第85話 鉄仮面の奥は敵意に満ちて
私は白い部屋に立っている。白くぼんやりとしていて、境界があいまいな部屋にただ一人。
いや、これは部屋じゃないのかもしれない。空間、と表現するのが正しい気がする。まるで宇宙のような空間に、私は漂っているんだ。
「――――」
誰かの声が聞こえた。でも、それはまるで水の中から聞く声のようにくぐもっている。
男か女かも分からないその声は、私に何かを語りかけているようだった。
目を凝らしてみると、人影のようなものが見えた。しかし、そのシルエットからでは男女の区別はできそうにない。
……あれ? こんな光景を前にも見た気がする。あれはいつで、どこだったっけ?
私はこの人に何かを尋ねられて、それでその問いに答えたはず。私は何を聞かれて、何を答えたんだっけ?
考えてもその答えは出ない。まるでまどろみの中にいるかのように、思考はまとまりを失ってしまう。
そんな中にいても、人影は私に何かを尋ねた。そして私の口がその問いに答えようと開きかける。
「私は――」
そこで私は目を覚ました。耳をつんざく甲高い電子音に、思わず眉をしかめる。
スマホの画面に触れてその音を消すと、時刻はもう6時半だ。
……なにか、夢を見ていた気がするんだけど、何だったかな? 目を覚ました直後には覚えていたと思ったんだけど……。
私はつかみどころのないモヤモヤを抱えたまま、ベッドから半身を起こす。
大きく開いた布団の隙間から、ひんやりとした冷気が流れ込んでくる。そんな寒さに思わずもう一度布団にもぐりこみたくなる衝動を抑え、私はベッドから足を降ろした。
充電器を引き抜いたスマホには、この間撮った紅葉狩りの写真が映し出されていた。なっちゃんも晴奈ちゃんも由美ちゃんも、みんな笑っている。
陽介が撮ってくれたから肝心の彼が写ってないのは残念だけど、それは別の写真で補える。
私はカメラのフォルダーを開き、一枚の写真を選択する。
そこには優しげな微笑みを浮かべる陽介が写っていた。お弁当を食べている時にこっそり撮ったものだ。
この陽介の優しい微笑みが、私は大好き。彼の優しさが溢れているような気がするから。
「おはよう。……なんちゃって」
思わずにやける顔を両手で抑え、私は立ち上がる。
おはようはちゃんと顔を見て本人に言わないとね。そしたらきっと、陽介はあの写真のように微笑んでくれるから。
「うん、今日も体調は絶好調! いい一日になりそう!」
私は大きく伸びをすると、制服に着替え始めるのだった。
――――
その日の学校は、来週に迫った期末テストの話題がそこかしこで飛び交っていた。
授業の度に先生方がテスト範囲を教えてくれたり、対策のプリントを配ってくれたりして、あたりはテスト一色に染まっている。
「はぁぁ、テストかぁ……」
ここにも一人、テストを憂いてる人がいる。
私の隣の席で頭を抱える陽介は、各教科のテスト範囲を見て愕然としている。
「また私がテスト勉強付き合ってあげるから」
「あぁ、そうしてくれると助かるよ……」
本当に助かったという表情をする陽介を見て、私はなんだか嬉しくなる。
陽介には学校のこととかいろいろ助けてもらってばっかりだったから、こうして少しでも力になれることが嬉しいんだ。
逆に言えば、こんなことでしか力になれないことが悔しくもあるんだけど、もし陽介が大変な目に合うようなことがあれば、その時はちゃんと力になってあげたい。
「じゃあ私も教えてあげよっか」
「夏希とは教科が違うだろ? 雪芽に教えてもらうからいいよ」
「ちょ、なによそれ!? 人がせっかく……」
「そうだよ陽介。私一人じゃ全部は教えられないんだから、なっちゃんにも一緒に教えてもらえるところは教えてもらわないと!」
「むぅ、それもそうか……。じゃあ頼む」
「あんたねぇ……!」
調子のいいことを言う陽介に、なっちゃんはちょっと怒ったみたい。それでもきっと親切丁寧に教えてあげるんだろうから、二人の信頼関係ってすごいなぁ。
……私も、負けてられないかもっ!
