第90話 後輩の毒は時に薬になる
あれから数日が経った。あんなことがあってからも学校はいつもと変わらないふりをして続いていく。
でも実際、何も変わっていないのかもしれない。広瀬に特に入れ込んでいない連中や、俺に興味がない連中は俺を見かけても何か言うわけでもなし、あっても
だから、大きく変わったのは広瀬を慕っている連中からの態度や視線だろう。そのほかはそんなに変わっていない。
「あ、陽介……。おはよう」
「……ああ、おはよう」
……いや、雪芽たちの態度も、以前とは変わっている。どこかよそよそしいというか、なんだか気まずくてうまく会話が続かない。
それでも毎日同じ学校に通うのだから、こうして駅で顔を合わせなくてはいけない。時間をずらそうかとも考えたが、一本前は夏希と出くわすし、一本後は1限に遅刻するからできなかった。
雪芽が電車をずらせばいいのだが、どうやら雪芽にそのつもりはないらしい。
今も何かを言いたげにこちらをちらちら見ては、目が合うと逸らす。そんなことがここ数日続いていた。
そんなことだから、電車を待つ時間が気まずくて、俺はいつも発車の直前に駅に来るようになっていた。
前までは少し早く来て雪芽の様子を見る時間だったのに。
そうして二人、会話もないまま電車に揺られていく。
それから雪芽と別れて自転車で学校に向かっている少しの間、俺は後悔するんだ。何をやっているんだろうって。
俺は雪芽との関係を維持しないといけないのに、こんな風に会話もできないようになってしまった。これじゃあまたいつ悪夢が始まるか分かったもんじゃない。
……分かってる、このままじゃいけないって。でも、以前のようには振る舞えない。
気にしてない、確かに俺が悪かった。そう言えればいいんだろうけど、口を開こうとした一瞬にふと頭をよぎるんだ。雪芽たちに突き放されたこと、俺の想いが伝わらなかったことが。
それに、未だに何がいけなかったのか、どうして夏希や隆平が怒って雪芽が悲しそうなのか、俺には分からない。
学校につくと、教室に向かうまでの少しの間でいくつもの視線にさらされる。それは興味であったり侮蔑であったりと様々だったが、学校中から向けられる視線に、俺はやっぱり気まずくなる。
6人抜きの噂が流れた時も俺は他人の視線なんて気にもしなかったのに、なぜだか今は気になる。どうしてだろうか?
教室につくと雪芽はすでに来ていて、俺の隣の席に座っている。
見れば夏希が一緒にいるようで、俺が近づくと二人は俺を一瞥したのちに目を逸らした。
隣の席との間にある少しの距離は、以前と何も変わらないはずなのにずっと離れて見えた。
「陽介、おはよう」
俺が席に着くと、夏希はじっとこちらを見つめたまま挨拶をした。
その口調や表情からは、以前と何も変わらないように見える。
「ああ、おはよう」
それでもどこか気まずい雰囲気なのは、俺の気持ちのせいだろうか。
夏希は最近まで怒って口もきいてくれなかった。最近はこうして挨拶もしてくるし、話しかけても来るけど、以前のようにはいかない。
隆平はあの事があった翌日から俺に声をかけてくれていたけど、やっぱり以前のようにはいかなかった。
雪芽とも毎朝電車で一緒になる程度だから、俺は独りでいることが多くなっていた。
いや、きっと以前のようにいかないのは俺のせいなんだろう。あいつらに突き放された、非難されたって気持ちがずっと残っている。
まるでシャツについたソースのシミみたいに、小さくてもずっと奥深くまで染み込んで、消えない。
この気持ちは間違いだって、分かっているのに。俺が自分で選んだことなんだって、そう言い聞かせているのに、そのシミは消えてくれない。
――――
そうして一人で過ごす学校は、いつもよりずっと早く過ぎた。
あっという間に昼休みになり、俺は飲み物を買いに自販機へと足を向ける。
時折聞えて来る俺への嫌味を気にしなければ、とても静かなものだ。数日経った今でもまだ、広瀬のファンたちからの嫌がらせのようなものは続いているけど。
男子たちはそこまで酷くない。まだ敵意のこもった視線を向けては来るけど、広瀬が俺を許したということで、絡んでくるような奴はもういない。
しかし、女子はそうもいかなかった。敵意のこもった視線はもちろんのこと、俺に聞こえる様に俺を非難したり、俺のロッカーの前に立ちふさがったりと嫌がらせのようなことが続いている。
幸い持ち物をどうこうされたり、恐喝や暴行なんていうのはされてないが、学校中どこに行ってもこれではさすがに参ってくる……。
