第81話 猫の別れは人に見せず

「大変だよお兄ちゃん! エロ猫がどこかに行っちゃうっ!」

「はぁ? どこかって、どこだよ?」

「わっかんないけど! ここじゃないどこかに帰っちゃうのっ!」

「帰るって……、別にそこまで焦るようなことじゃないだろ」


 あたしの訴えに、お兄ちゃんは困ったように笑うだけでまるで役に立たない。

 このままじゃエロ猫がどこか遠くに行っちゃう。言いたいことが、聞きたいことがたくさんあるのに、あいつ、このままあたしたちの前からいなくなるつもりなんだ!


「あぁ~、もういい! ちょっとあたしエロ猫探してくる!」

「お、おいおい! 今からか!? もう日も落ちてじきに暗くなる。明日でもいいだろ?」

「それじゃあ間に合わないかもしれないじゃんッ!」


 脱ぎ捨てていた上着を手に取り、あたしは玄関に走っていく。

 しかし、お兄ちゃんがそんなあたしの腕をつかんで離さない。


「何をそんなに焦ってるんだ? こんな時間に一人で外を出歩くのは危ないって!」

「いいから離してよッ……! 早くしないと、早くしないとエロ猫がっ……!」

「晴奈!」


 あたしは後ろから肩を掴まれ、強引に向きを変えられる。

 正面には真剣な顔をしたお兄ちゃんが、じっとあたしの目を見ていた。



「いいから落ち着け、な? エロ猫は体も小さいし、猫だからあたりが暗くなる夜には見つけにくい。それにあてもなく探し回ってもだめだ」

「でもっ……!」


 お兄ちゃんの言うことは分かる。でも、だからってこのまま何もしないでお別れなんて嫌だ。

 それに、明後日からはまた学校に行かなきゃいけないし、今日と明日くらいしか探せる時間がない。だから探せるときに探しておかないと……!


「いたっ」


 その時、あたしの頭に鋭い痛みが走った。

 顔をあげると、お兄ちゃんが怒ったような表情で手刀を構えていた。どうやらあたしはチョップをされたらしい。


「落ち着けって。エロ猫はハロウィンに帰るって言ったんだろ? だったらまだ時間はある。焦ってもしお前に何かあったら、それこそエロ猫を探すどころじゃないだろ。明日俺も手伝ってやるから、一緒にどこ探すか目星つけようぜ」