「それじゃあ平日の間はそれぞれで勉強してみて、土日にみんなで集まって分からない所を教え合うって形にしよっか」
「それ賛成! ユッキーはさすがねぇ。私じゃそんなこと考えつきもしないわよ」
「そうだよなぁ。俺もテスト前夜になって慌ててやるか、むしろ諦めてゲームするかの二択だし」
「いや、陽介と一緒にしないでくれる?」
そんな二人のやり取りに、私は思わず吹き出す。つられてなっちゃんも笑いだして、陽介だけが訳が分からないと言った表情を浮かべている。
「どうした? また陽介がおかしなこと言ったの?」
笑っている私たちの元に塚田君が現れて、陽介の肩に手を置く。
そんな塚田君を、陽介は
「ちげぇよ。テスト勉強のこと話してたんだ。……そうだ、隆平も一緒にテス勉するか? 今度の土日に夏希や雪芽とやろうって話してたんだ」
「いいんじゃない? 隆平は私と受ける教科一緒だし、私としてはありがたいけどね。ユッキーはどう?」
「私も別にそれで構わないよ」
塚田君とは学校ではよく話すけど、一緒に遊んだりしたことはないな。塚田君はこの辺に住んでるって話だし、私たちの家の方まで来ると大変っていうのもあるんだろうけど。
陽介の話でも塚田君とは休日も一緒にゲームをするくらいで、直接会って遊んだりすることはないみたいだし、男の子ってそのくらいが普通なのかな? 私は友達とは直接会って一緒に遊びたいって思っちゃうんだけど。
「池ヶ谷や夏希と一緒ってことは、陽介の家か何かでやるんだろ?」
「そうなるだろうな」
「うーん、ちょっと遠いけどたまにはいいか。じゃあ俺もお邪魔させてもらおうかな」
「お! なによ隆平、今日はノリいいじゃない」
「そうかなぁ? いつもこんな感じだと思うけど」
よっぽど塚田君と学校以外で会うのは珍しいのか、なっちゃんも心なしか嬉しそう。
そんななっちゃんを見て、塚田君ははにかむ。
……やっぱり、そういうこと、だよね? 塚田君って仲良くなってまだ日が浅いから確信は持ててないけど、もしかして塚田君はなっちゃんのこと――。
……いや、今はそんなこと詮索しなくてもいいよね。もしそうだからってなっちゃんが陽介を諦めるなんて考えられないし。
ふふっ、そんなことを考えるなんて、私もちょっと悪い子になっちゃったのかも。私のこんな一面を知ったら、陽介はなんて思うかな?
でも、案外そういう一面が決め手になったりするのかも。なっちゃんとライバルになったのはいいけど、陽介とは何も進展なしだし。
夏休みの時は花火大会に二人で行こうって言っておいてさ、あれから何もないんだもん。どこか行くときや何かするときはいっつもなっちゃんや晴奈ちゃんたちが一緒だし。
なっちゃんたちが邪魔ってわけじゃないけど、たまには前みたいに二人っきりでどこかに出かけてもいいじゃん……。
チラリと陽介の顔を盗み見ると、さっきまでの意気消沈した様子はもうなくて、楽しそうに塚田君達と話している。
……陽介が私のことをどう思っているのか、知りたい。
陽介はいつも私に優しいし、私が倒れた時だってすぐに駆けつけてくれて、私が困っていれば真っ先に手を差し伸べてくれる。
それは親友だから? それとも少なからず私のことを……?
あ~もうっ! 私には陽介のことがよく分かんないよ。こんなことなら親友だなんて言わなきゃよかった! 確かに二人の関係は深まったかもしれないけど、私の望む関係からは遠ざかってる気がするもん!