そう、噂は学校中に広まっていた。6人抜きの噂が学年を超えて広まっていたことを考えるとなにも不思議はないのだが、広瀬のファンが他学年にもいたというのは驚きだった。
おかげでこうして自販機に飲み物を買いに行くだけで一苦労だ。学年問わず敵意を向けられては心休まる時なんてありはしない。
「先輩」
俺が自販機でジュースを買っていると、後ろに人の立つ気配があった。
かけられた声は女子のものであったが低く、怒っているような雰囲気がする。
あぁ、ついに来たか。いずれ広瀬のファンの女子たちが何か言ってくるだろうと予想はしてたけど、いざそうなるとどうしたらいいか分からんな。言い訳しても余計相手を逆なでするだけだろうし、黙って撤退がいいかもしれない。
そう思って振り返ると、そこには見知った顔があった。
「杉山……?」
「……なんですか、その珍獣を見るような目は」
俺よりも頭一つ分くらい背の低い後輩は、以前と変わらず俺に軽蔑のまなざしを向けている。
「いや、珍しいだろ? 杉山が俺に話しかけて来るなんて。今は見ての通り夏希はいないぞ?」
「そんなの分かってますよ。私だって先輩に話しかけたくて話しかけているわけじゃないですから。これもそれもどれも、すべて夏希先輩のためです」
「お、おう、そうか」
戸惑う俺を避けて、杉山は後ろの自販機を物色する。
そしてミルクティーを指し示すと、俺の方を見て頷いた。
「私はこれで」
「おう、そうか。買えばいいんじゃないか?」
「何言ってるんですか、先輩が
「はぁ? なんで俺が奢るんだよ」
「私が後輩で、先輩と話をするからです」
「ちょっと何言ってるか分かんないんだけど……」
意味が分からない俺に対して、杉山は盛大にため息をつく。
そして呆れたように俺を睨んで一言。
「可愛い後輩の私が、いよいよ存在が風前の灯火の哀れな先輩の話を聞いてあげるって言ってるんです。ジュース一本くらい奢るのが筋ってもんでしょう?」
「なんじゃそれ……」
それでも杉山はかたくなに譲らなかったので、仕方なく自販機に小銭を入れる。
すると杉山はすかさずあったか~いミルクティーのボタンを押し、拾い上げたそれを大事そうに両手で抱えた。
「ほぅ……。ここじゃ寒いですから、吹部の部室に行きましょう。すぐそこなので」
杉山がミルクティーのカンを持った手に吐きかける息は白く、確かに寒い。
この場所は屋外とつながっているから、外気温と一緒なのだ。多分一桁台の温度だろう。
「それには賛成だけど、杉山はもう飯食ったのか?」
「これからです。部室にお弁当あるので」
「俺もまだでさ、教室まで取りに行っても――」
「だめです」
「……あぁ、そう」
そうして俺は半ば連行される形で吹奏楽部の部室まで杉山についていく。
部室は自販機がある場所から少し行ったところで、音楽室も兼ねているところだ。
中に入ると女子生徒が2人、お弁当を広げており、杉山と俺を認めると驚いた表情を浮かべた。
「あれ? その人千秋の彼氏?」
「嘘!? 千秋に彼氏いたの!?」
「違うからっ! こんな虫けら以下の人間が恋人だなんて想像しただけでも吐き気がする!」
いつものように俺のことは虫以下の扱いだけど、どうやら彼女らは杉山の同級生、つまり1年生のようだな。
というより俺のことは体育祭の時に虫程度だって認めてくれてなかったか? いや、それでもだいぶひどいけどさ……。
「うわ、千秋がそんなにムキになるなんて珍しい。やっぱりそういうことなんじゃないの~?」
「ね~? 彼氏さん! 馴れ初めは?」
「いや、本当に違うから。私が好きなのは夏希先輩だけだから!」
「そうは言うけどさ~?」
尚も食い下がる女子たちを適当にあしらって、杉山は奥の部屋へと続くドアを開けた。
杉山が俺に入る様に勧めると、またも女子たちが
「あれ? そういえばあの人って噂の……?」
「あ、広瀬先輩ともめたっていう?」
ドアが閉まる寸前、彼女たちのそんな会話が聞こえてきた。
……そうか、あの事に興味のない人たちでも噂は知っている。広瀬の知名度に比例するように俺の悪評も広まっていくというわけか。
「なに突っ立ってるんですか。早く座ってください」
思っていた以上に事態は深刻なのかもしれない。そう思って考え込んでいると、杉山が焦れたようにそう言った。
見ると杉山はすでに椅子に座っていて、机の上で弁当を広げている。
しかし見渡しても近くに椅子らしきものはない。どこに座れと言うんだ?
