変わりゆく関係
第98話 その優しさは勘違いに非ず
日曜日の朝、俺は5時に目が覚めた。
ここのところこんな日が続いている。夜は眠れないし、朝はやけに早く起きてしまう。
「まだ5時か……」
時計に向かって呟いて、もう一度目を閉じてみるものの、結局二度寝はできなかった。
……今日は由美ちゃんと約束があったな。もう起きて準備でもするか。
俺はのそのそとベッドから這い出ると、まだ暗い家の中を重い足を引きずるようにして移動する。
冷たい水で顔を洗っても、頭はぼんやりとしたままではっきりしない。
体中が重くて、俺は鉛か何かにでもなってしまったようだった。
ぼんやりとしたまま朝食にパンをつまみ、ひとまず腹を満たす。
空腹感はあったはずなのに、少し食べただけで喉を通らなくなった。
家族も起きてこない家の中は随分と静かで、暗くて、寒かった。
俺は
「……寒い」
思わず呟いた言葉はぼんやりと広がって、虚しさだけを返した。
このままだと俺はどこかに落ちていってしまいそうだと感じた。
それはどこまでも暗く、昏い。一度落ちたら二度と光を見ることはできなくて、俺はその暗闇に
理由も分からない焦燥感に駆られて、俺はテレビをつける。映ったのは日曜早朝にやっているアニメだった。
俺も知っているそのアニメでは、登場人物たちが
……どうしてこうも上手く行かないのだろう。全てがうまくいくことはないと知っていても、それでも考えてしまう。
「……って、だめだな、こんな調子じゃ。切り替えてかないと」
軽く頬を叩いて気持ちを切り替える。
うん、少しだけ視界が鮮明になった気がする。
……気がする。
――――
駅に行くと、由美ちゃんはすでに待っていた。
俺は集合時間を過ぎているのかと心配になって腕時計を見るも、時間は集合時間の5分前だ。
「あ、陽介さん! こんにちは」
コートの中に手を入れ、寒そうにマフラーの中に顔を埋める由美ちゃんは、俺を認めるとぱっと表情を明らめた。
「こんにちは。待たせちゃったかな?」
「いえ、あたしもさっき着いたばかりなので」
そう言う由美ちゃんの鼻や頬は赤らんでいる。きっと寒い中で待っていたせいだろう。だからさっき着いたばかりというのは嘘なのだろうと思った。
「中で待ってればよかったのに……」
「だ、だから待ってないですって! ほんとに今来たばかりですよ?」
「だって顔中赤いよ? 相当寒かったろうに」
「……だって、陽介さんに少しでも早く会いたかったんですもん」
「……そっか」
由美ちゃんは楽しみにしててくれたんだな。最初は俺を元気づけるとかなんとか言ってたような気もするけど、俺のことばかり気にして由美ちゃんがつまらないのは嫌だったから、ちょうどいい。
「陽介さん、もしかして迷惑でしたか? あたしがデートに誘ったの……」
「え、なんで?」
「だって陽介さん、暗い表情してるから」
俺が由美ちゃんが楽しそうでよかったと思うのと同時に、由美ちゃんは真反対のことを考えていたようだ。
俺は由美ちゃんを安心させるように笑みを浮かべて見せる。
「そうかな? 寒かったから表情が硬いのかも」
「……そうですよね! 確かに最近すごく寒いですもん! ほら、早く中入りましょ!」
由美ちゃんは安心したように笑みを浮かべると、駅舎の中に入っていく。
……あんな嘘で誤魔化せたはずがない。俺がうまく笑えていたはずがない。なのに由美ちゃんは……。
駅舎に入ると、多少寒さが和らいだ。
暖房こそついていないが、風がないだけで随分と違う。
ベンチに座ると、俺は
隣を見ると由美ちゃんも同じようにしていた。
「あはは……、やっぱり寒いですね」
「でしょ? いったいいつから待ってたの?」
「えっと、30分前くらいですかね」
「え!? 30分も待ってたのか……。言ってくれれば早めに行ったのに」