「やあ テストの話かい?」
私が一人悶々としていると、広瀬君がやってきた。
最近広瀬君がよく私たちに話しかけてくる。というより私に、かな? 転入したての頃も時々気にかけてはいてくれたけど、最近輪にかけて多い気がする。
私はこの人があまり好きじゃない。そんなことを言ったらせっかくの親切を無下にするみたいで申し訳ないけど、広瀬君の優しさは陽介のそれとは大きく違う気がする。
陽介は、なんだろ……、私が困ったときに手を差し伸べてくれる、そんな優しさなんだけど、広瀬君のは私の腕を強引に引っ張っていくようなものの気がする。
例えるならそうだなぁ……。陽介は私が重いって言ったらバッグを持ってくれるけど、広瀬君は私からバッグを奪い取って、「重いでしょ? バッグ持つよ」という感じかな。そんな強引さを、彼からは感じる。
なっちゃんも広瀬君のことをよく思ってないみたいだし、私もそれに影響されちゃったのかな? この前だって陽介のこと悪く言ってたって言うなっちゃんの言い分に、私も納得できたし。
広瀬君はそんな私の
そんな微笑みに、私はそっと視線を逸らした。
「ああ、この土日にテス勉をしようって話してたんだ」
陽介が広瀬君の質問に答えると、広瀬君はちょうどよかったと言って笑みを浮かべる。
「さっき俺たちも話してたんだけど、クラスの何人かで勉強会をしようって話になったんだ。今日からテストまでの平日、学校終わりに空き教室を使ってさ。池ヶ谷さんはこの前のテストでもトップの成績だったんだろう? ぜひ参加してもらえないかと思ってね」
「私、ですか?」
思いもよらない指名に、私は驚き顔を上げる。
「そう。どうだろう? もしよければ陽介たちも一緒で構わないけど」
私としてはあまり行きたくはない。私も勉強する時間がほしいし、まだ他の人に教えられるほどちゃんと理解してない部分も多いし。
「陽介はどうする?」
陽介にそう尋ねてみると、陽介は心底面倒臭そうな顔をして言った。
「これから平日毎日だろ? 俺は遠慮しておくよ。雪芽はどうするんだ? 行きたいなら気にせず行ってもいいぞ?」
「う~ん、じゃあ私もいいかな。まだ人に教えられるほど勉強できてないし」
あぁ、よかった。陽介ならそう言ってくれるって思ってた。
私一人だとちょっと断りづらいけど、先に陽介が断ってくれたから流れですんなり断れた。
「なに、毎日じゃなくてもいいんだ。来れる日でいいんだよ」
でも広瀬君はそれで諦めてはくれなくて、新しい条件を提示した。
私は不安になって陽介を見ると、陽介はさっきよりも面倒臭そうな表情を浮かべて、広瀬君に言い放った。
「それ、行かなかったら
「……そうか」
その一瞬、広瀬君の奥底が見えた気がした。
どこまでも冷たく陽介に敵意を向ける目に、私はぞっとする。
しかしそれもすぐに収まって、広瀬君はいつも通りの柔和な笑みを浮かべる。
陽介はそれに気が付いた様子はなく、おどけたように笑っている。
「とても残念だ。池ヶ谷さんはどうかな? やっぱり参加はしてくれないかな?」
「えっと、私は……」
「広瀬君、ユッキーはさっき言った通り参加できない。それに20人も30人もいるわけじゃないなら広瀬君一人で問題ないでしょ?」
私が返答に困っていると、なっちゃんがすかさず助け舟を出してくれた。
「確かに、そんな大勢ではないけど……。それもそうだな、ひとまずそういうことで納得しておくよ。もし気が変わったら遠慮なく言ってくれ。歓迎するよ」
そう言い残すと、広瀬君は立ち去っていった。
私は詰まっていた息をゆっくりと吐きだす。なっちゃんはそんな私を心配して声をかけてくれた。
「大丈夫、ユッキー? 今回はいつにも増してしつこかったわね」
「うん、大丈夫。ありがとうなっちゃん。陽介も、ありがとね」