「椅子ないんだけど?」
「は? 先輩なんて床で十分ですよ。床に座ってください」
「いや、それだとお前のパンツ見えちゃうぞ?」
冗談のつもりでそう言ったのだが、杉山はまるで汚物を見るような目をして若干身を引く。
「うわ、気持ちわるっ! セクハラまでしたら存在価値がないどころか存在自体が悪ですよ! 人類の敵です!」
「悪かったよ、冗談だって! ちゃんと見えない位置に座るから」
「いえ、そこの裏にパイプ椅子があるのでそれに座ってください。身の危険を感じるので」
「あるなら最初から言えよ……」
そんなやり取りを経て、どうにかこうにか話が出来そうな状況が整った。
パイプ椅子をとりに行くときにいろいろ目に入ったが、この部屋はどうやら楽器を保管していたり、事務的な作業をする部屋のようだ。さっき通ってきた部屋が音楽室と部活の練習室を兼ねているようなもので、こちらが部室ということだろう。
「それで? 話ってなんだよ」
「違います。私が先輩の話を聞いてあげるんですよ。だから話してください」
「なにを?」
「なんであんな嘘の噂が流れているのかを、です」
杉山は何の迷いもなくそう言った。
俺は驚き、一瞬返す言葉を失う。
「……噂って、どんな噂だよ」
「
どうやら学年を超えると、この前の俺と広瀬のやり取りは上手く伝わっていないらしい。八百長とまでは言われてないみたいだけど。
「それで、どうしてそれが嘘だと思う?」
「先輩はそんなことしないからです」
杉山の言葉に俺は再び衝撃を受ける。
いつもは虫けら以下だ何だとけなしてくる後輩が、俺のことを信頼しているようなことを言った……? い、いったいどういう風の吹き回しだ?
