第88話 蜘蛛の糸は地獄に垂れる

 秋が終わり、冬が来る。

 皆の装いはとっくに冬に切り替わり、マフラーや手袋といった暖かそうな恰好をした生徒が目立つこの時季、俺の吐く息は一瞬白くかすんで消えていった。


 あの噂を流してからもう1週間。十分噂は広まった。部活の先輩や後輩の間でも時々耳にするし、学校中に広まったと考えてもいいだろう。

 噂がどのように変化していくかは完全に予想できていなかったが、まぁ概ね許容範囲内だろう。


 俺が流した、陽介がわざとバトンを落として目立とうとしたという噂は、今や陽介が小山さんや隆平、雪芽とグルになって俺からアンカーの座を奪い取り、さらには一緒に走った他のクラスの走者に八百長を持ち掛けていたという噂になっている。


 俺の人気やリレーの選手を決めるときのやり取りからして大体予想していた通りだが、やはり不確定要素が多すぎるのが難点だな。

 噂は人間を媒体として広がる習性があるせいで、個人の主観というフィルターを数多く通すことになる。それに憶測や希望が織り交ぜられ、ありもしない虚像を生み出す。

 まぁ、その不確定な要素が面白い点でもあるんだがな。



「八百長してたってことはリレーの1位は剥奪はくだつとかになるんじゃないの? だって不正してたんでしょ?」

「いや、でも4組の一緒に走ってたやつに聞いた話だと、別に八百長なんてなかったって言ってたぜ?」

「きっと脅されてるんでしょ。グルだって言われてる子たちも脅されてるんじゃないかって噂だよ?」

「まじか、柳澤ってひでぇ奴なんだな」


 ほら、また新しいヒレが追加された。こうして俺の撒いた火種はすっかり大きく燃え上がり、今にも陽介を燃やし尽くさんと勢いを増している。

 クラスメイト、特に俺を崇めている奴らは陽介をだいぶ敵視し始めているし、近いうちに誰かが口火を切るだろう。そしてその火は勝手に大きくなる。だから俺はそれに時々まきをくべてやればいい。



 しかし、拍子抜けだよ陽介。もっと楽しませてくれるかと思っていたのに、これじゃあ全部俺の思い通りだ。やっぱり陽介に期待したのが間違っていたのかな?


 俺はずっと君のことを薄情な人間だと思っていた。自分さえ良ければいい、他人なんて自分には関係ない、そう思っているんだと。

 だから決して俺の敵にはなり得ないと思っていた。誰かから好かれようともせず、人気を得ようともしない。目立つことを何より嫌っていて、面倒なことには首を突っ込まない。俺とはすべてが真逆で、全く違う世界に住んでいると思っていた。


 でも、違った。俺の見解は間違っていた。

 種目決めの時、陽介はリレーのアンカーという目立つポジションを推薦されても、拒絶することなく受け入れた。その時点で俺は陽介への認識を少し改めることになった。あいつはお人好しで、誰かの頼みだったら面倒ごとにも関わることがあると。

 でも、それも違った。




 そう、陽介は自分じゃない、自分と親しい者の安寧を守ろうとしているんだ。そしてその者たちの願いにこたえようとする。




 それが分かったのはリレーで陽介が走った時だった。小山さんのミスをかばって、あいつは秘めていた力を解放した。

 正直驚いたよ。陽介があれほど他人のために本気になっている姿は見たことがなかったからね。


 そして気が付いた。陽介は俺の敵となり得ると。

 なぜなら、陽介の守るべき対象の中に、すでに雪芽が含まれていたからだ。

 雪芽を手に入れようと俺が働きかけ、もし雪芽が拒みでもしたら、その時は陽介が俺に牙をきかねない。



 だから最初は陽介ごと雪芽を取り込んでやろうと考えていた。

 打ち上げに誘ったり、修学旅行で同じ班になったりして、陽介にとって俺も身内になってしまえばいい、そう思っていた。守るべき対象になれば、俺にその牙が向けられることはない。