「それはあたしの都合ですから、陽介さんに早く来てもらうのは申し訳ないです」
「そうは言うけど……」
この寒い中、外で30分も女の子を待たせていたんだ。温かいジュースを買ってあげるとか、何かしないといけない気がする。
そのことを由美ちゃんに伝えると、彼女は少しの間考える素振りを見せる。
やがて面白いことを思いついた少女のような目をして、言うのだ。
「じゃあ陽介さんの手を貸してください!」
「え? 手を貸すって、何に?」
「だからっ、手を出してください」
言われるがままに手を差し出す。ポケットから出した手は、外気の冷たさにさらされる。
しかし、その冷たさはすぐに去っていった。なぜなら小さな手が俺の手を包み込んでいたからだ。
「えへへ……。陽介さんの手、あったかいです」
「えっと……?」
「こうしてあたしの冷えた体を温めてもらうんです。……ちょっと、恥ずかしいですけどっ」
そうして笑う由美ちゃんの顔は、さっきより赤らんで見えた。
――――
到着したそのカフェは、なんだかただの民家のように見えた。家の基調になっているライムブルーの塗装は、ところどころ剥げ掛かっていて、なんだかくすんで見える。
少し尻込みしてしまう俺をよそに、由美ちゃんは物おじせずに中へと入っていく。
由美ちゃんに続いて踏み込んだ扉の先は、別世界のように温かかった。その温かさとは単純な温度でもあり、また光の具合でもあった。
いくつかの机が置かれた座敷は、三方を大きな窓で囲われていて、そこから惜しみなく光を取り入れているのだ。
お好きな席にと言われるままに、俺たちは座敷に上がる。
古民家を改装して作られたような温かみのある店内は、外から見た寂れ具合に似つかず、安心感を与えてくれる。
ちゃぶ台のような机の前に座ると、窓辺に手作りのぬいぐるみや、透明な瓶に差した何かの植物が置いてあり、なんだか俺がこの場にいることが似つかわしくないような気がしてくる。
「さて、陽介さんはなに頼みます?」
対面に座る由美ちゃんは、そんな俺の気を知ってか知らずか、楽しそうにしている。
俺もそうしなくてはと思い笑みを浮かべるのだが、どうにもぎこちないような気がしてならない。今日一日そうして自分をだますたびに、罪悪感のようなものが俺の胸の奥に溜まっていく。
電車に乗って街に繰り出し、由美ちゃんが行きたいと言っていた服飾店に行ったり、本当はだめなのだろうが公園の猫に餌をやったり。そんなふとした瞬間に向けられる由美ちゃんの笑顔に笑みを返すとき、うまく笑えているのだろうかと心配になった。
由美ちゃんがせっかく気を使って俺を元気づけようとしてくれているのに、俺は心から楽しんで笑っていられない。それが申し訳なくて、自分が嫌になると同時に罪悪感を感じるのだ。
「……陽介さん?」
「あ、あぁ、ごめん。ここって何がおすすめなの?」
「あたしも分かりません! ここ来るの初めてなので」
「あれ? そうなの?」
「そう言ったじゃないですか~!」
「そ、そっか、ごめんごめん。はは……」
「……。じゃああたしはこのケーキセットにしますっ! なんか一番写真がおっきいので!」
由美ちゃんは楽し気にそう言ってメニューのケーキの写真を指さす。しかし、その前に見せた寂しそうな笑みが、由美ちゃんの本当の気持ちを表しているのだと思った。
由美ちゃんはチョコのケーキと紅茶のセットに決めたようだ。
結局俺も由美ちゃんと同じセットに決め、せめてケーキだけは違うものにしようとモンブランにした。
「陽介さん、前より苦しそうに見えます。また何かあったんですよね」
注文したセットが届くまでの時間で、由美ちゃんはそう問いかける。
いや、それは問いかけではない。確認だ。分かり切っていることに対する確認だった。