 そうして今度はあたしの頭に手を置いて、優しく撫でた。

 まるで小さい子にするみたいに優しく頭を撫でられて、ちょっと恥ずかしかったけど、嫌じゃなかった。


「だからそんな顔するな」

「うん……」



 確かに、今あたし一人が外に飛び出して行っても、きっとエロ猫は見つけられない。

 だったらお兄ちゃんの言う通り今夜計画を練って、明日以降に実行した方がいいのかもしれない。


 あたしが納得して落ち着くと、お兄ちゃんは優しく微笑み、頷いた。


「じゃあエロ猫がどの辺にいるか、可能性のある所を羅列していくか」

「うん!」


 こうして、あたしとお兄ちゃんのエロ猫捜索大作戦は幕を開けたのだった。





 ――――





 翌日の日曜日、あたしとお兄ちゃんは朝から外に出て、エロ猫の捜索をしていた。

 昨夜お兄ちゃんと一緒に決めた、エロ猫がいそうな場所。その中でも可能性が高く、家から近い場所を探していくことにしたんだ。


 お兄ちゃんと二手に分かれて、駅、学校の周り、公園など、いろいろなところに足を延ばしたけど、結局エロ猫を見つけることはできなかった。

 一度お兄ちゃんと合流して話を聞いたけど、やっぱりエロ猫は見つけられなかったらしい。



 それからお兄ちゃんが雪芽さんや夏希さんに連絡を取って、エロ猫を見たら連絡してほしいってお願いしていた。

 あたしもそれに倣って由美にお願いしておいたけど、希望は薄いと感じていた。


 日が沈みかけてきた空を眺めながら、あたしは本当にエロ猫が見つかるのか、不安になって来ていた。

 一日かけてこれだけ探したのに、エロ猫は影も見えない。それにあいつの行きそうなところに心当たりなんてもうない。

 もしかしてもうどこかに行っちゃったんじゃないかな。ここじゃない、どこか遠くへ……。



「晴奈、おい晴奈」

「……え!? な、なに?」

「日も落ちてきたからもう帰ろう」

「……うん」

「そう落ち込むなって、まだ見つからないって決まったわけじゃない」


 あたしが力なく頷くと、お兄ちゃんは励ますようにそう言った。

 でも、あたしはそんな慰めの言葉を聞いて元気になれるほど、単純じゃない。



「明日、学校が終わったら街の方も探してみるよ。この前街の方でも見かけたかもしれないから、もしかしたらってこともある」

「それホント!?」


 あたしが顔を上げると、お兄ちゃんは笑顔で頷いた。

 でもその後、困ったように眉をひそめると、唸るように呟いた。


「まぁ、あの辺は広いから一人じゃ一日で探しきるのは難しいだろうな……」

「じゃああたしも一緒に探す!」

「まぁそれが妥当――、いや、待てよ? もしかしたらもっと早く見つかるかもしれないな」

「どういうこと?」


 あたしがそう尋ねると、お兄ちゃんは自慢げに笑みを浮かべる。




「探し物が得意そうな人に心当たりがあるんだ」




 そうして翌日、お兄ちゃんは日が沈んでから帰ってきた。

 あたしも学校から帰って来て、いろいろ探し回ったけど、エロ猫は見つからなかった。


 お兄ちゃんは帰ってくると、少し疲れた様子で、難しい顔をしていた。


「どうだった……?」

「う~ん、結果から言うとエロ猫は見つからなかった」

「そっか……」


 あたしが肩を落とすと、お兄ちゃんは申し訳なさそうに眉を下げ、今日分かったことを話してくれた。



 お兄ちゃんはまず、知り合いの占い師に会いに行って、エロ猫のことを尋ねてみたらしい。すると、占い師さんもエロ猫に会ったことがあるらしく、エロ猫の行動範囲が街まで及んでいることが分かった。


「占い師の人、飯島さんっていうんだけど、その人が言うには随分前に急に現れて、しばらく一緒にいたと思ったらどこかに消えたらしい」

「あ、もしかしてしばらくエロ猫の姿を見なかった時期があるから、その時かも」


 ということは、エロ猫はわざわざ街まで歩いて行って、その飯島さんって人に会いに行ってたってことになるのかな。

 目的はなんにせよ、エロ猫がこの周辺以外にもいる可能性がある。となると、随分と広範囲を探さなくちゃいけない。


「その占い師の人に頼んで探してもらえないの?」


「そのことなんだが、どうやら飯島さんは探し物の類は得意じゃないらしくてな……。ただ、探していれば見つかるだろうって言ってたから、こればっかりは自力で探すしかないな」


「うん……」

「ごめんな、期待させるようなことを言っておいて、このざまだ」



 お兄ちゃんは申し訳なさそうにそう言った。

 それにあたしは首を横に振る。

 だって、お兄ちゃんの顔があまりに辛そうだったから。これはあたしのわがままで、お兄ちゃんが気を落とすようなことは何もないから。


「ううん、お兄ちゃんが悪いわけじゃないから。あたしも駅の周りとか、探してみる」

「ああ、俺もまた明日、街の方を探してみるよ」


 あたしが笑って見せると、微かにだけどお兄ちゃんも笑顔を浮かべた。


 でも次の日の夕方、お兄ちゃんの表情は、再び暗く曇っていたのだった。





 ――――





 迎えた31日の放課後。あたしは家への道をとぼとぼと歩いていた。



 スマホを入れたポケットから、軽快な電子音が聞こえる。誰かからメッセージが来たらしい。

 取り出したスマホには、お兄ちゃんからのメッセージが来ていることを知らせる通知が表示されていた。


『ひとまず今日も街の方を探してみるよ。雪芽にはパーティーに遅れるって言ってあるから大丈夫だ。晴奈はどうする? 雪芽に断っとくか?』


 お兄ちゃんは今日もエロ猫を探すつもりらしい。そんなに責任を感じなくてもいいのにさ。

 でも、せっかく雪芽さんが誘ってくれたパーティーを、当日に断るわけにはいかないよね。あたしも日が沈むまでエロ猫を探して、遅れてパーティーに行くことにしよう。


 そう伝えると、雪芽さんが気を使ってくれたのか、パーティーの開催時間を日没と一緒にしてくれたらしい。

 どのみち夜になったらエロ猫を探せないだろうし、それまで精一杯探して、見つからなかったら諦めよう。



 そうしてあてもなく、あたしはエロ猫を探して自転車を走らせた。

 何度も探してもいなかった場所、いないと高をくくっていた山の中、だいぶ距離の離れた隣町。様々なところを探し回っても、やっぱりエロ猫は見つからなかった。


 やっぱり、もういないのかな……。いい加減諦めた方がいいのかもしれない。

 ……いや、本当はもう諦めているのかも。心のどこかでは、もうエロ猫はいないんだって分かっている気がする。


 あのバカ猫、帰っちゃうならせめて別れの一言くらい言わせろよ。バイバイって、それくらいは言わせてくれてもいいじゃんか。

 ……ホントは、ホントは他に言いたいこともあったけど、でもせめてそれくらいはさ、言わせてほしかった。


「……エロ猫のバカ」


 呟いた悪口は、群青色の空に溶けていった。



 無性にこみ上げてくるものを、あたしは必死に抑え込んだ。

 お兄ちゃんにもあんなに迷惑をかけたのに、諦めてしまったあたしが情けなくて。お別れだって分かっていたら、もっと他に何かできたんじゃないかとか。いろんな思いがごちゃ混ぜになって、溢れそうになる。


 きっと、今涙をこぼしても誰も気が付かない。それでも、きっと泣いたりしたらエロ猫にバカにされるから。あんな奴のために泣いてなんてやるもんかって、そう思ったから涙は流さなかった。


 ……よし、気分を切り替えていこう。これから楽しいパーティーが待ってるんだから。

 せっかく雪芽さんと一緒にお食事ができるんだから、こんな気分じゃ台無しになっちゃう。ちゃんとおめかしして、雪芽さんの家に行こう。

 それで、いいんだよね……?