私がお礼を言うと、陽介は一体何のことか分からない言った様子で首をかしげる。
「うん? 俺何かしたか? ただ広瀬の誘いを断っただけだけど……」
何もわかってない無自覚な陽介に、私は思わず笑みをこぼす。
本当に陽介は鈍感でどうしようもないけど、結局こうして私を助けてくれる。
「ふふっ、やっぱり陽介はバカだね」
「あれ? 俺今お礼言われてたんだよな? なんで罵倒されてるんだ? なあ隆平」
「俺に聞かないでよ……」
こんな風に間の抜けているところも、やっぱり私は大好き。
陽介のすべてが愛おしくて、胸の奥が切なくなる。
声を聴くだけで、姿を見るだけで、微笑んでくれるだけでいいと、そう思っていたはずなのに。今は触れたいと願ってしまう。
あの時繋いでくれた手のぬくもりを、私はまた求めている。優しくて大きい、陽介の掌。
そうだ、テストが終わって少しすればもう12月だ。クリスマスを口実にデートに誘ってみるのもいいかもしれない。
寒いからっていえば自然に手を繋げるかもしれないよね! そうと決まれば今はテスト勉強に集中しないと。陽介にも赤点を取らせるわけにはいかないし!
そんなことばかりを考えて、私は忘れていたんだ。広瀬君があの一瞬だけ見せた、奥底の敵意のことを。
――――
「あ、見て見て、あの子だよ! 体育祭のリレーすごかったって子」
「嘘!? あんまり運動できそうには見えないけど……。でもちょっと可愛いかも」
「あーあ、ウチの部入ってくれないかなぁ……」
「あんたのとこは
その日の放課後、昇降口に向かって陽介と歩いていると、離れたところからそんな声が聞こえてきた。
見て見ると女子生徒が二人こちらを見て話している。緑のリボンをつけているから3年生だ。
陽介は噂されていることも気づかず、歩いていく。
「陽介、噂されてるね」
私が後を追ってそう伝えると、陽介は驚いた表情を浮かべ、周囲を見渡す。
やがて噂をしていた先輩たちと目が合ったらしく、先輩たちが手を振ってきた。陽介はそれに軽く会釈すると、逃げる様にその場を立ち去る。
「……まじで俺のこと学校中に知れ渡ってるのな。なんか嫌だな」
「どうして? 人気者なのはいいことだよ」
「そう思わない人間もいるってことだ。俺は雪芽たちと平穏に学校生活を過ごせればそれでいい」
「えへへ、そっか」
陽介がすごい活躍をしたのは私も見ていたし、噂になること自体は不思議じゃない。
それで陽介が人気者になって、運動部からの勧誘とかも増えて、どこか遠くに行っちゃうような気がしていた。
でも、でもそっか。陽介は私たちと一緒にいられればそれでいいんだ。
それに、陽介の魅力がたくさんの人に理解されるのは嬉しいことだ。彼はとっても素敵な人なんだって、そう思ってくれる人が増えるのは嬉しい。
でも、その反面ライバルが増えるのかもと思うと複雑な気分になる。
私の方が先に陽介の魅力に気が付いて、陽介のことをたくさん知っているんだから、後から来た人にとられちゃうかもと思うと、なんか嫌だ。
……あっ、これはきっとなっちゃんと同じ気持ちだ。私がなっちゃんに陽介のことが好きだと伝えた時のなっちゃんの気持ちと。
そっか、なっちゃんはこんな気持ちだったんだね。今ようやく分かった。
「……それでも、手加減なんてしないからっ」
「ん? なんか言ったか?」
「ううん、なんでもない。帰ろっ!」
うん、私もぼやぼやしてられないな! クリスマスまでには少し陽介との仲も進展させておかないとっ!
私は決意も新たに校舎の外へ踏み出す。
頬を撫でた風は冷たかったけど、私の心はそれを忘れさせるほどに温かかった。
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