「……そうだね。聞いてくれるかな?」
ここまで恥をさらして、情けない姿を見せて。それでも俺の前で笑ってくれるこの子になら、俺の弱さも、
「はい。あたしでよければいくらでも聞かせてください」
そう微笑む由美ちゃんに、俺はただ弱々しく頷くのだった。
それからケーキセットも届き、由美ちゃんに雪芽に拒絶されたことを話すと、しばらく由美ちゃんは神妙な面持ちで黙り込んでいた。
「それは、辛いですね」
やがて呟くようにそう言う由美ちゃんは、悲しげな目をして俺の目を見つめた。
「仲の良かった人に拒絶される辛さは、あたしも分かりますから。自分の何が悪かったんだろうって、どうしたらまた仲良くなれるのかなって、不安になる気持ちが」
「それって、晴奈との……」
由美ちゃんは返事をする代わりに寂しそうに笑った。
しかし、その後すぐにその笑みを穏やかなものに変え、続ける。
「でも結局あたしの場合、原因はあたしだけじゃなく晴奈にもありましたから、あたし一人が頑張ってもどうにもならなかったんですけどね」
晴奈と由美ちゃんがギクシャクしていたのは晴奈の罪悪感が原因だった。由美ちゃんが大変だったときに手も差し伸べられなかった自分は、果たして親友と呼べるのか。そんな気持ちが由美ちゃんを遠ざける形になったのだと。由美ちゃんは話してくれた。
もし雪芽が俺を拒絶した理由が雪芽にあるとしたら、その原因を俺が取り除くことはできるのだろうか。それすらもお節介だと拒絶されるだろうか。
「だからあまり思い悩まないほうがいいと思います。人と人との関わりは、自分だけじゃどうにもなりませんから」
「大人みたいなことを言うんだね。俺なんかよりよっぽどしっかりしてる」
「そ、そんな! あたしが大人っぽくて魅力的だなんてっ、言い過ぎですっ!」
「うん、まぁそこまでは言ってないからね」
恥ずかしそうに頬を押さえる由美ちゃんを、俺は温かい気持ちで見つめていた。
あぁ、全くこの子は、どこまでも優しい子なんだな。真剣に俺の話を聞いてくれて、それでいて重い空気になりすぎないように冗談を織り交ぜてくれて。
そんなに気を使ったら疲れてしまうんじゃないかとも思う。最近俺は悩みを相談してばかりだから、由美ちゃんの負担にはなってないか心配だ。
「由美ちゃんはさ、今日一日俺といて楽しかった?」
でも、そんな俺の不安を笑い飛ばすかのように、由美ちゃんは言うのだ。
「はい! とっても楽しかったですよっ!」
その笑顔が心からそう思ってくれているような、温かくて優しいものだったから、俺も自然と顔がほころぶ。
「……そっか、ありがとう」
この時きっと、俺はちゃんと、普通に、笑えていたのだと思う。それは雪芽に拒絶されてから初めて浮かべた、心からの笑みに違いない。
だって、こんなにも胸が温かい。こんな気持ちでの笑顔が、本心でないわけがないのだから。
それから俺たちは帰ることになり、街を後にした。
電車の中で交わされる途切れ途切れの会話は、不思議と心地よく、落ち着けた。
そんな風に思えるほど、俺は持ち直してきているのだろう。まだ吹っ切れたわけじゃないし、雪芽との問題が解決したわけじゃないけど、それでも少しましになった。
「あっ……。駅、着いちゃいましたね」
「うん、降りようか」
ドアを開け、温かい車内から寒いホームへと降り立つ。
振り返って由美ちゃんを見ると、彼女はまだ電車の中で足元を見つめていた。
「由美ちゃん?」
由美ちゃんは顔を上げるとなにか言いかけて口を閉ざす。
そして、焦れたように発車の笛の音がホームに鳴り響いた。
「由美ちゃん!」
慌てて未だ車内にいる由美ちゃんの手を取り、ホームに引っ張る。
なされるがままに由美ちゃんはホームに降り立ち、それを待っていたかのように電車のドアが閉まった。