 見上げた空は、さっきよりも少しだけ、黒に近づいていた。



 家に帰って準備を済ませていると、お兄ちゃんからメッセージがあった。

 内容はエロ猫は見つけられなくて、今から帰るということと、謝罪だった。


 謝る必要なんてまるでないのにさ、むしろあたしが謝らないといけない。お兄ちゃんが帰ってきたらありがとうとごめんなさいをちゃんと言わないと。



 お兄ちゃんが先に行っててくれというから、あたしは一足先に雪芽さんの家に向かうことにした。

 準備をしているうちにだんだん気分もましになってきたし、ちゃんと楽しめる、はず。


 雪芽さんの家に行くと言ったら、お母さんが送ってくれるついでにお菓子やジュースを持って行けと持たせてくれた。

 雪芽さんは、両手いっぱいに荷物を抱えたあたしに、驚いていた様子だった。


 雪芽さんの家にはすでに夏希さんが来ていて、静江おばさんと一緒に料理の準備をしていた。

 静江おばさんは嬉しそうで、終始微笑みを浮かべていた。鉄信おじさんも顔にはあまり出さなかったけど、あたしたちに気を使ってくれているのが分かる。


 なんでなのかを聞くと、雪芽さんが大勢の友達を招いて何かやりたいなんて言ったことがなかったから、それが嬉しいのだそう。

 あたしもその友達の中に入っていることが、なんだか嬉しかった。



 それからあたしも準備に参加して、あれやこれやとしているうちにもういい時間になってきた。


「陽介はまだだけど、先に始めちゃいましょ」

「えー? もう少し待てば来るよ! ね? 晴奈ちゃん」

「多分、もうすぐ来ると思いますけど……。ちょっと連絡してみます」


 夏希さんは目の前に並べられた料理を早く食べたいと言った雰囲気で、雪芽さんがそれをたしなめている。

 そんな仲のいい二人を羨ましく思いつつ、あたしはスマホを手に取った。


 さっきまで忙しくしていて全然見てなかったから、お兄ちゃんがもう帰ってきているのか確認できてないや。えっと、メッセージは……。


「あっ、あった。……もう帰って来てるのか。雪芽さ――」


 しかし、そこであたしはスマホの画面から目を離せなくなった。


 メッセージは短文で連投されており、初めはもうすぐ着くとか、これから直で行くとかそんな内容だったが、その次に送られてきていたメッセージが驚きの内容だったのだ。




『エロ猫が見つかった。すぐ駅に来い』




 そのメッセージを見た瞬間、あたしは慌てて立ち上がり、玄関に向かって走っていく。


「ど、どうしたの!? 晴奈ちゃん! 陽介は――」

「すみません雪芽さん! あたしちょっと用事があってこれから駅まで行かないといけないんです!」

「これからって、もう真っ暗よ? 用事なら陽介にでも頼めばいいじゃない」

「あたしが行かないといけないんです! 夏希さんも先に食べててもらって構いませんからっ!」


 そうして廊下へと続くドアを開けたところで、同時に玄関のドアも開かれた。


「晴奈はいるか!?」

「お兄ちゃん!? 今駅にいるんじゃ――」

「メッセージ送ったのに反応なかったから急いできたんだ! 早く行けッ! 俺の自転車使っていいから!!」

「……ッ! 分かった!」



 廊下を走り抜けて、あたしは靴を履くのももどかしく、玄関を飛び出した。


 自転車にまたがって出発しようとした瞬間、お兄ちゃんと目が合った。

 真剣な瞳で頷くお兄ちゃんに、あたしは言うべき言葉を見つけて、大きな声でしっかりと伝える。




「ありがとっ! 行ってきます!」




 そうしてあたしは秋の夜に自転車をこぎだす。

 あたしの自転車よりも幾分高いサドルはこぎにくくて、ペダルの上に立ち上がる。


「行って来い!」


 背中にかけられた声からは、お兄ちゃんの表情が伺えて、あたしは思わず口元に笑みを浮かべる。




「ありがとお兄ちゃん。……んで、待ってろよエロ猫ォ!」




 街灯もろくにない夜の道はさっきよりずっと暗いはずなのに、自転車のライトが照らすわずかな光の道は、とても明るく、鮮明に見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る