感情で説明できる。


 俺は少しずつ我を取り戻していく。由美ちゃんの口から紡がれた真実に、徐々に鼓動が早くなる。体が熱くなる。



「で、でもっ! 俺はめんどくさがりで顔もよくないし、勉強や運動もろくにできないよ?」

「……そんなの関係ありません。それも含めてあたしは陽介さんのことが好きなんですから」

「だって俺彼女いたことないし、取り柄だって料理が少しできるくらいでこれといってないし!」


 由美ちゃんは俺の言葉に首を横に振る。そしてベンチに座ったままの体を限界までこちらに向けて、その小さな手を俺の膝に置いた。


「そんなことありませんよ。あたし知ってます。陽介さんがとっても優しくて、紳士的で、身近な人を大切にできる素敵な人なんだって」


 その手の、その言葉の温もりは、じんわりと俺の全身を駆け巡って、やがて心にまで届いた。



 ここまでまっすぐに、純粋に、好意を伝えられたのは初めてだ。

 俺はこんな時、どうすればいいのか分からない。


 俺は誰かを好きになる感覚を知らない。だから由美ちゃんの言う好きという気持ちを察することもできない。

 でも、今の俺はどうだ? 動悸が激しくなって、口が渇いて、驚きっぱなしだけど、少なくとも嫌な気持ちではない。誰かに好きだと言ってもらえて、俺を認めてもらえて、俺は嬉しいのだ。



 由美ちゃんは俺の膝から手を退けて、再び自分の膝の上で固く握る。

 俺は由美ちゃんの顔を見つめる。その表情は先ほどの告白をする前の由美ちゃんのそれによく似ていると思った。


「でも、あたしは――、ウチは、そんな素敵な陽介さんにあこがれるだけの子供です。

 すぐ暴走してとんでもないことしちゃうし、それで後になって恥ずかしくて死にたくなったりしてます。今だって陽介さんが大変だっていうのを知っていて、こんな自分勝手な告白をしてます……。

 自分でも卑怯だな、ずるいなって分かってはいるんです……」


 まるで懺悔のように、由美ちゃんは自分の罪を告白していく。その中には確かにそうだなと納得してしまうこともあるけれど、それらが由美ちゃんのすべてではないと知っているから。


「でもっ! もし、もしこんなウチでもよければ、ウチと――」


 由美ちゃんはうつむけていた顔をあげると、潤む瞳を俺に向けた。その瞳に吸い込まれてしまいそうだ。

 心臓が飛び跳ねるように脈打つ。誰かに握られていて、行き場を失った血で血管が膨張するように、ドクッドクッと。痛いほどの鼓動を感じる。


 そして由美ちゃんは俺の視線を奪ったまま、その一言を吐き出した。




「――付き合ってください」




 ドクンッ、と。

 今までで一番大きく心臓が脈打つ。


 ……あぁ、そうか。俺が心臓を握られていたのは誰かじゃない。由美ちゃんだったんだ。

 その仕草に、その言葉に、その瞳に。俺は惹かれているのだと、そう思った。



 由美ちゃんの目は今、俺の返事を不安げに待っている。

 俺は、俺はどうすべきなのだろうか。由美ちゃんのことは嫌いじゃない。むしろ好きな方だろう。でもその気持ちが果たして異性としてのものなのか、今の俺には分からない。そんな曖昧なままで返事をしてもいいものなのか。


 ……でも。この胸の高鳴りを、燃えるように熱い体を、好意でなくて何と呼ぶのかも、分からないのだ。

 それにあんなに必死になって、がんばって自分の気持ちを告白してくれた由美ちゃんを悲しませることはしたくないと、そうも思う。



「俺はね、由美ちゃん。さっきも言ったけど彼女もいたことのない男だよ。由美ちゃんが期待するような彼氏にはなれないかもしれない。自分のこの気持ちが何なのかもまだよく分かってないからね」


 そんな俺の言い訳臭い言葉にも、由美ちゃんは真剣な表情で取り合ってくれる。


 ああ、そうだよ。この子に何の不満があるっていうんだ。確かに少し暴走しがちかもしれないけど、とっても優しくて気の利くいい子だ。


 だから、俺の答えは決まっている。




「そんなダメダメな俺でもよければ、ぜひ」




 大きく見開かれる目。それはいっそ涙でも流すのではないかと見紛うほどに濡れていて、上気していた頬の赤みは、もはや頬だけに留まらず首にまで至っていた。


「本当、ですか……?」

「こんなところで嘘なんて言わないよ」


 そして由美ちゃんは口元に手を当て、しばらくの間何かを噛みしめるように俯くと、やがて顔を上げる。




「……はいっ! これからよろしくおねがいしますねっ!」




 その時見せた由美ちゃんの笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも嬉しそうに輝いていて、この子はこんな風にも笑うのだと、嬉しいような気持ちになった。