 しかし、陽介は俺を拒んだ。いや、正しくは雪芽が俺を拒み、それに倣って陽介も俺を拒んだのだろう。

 だが雪芽が俺を拒む原因は陽介にある。


 なぜか、あいつのそばにいる人間は俺を受け入れない。小山さんも俺に敵意を向けているようだし、陽介が何か吹き込んでいるとしか思えない。


 あるいは陽介の周りに集まってくる人間は特別そういうのが多いのかもしれない。陽介からは別段俺に対する敵意のようなものは感じないからな。

 もしくは、そういった敵意を隠すことに長けているのかもしれないけど、あの間抜け面からは想像もできないな。


 何にせよ、悪いのは陽介だ。陽介が雪芽にも悪い影響を与えているから、雪芽はいつまでたっても俺に心を開かない。


 そうさ、これは陽介という呪縛から雪芽を解放してやることでもあるんだ。正義は俺にある。

 ふふっ、待ってろ雪芽。今俺が君を救い出してあげるからね。





 ――――





 そしてその日は、翌日にやってきた。


「ちょっと、それどういうこと?」


 教室の隅で、小山さんの声が聞こえてきた。

 それは怒気をはらんでいたせいかやけに際立って聞えて、クラス中の注目をいっきに集める。


「いや、噂になってるんだよ。柳澤君が八百長してたって……」

「八百長なんてあるわけないじゃない! そんなことして陽介に何の得があるってのよ?」


 よしよし、始まったな。予想通り口火は切られたから、後はトイレに行っている陽介が帰ってくれば、状況はさらに悪化する。



 小山さんの怒気に当てられて、噂をしていた女子たちも声を荒げ始める。

 それはやがて口論に発展し、クラスの連中も何事かと集まり始めた。


 雪芽と隆平はそんな小山さんをなだめているようだけど、もう遅い。小山さんを宥めたところで一度火のついた不満は、容赦なく陽介に襲い掛かる。


「ん? 何の騒ぎだこれ?」


 そして折よく現れたのは噂の当人。

 ははっ! タイミングまでばっちりで思わず笑ってしまいそうだ! 今はその間抜け面でさえ愉快に見えるほどだよ!


 陽介の登場にすっかりボルテージの上がったクラスメイトの視線が刺さる。

 陽介はそれらを一身に受けて、少したじろいだようだ。


「陽介、みんなあんたがリレーの時に八百長したって言ってるのよ! そんなの言いがかりだって言ってやんなさいよ!」

「夏希、まぁ落ち着けって。八百長って何の話だ? 俺には心当たりなんて――」


「嘘! 今学校中で噂なんだからねっ!? 柳澤君が夏希たちとグルになって広瀬君をアンカーの座から引きずり降ろして、さらに一緒に走った人たちに八百長を持ち掛けて1位になったって!」


「そんな……! 陽介はそんなことしないよ!?」


 未だに状況を理解できていない陽介に、女子の一人が食って掛かる。

 あれは……、俺のファンの子だな。あいつらはこういう時にうまく使えて便利だ。俺に全幅の信頼を寄せているし、俺に都合のいい解釈をしてくれるから扱いやすい。


「ちょっとまって、そんな根拠もない噂を――」

「根拠ならある! リレーの選手を決めるときに夏希たちが柳澤君を推薦して、しかも広瀬君がなる予定だったアンカーを強引に奪った! その上わざとらしくバトンパスをミスしたりしてさぁ!」

「いやそれは――」


 さて、そろそろ頃合いか。口火は切られたから、あとはそこに時折薪をくべてやるだけでいい。そうすれば陽介は雪芽を手放さざるを得なくなる。



 俺は静かに椅子から立ち上がり、驚いたような表情を浮かべて群衆に近づく。


 陽介は入り口付近に囲まれるようにして立っていて、それを守るように小山さん、雪芽、隆平が立っている。

 陽介は未だ驚きからか反論もできず、小山さんたちが代わる代わる反論している。

 なんて情けない男なんだ君は。やっぱり俺の敵じゃなかったな。


「お、おいおい、どうしたんだ? 何かあったのか?」


 俺が素知らぬふりで声をかけると、クラスメイト達は待ってましたとばかりに道をあけた。


「広瀬! 今陽介が八百長してたって話を問いただしてたところなんだよ! お前も言いたいことあんだろ?」

「まぁまぁみんな、ちょっと落ち着こうよ! 冷静に話し合おう? ね?」


 俺の一声にクラスメイト達は一度矛を収める。しかしその瞳の奥は不満が燃えたぎっていた。


「えっと、どういう状況なのかな? 説明してくれる?」

「最近噂になってる柳澤君の噂のこと話してたの。リレーの時に広瀬君からアンカーを奪い取って自分が注目を集めようとしてたってこと。しかも一緒に走ってた人たちに八百長まで持ちかけてさっ!」