電車から降りた勢いのまま、由美ちゃんは倒れ込むように俺の腕の中に収まった。
「危なかった……。次の駅まで行っちゃったら戻ってくるのに1時間かかるとこだったよ?」
「すみません、あたし……」
ゆっくりと由美ちゃんを離すと、由美ちゃんは離れることが名残惜しいかのように手を伸ばした。
その手はやがて掴むものを見失い、パタリと落ちていく。
「……どうかしたの?」
そう訪ねても、由美ちゃんは俯いたまま一言も発しない。
電車の中で温まった体が冷え始めたころ、由美ちゃんは意を決したように顔を上げると、口を開いた。
「あたし、あと少しだけ陽介さんと一緒に居たいです……。ダメ、ですよね……?」
その目は不安げに揺れていて、今すぐにでも発言を撤回してしまいそうだった。
でもそんなことなら、そう不安になることもないだろうに。
「いや、そんなことないよ。別にこの後急ぎの用事があるわけでもないし。ここは寒いからひとまず中に入ろう」
「……! ほ、本当ですか!? やったっ!」
何がそんなに嬉しいのか、由美ちゃんは今にも飛び跳ねそうなほど喜んでいて、見ているこちらまで嬉しくなる。
しかし、もう少し一緒に居たい、か。俺は自分のせいで由美ちゃんが楽しんでいられたかと心配していたが、やっぱり杞憂だったみたいだな。
それから駅舎の中に入り、二人並んで座る。
しかし、もう少し一緒に居たいと言うだけで、これと言って話をするわけでもなかった。電車の中にいた時のように、ポツリポツリと何か話題が浮かんでは、すぐに消えていった。
しばらくそうして時間が経つのを感じていると、あっという間に日も落ちてきた。
そろそろ帰らなくてはという考えが頭をよぎる。しかし、その前に一つ言っておきたいことがあった。
「由美ちゃん、今日はありがとう。俺、すごく落ち込んでたんだけど、由美ちゃんに話聞いてもらって少しましになったよ。また明日から頑張っていこうって思えた」
「そんな、あたしは別に何もしてませんよ」
「ううん、俺は由美ちゃんの優しさに助けられてばっかりだ」
隣の由美ちゃんに視線を投げると、由美ちゃんは慌てたように首を左右に振った。
「あたしなんて全然っ! 陽介さんの方が優しいです!」
「いや、そんなことはないよ。……ははっ、前にも言ったと思うけど、そんなに優しいと由美ちゃん、勘違いされちゃうよ?」
冗談交じりにそんなことを言う。冗談が言えるほど俺は立ち直れてきているのだと驚いた。
しかし、由美ちゃんはその冗談には何も言わず、俯く。
あ、あれ? 俺何かまずいこと言ったかな? そういえば前同じこと言った時もなんか微妙な反応してたような気がするし、もしかして触れてほしくない所だったのかな?
「……別にいいです」
「え?」
俺が謝ろうと口を開きかけた時、由美ちゃんが先んじてそう言った。
「勘違い、されても構いません」
「……い、いや、ダメでしょ? だってそんなことになったら好きでもない男子たちから言い寄られて大変じゃないか」
「違いますよ」
そして由美ちゃんは俯いていた顔を上げる。
その表情は今まで見たこともないほどに真剣で。でも瞳の奥は不安げに揺れていた。
あぁ、由美ちゃんは今から何かとても大事なことを言うんだ。それだけは確かに伝わってきた。
「あたし、陽介さんになら勘違いされても構いません」
「え……? それって……」
俺の呟きに、由美ちゃんは恥ずかしそうに頷く。
せわしなく動く視線と、紅潮した頬に、軽く噛まれた下唇。
そんな落ち付かない様子を抑え込むようにきつく拳を握ると、由美ちゃんはまっすぐに俺の目を見つめて言った。
「だってあたし、ずっと前から陽介さんのこと、好きですから」
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