 しかし、由美ちゃんはその笑みをふっと消すと、不安げな表情を浮かべる。


「あの、陽介さん。ウチとその、付き合ってくれるのはホントに嬉しいんですけど、雪芽さんや夏希さんのことはいいんですか?」

「うん? なんでそこで雪芽と夏希が出てくるの?」

「……いえ、思い当たる節がないなら大丈夫です。気にしないでください」


 雪芽と夏希とは由美ちゃんも何回か会っている。それなりに仲良くやってくれていたし、もしかすると俺と仲のいい彼女らから俺を奪ったように感じているのかもしれない。彼女ができれば必然的に友達と過ごす時間が減るものだろうから。


 ……そんなこと気にしなくてもいいのに。今の俺にはあいつらとの時間なんてあってないようなものなのだから。



 雪芽とはこれ以上広瀬のことで関わるなと拒絶され、今ではろくに口も利かない。

 雪芽は広瀬と別れるつもりはないと言った。きっとあの拒絶は、自分は広瀬の彼女なのだから、友達として少しは配慮しろという警告なのだろう。


 庭は、雪芽が俺を守るために広瀬と付き合いだしたと言っていたし、雪芽もそれを認めるような発言をしていた。なのに別れたくはないというその真意は分からないけど、別れないとしたらもう今までのように雪芽たちと遊んだりはできなくなるだろう。

 夏希とはもともと学校でつるむくらいで、どこか遊びに行ったりはあまりしなかったし、問題ない。

 だから由美ちゃんが気に病む必要なんてないのだ。


「あいつらのことは気にしなくていい。知っての通り雪芽とは少し疎遠だし、夏希とはもともとずっと一緒にいるような仲じゃないしさ」

「……はい、ありがとうございます」


 由美ちゃんは安心したように微笑む。それはまるでこの場所だけ冬を通り越して春になったのかと思うくらいに暖かかった。





 ――――





「ふぅ……。ただいまっと」


 由美ちゃんと別れ自分の部屋に戻ってきて、俺は着替えもせずにベッドに倒れ込む。

 あれから随分と話し込んでしまい、もう外はうっすら暗くなっていた。由美ちゃん、無事に帰れてるといいけど……。


 心配なのでちゃんと帰れたか確認のメッセージを送ってから、そのままのうつ伏せになってじっとしていると、さっき由美ちゃんに言われたことが頭の中で蘇ってくる。


「……俺、ついに彼女ができたのか」


 言葉にしてなんだか恥ずかしくなる。

 ……でも、悪い気はしない。恥ずかしいんだけど、それ以上に嬉しい。


 鏡を見なくても分かる。今の俺はすんごくニヤけてる。ここ最近鬱々としていたのが嘘みたいに気持ちが昂ぶっている。



 頭の中にあるのは由美ちゃんのことばかり。記憶はどんどん遡って、浴衣姿や水着姿。顔を真っ赤にして倒れてしまう姿や嬉しそうに笑う顔。そしてかつて背中に感じた柔らかさも……。


「ってやめやめ! まだ付き合い出したばかりだし、相手は中学生だぞ!? そういうのは駄目だ」


 というか、よく考えたら由美ちゃんはまだ中学生だよな……。これって犯罪とかじゃない、よね……?

 由美ちゃんは色々と中学生じみてないから、今の今まで失念していた。中学生ならギリギリセーフだよな……? 俺も高校生だし。


 それからも、さすがにロリコンだと思われたくないからしばらく周囲には伏せておこうとか、晴奈にはなんて説明しようかなど、心配しなくていいことまで心配していた。


 あぁ、これが誰かを好きになるってことなのだろうか。相手のことで頭がいっぱいになる。さっき別れたばかりなのにもう会いたくなる。


 今度会ったときは何をしよう? 休日にはどこか遊びに行こうか。そういえばもうすぐクリスマスじゃないか。今年は彼女のいるクリスマスになるのか。



「……」


 ふと、そんな妄想の中にいない人のことを考えた。最近は何をするにも大勢だったから、少し寂しいような気持ちになる。


「……いいんだよ。あいつはあいつで広瀬と楽しくやるんだろうし」


 そう、そうだよ。俺があいつのことを考える必要はないんだ。もう関わるなと言われたのだから放っておけばいいんだ。


「俺は俺で楽しくやればいいんだよ」


 そう呟いて俺はまた彼女ができた余韻に浸っていく。

 でも、それはさっきまでとは少し違くて。


 ……どうして。

 自分を納得させても、理屈をあれこれねてみても、どうしても拭いきれない。

 どうして、こんな気持ちになるのだろうか。


 考えても分からなくて、考えるのも嫌になって、俺はベッドから体を起こした。いい加減着替えないとな。

 そうしてふと鏡に写った自分の顔は、全くニヤけてなどいなかったのだった。

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