 俺に事情を説明してくれたのは小山さんと最初にもめ始めた女子だ。

 この子も俺のファンだな。ポイント稼ぎご苦労さんっと。


「あぁ、その噂なら俺も聞いたことあるよ。本当のことなのか?」

「いや、そんなことするわけないだろ。それで俺に何の得があるってんだよ」

「どうせ広瀬に嫉妬したとか、広瀬の見せ場が気に入らないとかそんなところだろ!? 広瀬よりも目立ってやろうとかさ!」


 男子の言葉にクラスメイト達は賛同の声を上げ、再び陽介に言葉を浴びせかける。

 うんうん、これなら俺が誘導しなくても何とかなりそうだな。

 自分の人気は計算に入れているつもりだったけど、ここまでこいつらの中に不満が溜まっているとは思わなかった。いい勉強になったよ。



「柳澤君だけじゃないよ! 夏希や雪芽だって共犯じゃん! 柳澤君をアンカーに推薦したりしてたし!」

「でもあれって陽介に脅されてたって話じゃなかったっけ? 八百長持ち掛けた生徒たちも脅されてたって噂だし」

「ちょっと……! なんで私たちが脅されてるって話になるのよ!?」

「そうだよ! あれは私が勝手に推薦しただけで、陽介は関係ないんだよ!?」


 激高したクラスメイト数人が小山さんや雪芽、隆平を非難し始め、しかしその原因が陽介にあると分かると再び陽介に矛を向ける。


 あぁ、なんて滑稽なんだろう。不満を解消できるなら、矛を突き立てる相手は誰でもいいらしい。


 俺は状況についていけないふりをして、表面上でワタワタして見せる。絶妙にかき消される程度の声量で、落ち着いてと言ってみる。


 さて、もう少し成り行きを見守るとするか。



「じゃあ柳澤君が脅してないとしても、やっぱり4人はグルだってことでしょ!? 広瀬君をおとしいれるためにあんな小芝居までしてさ!」


「違う!」


 クラスメイトの言葉に、初めて陽介が大きな声を出した。

 それは非常に珍しいことだった。俺の記憶する限り、この高校に来て陽介が声を荒げて怒るというのは初めてだと思う。

 それだからクラスメイト達は一斉に口を噤んでしまい、じっと陽介の次の言葉を待っている。


「……雪芽たちは関係ない。俺が指示したなんてこともない」

「じゃあどうして陽介がリレーのアンカーになるように推薦なんてしたんだよ?」

「そうだよ、柳澤君が指示したわけじゃないっていうなら、主犯は雪芽たちなんじゃないの!?」


 一人の女子がそう言うと、まさにそれが正しいとばかりに他の生徒たちも口々に賛同の声を上げる。

 小山さんがもともと俺に反抗的だったことなんかを上げて、まさにそうだと騒ぎだした。



 ……まずいな、これは予想外の展開だ。小山さんや隆平はともかく、雪芽が叩かれるのはまずい。

 しかし、これもまだリカバリー可能だ。むしろ好転させられると言っていい。


「まぁまぁ! みんな落ち着いてって! いろんな憶測が飛び交っているようだから、一度状況を整理しよう! それでいいよね?」


 俺が声を張り上げてみんなを見回すと、クラスメイト達は一同に頷いた。


「よし、じゃあまず陽介に聞くけど、八百長したっていうのは本当なのか?」

「違う。八百長なんてやっても俺に得なんてない。疑うなら一緒に走ったやつらに聞いてみるといい」

「そうか、じゃあ脅してたっていうのも嘘なのか?」

「ああ、脅してなんてない。そんなことする必要はないからな」

「なら4人はグルだっていうのは……?」

「それも違うって言ってるだろ。雪芽たちは関係ない」


 これらは否定されても問題ない情報だ。

 そしてここからが本番。俺の予測が正しければ、陽介はこの質問にと答える。




「それじゃあ陽介がリレーに推薦されたりしたのは小山さんたちがやったってことなのかな?」


「それは……」




 陽介が一瞬言葉に詰まったそのタイミングで、教室のドアが開かれた。


「お前らなにやってんだ? もう授業始まるぞー」


 ……ふん、山井田か。なんてタイミングの悪い奴だ。

 まぁいい、プラスに考えよう。これで俺が陽介に仕込みをする時間が得られた、そう考えればいい。