「やけに信頼してくれてるんだな。お前らしくもない」
「別に、先輩をほめているわけではありませんから。夏希先輩の語ってくれる先輩が、そんなことをするはずないって思っただけです。つまり私が信頼しているのは先輩ではなく、夏希先輩ということです」
「あ、そうですか……」
どうやら杉山は結局どこまで行っても杉山のようだ……。まぁ、ぶれないことはいいことだと思うけども。
「先輩は、暗い夜に街灯の下で多くの人の注目を集めるよりも、その隣の暗闇の中で星を眺めているような人だと思います」
「……つまり?」
「自分が目立っているかどうかなんて関係なく、ただ自分にとって大切なものを見つめている人だってことです」
「だからあの噂は嘘だって?」
「はい。先輩は誰かの人気に嫉妬するような人じゃありません」
何かがすっと軽くなるような感じがした。杉山のその言葉に、その瞳に。
いつもは毒舌で俺のことを信頼しているなんて一言も口にしない後輩が、こうして俺を信じてくれている。あんな噂は嘘だってはっきり言ってくれる。
「……っていうのが夏希先輩の話から見えて来る先輩です。私は先輩ならやりかねないなと思ったりもしましたけど、夏希先輩の言うことは絶対ですから!」
「あ、お前が信じてくれてたわけじゃないのな」
「当り前ですよ! 私が信じるのは夏希先輩だけです!!」
……ははっ、やっぱりぶれない後輩だな。
でも、そんなところに今の俺は救われているのかもしれない。
それから俺は今までにあった一連の騒動について杉山に話した。
当然俺の知っている範囲でのことになるから、気が付いたらこんなことになっていた程度の話だが、杉山は興味深そうに聞いていた。
……まぁ、弁当食べながらだけど。
「……なるほど、ようやく夏希先輩の元気がない理由が分かりました」
「元気ないのか? あいつ」
「そうですよ。先輩はここ数日夏希先輩とまともに顔を合わせてないから分からないでしょうけど、私はずっと夏希先輩を見てますから! むしろ夏希先輩以外は視界に入りませんからっ!」
「そうかよ……。それで、なんで元気ないんだよ、夏希は」
俺が尋ねると、杉山はきょとんと首を傾げ、さも当然のように言う。
「そんなの、先輩が自分を犠牲にしたからでしょう?」
「ん……? なんで俺が自分を犠牲にすると夏希の元気がなくなるんだ?」
「そんなことも分からないから先輩はいつまでたっても先輩なんですよ」
「なにそれ、けなされてんの? 俺」
「それ以外に何があるっていうんですか?」
やっぱりこいつ、俺には優しくないのね。
まぁでも、夏希が怒っていた理由は分かった。それがどうしてなのかはまだ分からないけど。
となると、隆平と雪芽も同じことが原因で怒ったり悲しんだりしていたのかな。俺が自分を犠牲にしてあいつらを守ったことが、あいつらは気に入らなかったんだ。
「でも、私は先輩のとった行動は正しかったと思います」
杉山は食後のミルクティーを飲みながら呟いた。
「先輩が自らを犠牲にすることで、夏希先輩たちに及ぶ被害はありませんでしたし。まぁ、夏希先輩を煩わせている時点で万死に値しますが、先輩ではこのくらいが関の山だったでしょうし、今は目を瞑ってあげます」
「つまり杉山は俺の行動を支持するってことか?」
「まぁ、そうなりますね。別に私は先輩を支持しているわけではありません、先輩の行動を支持しているだけです! それに私は夏希先輩が無事なら、先輩がどうなろうと知ったこっちゃありませんのでっ!」
「……ああ、そうだな」
そう言ってもらえるだけでありがたかった。俺のしたことは正しかったんだって、そう認めてもらえるだけで。
夏希たちに間違ってたって言われて、俺は一体何のために、誰のために罪をかぶったんだろうって、ずっと思ってた。
「ほら、もう話は終わりです! 夏希先輩のためじゃなきゃ先輩となんて1秒も一緒に居たくないんですから、早く出てってください!」
「分かった、分かったよ」
羽虫を払うように手を振る杉山は、相変わらず俺を虫けら扱いだったけど、今はそれすら心地よく感じた。
部屋を出ていく直前、俺は言い忘れていた言葉を思い出し、振り返る。
「杉山」
「……なんですか?」
「ありがとう」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする杉山の姿を最後に、俺はドアを閉める。
閉めたドアの向こうで俺のことをドMだ何だと騒ぎ立てる声を無視して、俺は歩き出す。
途中さっきの杉山と同じような顔をした後輩たちに笑顔で頷きかけ、外へ出た。
丁度その時予鈴が鳴り、昼休みの終わりを知らせる。
そして俺は昼飯を食べていないことを思い出し、思わず腹が鳴った。
吹く風は冷たく、思わず首をすくめる。
それでも、俺の心は満たされていた。
腹の中は空っぽでも、風は冷たくても。今まで空いていた穴は満たされて、冷たく凝り固まっていたものが少しほぐれた。
うん、これなら。
「さて、昼飯は食えなかったけど、この後も頑張りますか!」
この後の1日も、来週も、再来週も。前よりも少しだけ、頑張れる気がした。
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