「……さあみんな、ひとまずここは授業が優先だ。この話はまたあとにしよう」


 仕方なく声をかけ、みんなを席につかせる。

 陽介たち4人は険しい表情を崩さず、しかしそこにもどこか安堵の表情を浮かべているように見えた。


 ふふっ、安心するには早いよ陽介。これはきっかけに過ぎない、まだ事は始まったばかりなんだからね。





 ――――





「陽介、少しいいかな?」


 授業が終わった後の休み時間。俺はクラスメイト達の注目を集めながら陽介に声をかけた。

 隣の席の雪芽は俺を睨み付ける様に視線を送ってくるので、敵意はないと両手を上げて見せる。


「騒ぎになっていただろ? 大勢いたんじゃろくに話もできないし、俺が代表でいろいろ事情を聴こうと思ってさ。どうだろう?」

「……ああ、その方がいいかもしれないな」

「よかった! じゃああまり人のいない所まで行こうか」


 陽介は先ほどまでの騒ぎを思い出したのか、雪芽にチラリと視線を投げると頷いた。


 ……やっぱりな。雪芽たちを巻き込みたくないってことだ。これなら俺の仕込みもうまく機能しそうだな。



 それから俺は陽介を引き連れて人気ひとけの少ない体育館裏までやってきた。

 さすがに15分の休み時間じゃこの辺まで人が来ることは珍しいな。


「さてと、それじゃあ一から事情を説明してくれるかな?」

「あぁ、俺にも何が何だかさっぱりだが――」


 それから陽介の説明してくれたことに、俺はしきりに相槌を打ったりしていたが、正直に言って無駄な時間だと思った。

 全部言いがかりで訳が分からないって、そりゃそうだろう。全部俺が流した嘘の噂なんだから。

 それでも陽介の言い分をしっかりと聞いてやること5分。随分時間を使わされたな。



「なるほどね。それは災難だったとしか言いようがない……。俺もそんな噂は信じられないと思っていたところだよ」

「そりゃどうも」


「だけど陽介、クラスの皆の様子を見る限りだとこの騒ぎはすぐに治まりそうもない。さっきだって陽介が反論してもみんな聞く耳を持ってくれなかっただろう? みんなの気持ちが落ち着くまで何を言っても逆効果になりかねない」


「それは……、そうかもしれないけど」


 そこで俺はにやけそうになる口元を必死に抑え、爽やかな笑みを浮かべる。




「そこで俺から提案があるんだ。池ヶ谷さんたちには被害が及ばず、かつこの騒ぎをすぐに治める方法がね」




 陽介が顔を上げる。その瞳には光が宿っていた。

 それは希望の光と言う奴だろう。俺が幾度となく見てきて、応えてきてやった光。

 今回も応えてやるさ。でも陽介、その光がいつまで持つか見ものだな。



 俺の提案を聞いて陽介は驚きも、戸惑いも、拒絶もしなかった。

 ただ真剣な目をして頷き、それで雪芽たちが無事ならと、そう言った。


 ……ふんっ、またそうやってヒーロー面をする。自分は正義のヒーローだと勘違いしたまま滅んでいくがいいさ。


 俺はそんな考えはおくびにも出さず、笑みを浮かべたまま陽介を教室に帰るよう促す。



 それから教室に帰り、授業を受けた後の放課後。教室は再び殺伐とした空気が流れていた。


「……それで? 結局どういうことなのか説明してもらおうか?」

「そうだね。陽介、結局小山さん、池ヶ谷さん、隆平の3人がグルになって陽介をリレーの選手に推薦したってことなのかな?」


 クラスメイトの声を代表して、俺がこの場を仕切っていく。

 クラスメイトも時間がたって落ち着いてきたのか、いきなり怒鳴るような奴はいない。


「違う。あの3人は今回の件では関係ない」

「じゃあどういうことなのか、説明してくれるかい?」

「ああ」


 俺が目で合図すると、陽介は目を閉じて少し俯き、長く息を吐く。

 そして傍で不満げな表情を浮かべる雪芽たちを一瞥したのち、ゆっくりと口を開いた。




「あれは俺が指示してやらせたことだ。全部俺の責任だ」



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