第79話 関係の変化は言葉にできない
『もうすぐ着くよ』
そのメッセージを見て、あたしは一度大きく深呼吸をした。
お兄ちゃんには一人で大丈夫なんて言ったけど、やっぱりちょっと怖い。
どうしてあの時助けてくれなかったのかと糾弾されたら、もう友達なんかじゃないと言われたら。そんな悪い考えばかりが頭の中をグルグル回っている。
こうして駅のベンチで由美を待っている間にも、鼓動は早くなっていく。
あたし一人で向き合うって決めたんだ。あの時みたいにお兄ちゃんに頼るわけにはいかない。
あたしだってもう、子供じゃないんだから。
目の前で止まって、誰も吐き出さずに再び出発した電車の中は、日曜日の昼前だからか、この駅とは比べ物にならないくらい賑っていた。
いつもは騒がしい猫が隣にいるから、そういった賑やかさに目が行くこともなかった。
今日は駅にもいないみたいで、どこかに出かけているらしい。エロ猫の姿が見えないことは、あたしが由美と話をするには好都合だと思った。
そうして再び静かになった駅で独り、身を震わせる。
「寒っ……」
その震えは寒さのせいか、この駅のもの寂しさのせいか、あるいは緊張のせいか。
緊張のせいなのかもしれないけど、寒さのせいってことにしておいた。その方が余計に緊張しなくて済むと思ったから。
ガラガラと、駅舎の扉をあける音が聞こえた。
夏の間解放されていた扉は、秋の寒さに応じて締め切られるようになり、駅のホームに来るまでに二回扉をあけなくてはいけない。
そうして二回目の扉、つまりあたしの座っているベンチの隣の扉が開かれ、由美が顔を出した。
由美はあたしの姿を認めると、笑みを浮かべる。
あたしもそれに返そうとしたけど、少し頬が引きつっただけだった。
「待った?」
「ううん、大して待ってないよ」
「そっか! よかった」
由美はあたしの隣に座ると、あたしに向かって満面の笑みを浮かべる。
その笑みに毒気なんて全くなくて、あたしは少しだけ緊張が和らいだような気がした。
「それにしてもびっくりしたよ。話したいことがあるから駅まで来てって言われたときはさ」
「ごめん、急に呼び出したりして……」
「いいのいいの! それで話って?」
由美の言葉にあたしの胸は早鐘を打つ。
……大丈夫、大丈夫。ちゃんと話すって、謝るって決めたから。
「あたし、ずっと考えてた。その、昔のことなんだけど、由美がいじめられてた時のこと」
あたしが話し始めると、由美は笑みを消して真剣な表情で頷いた。
あたしは乾いた唇を湿らせると、小さく息を吸った。
「この前由美と昔話したときに、あたし思い出した。忘れてたわけじゃなかったんだけど、あまり思い出したくなかったから、忘れたふりをしていたんだと思う」
「由美がいじめられて大変だった時に、あたしは何もしなかった。手を差し伸べられたはずなのに、親友のはずなのに」
あたしの
それは呆れたようにも、拍子抜けしたようにも聞こえた。
「そうだね。確かにウチもその時は思った。どうして晴奈は助けてくれないんだろうって。見て見ぬふりをするんだろうって」
言葉が、胸に突き刺さる。
その通りだ。由美の言うとおりだ。あたしは助けられたはずなのに、由美のことを見て見ぬふりをした。それを責められても、あたしに何か言う権利はない。
「友達だと思ってたのにって、ずっと思ってた。だから晴奈がウチに会いに来た時、絶対会ってやるもんかって、そう思ってた」
……当然だ。あたしはそう思われても仕方のないことをしたんだから。きっとあたしが由美と同じ立場でも、そう思ったに違いない。
「でもね、ウチ考えてみたんだ。もしウチが晴奈の立場で、晴奈がいじめられてたら、ウチは助けてあげられたのかなって。そうして考えてみたらさ、ウチもきっと晴奈と同じことをしたんじゃないかなって」
「……え?」
あたしが顔をあげると、微笑みを湛えた由美と目が合った。
その目が、その瞳の奥が、なんだかお兄ちゃんと似ていると、そう感じた。
「いじめを止めに入ったら、次はウチが標的にされるんじゃないか~とか、先生に言いつけても、ばれたらもっとひどい目にあわされるんじゃないか~とかさ。そういうこと考えちゃって、きっと何もできなかったと思う。だからしょうがなかったんだって、そう思ったんだ」
「でもっ! あたしが由美のために何もしてあげられなかったのはホントのこと。由美に会いに行く時だって、お兄ちゃんと一緒じゃなきゃ何もできなかった。あたし一人じゃ、何もできなかった……」
あたしが由美のために何もできなかったこと。それを言葉にするたびに、あたしの声はしりすぼみに小さくなっていった。
エロ猫やお兄ちゃんは、由美が学校に行けなくなった後、あたしが傍にいて寄り添ってあげた、理解者になってあげたって言ってたけど、それは違う。
あたしは由美に何もしてあげられなかった罪悪感で傍にいただけだ。何も立派なことなんてない。
「だからあたしには、いざって時に由美を助けられないようなあたしには、由美の友達でいる資格なんてないって、そう思ってた……」
「そんなこと考えてたんだ」
「だから、あたし謝りたくて……! ずっと、何もできなくてごめんって、そう言いたかった。でも、そしたら由美があたしの友達じゃなくなっちゃう気がして、怖くて、今日まで言い出せなかった……」
だけど、ちゃんと向き合わなきゃいけないから。
ちゃんと謝って、赦してもらいたいから。うやむやにしたまま、友達でいたくはないから。
「だからその……、ごめんね、由美」
あたしは由美の目をまっすぐに見つめてそう言った。
怖かった。由美の顔を見て謝ることが。そうして由美の顔に浮かぶ表情が、あたしを責め立てるようなものであったらと思うと、怖くて仕方がなかった。
それでもあたしの気持ちをちゃんと伝えたかったから。言葉だけじゃなくて、あたしの想いも知ってもらいたかったから。
だから目を見る。あたしの目と、由美の目。それはお互いの心を繋ぐ一本の線のようだった。
そうしてあたしの言葉と思いを受け取った由美は、一瞬目を閉じるとため息をついた。
「晴奈、ウチの話聞いてなかったの? 晴奈が何もできなかったのは、しょうがないことだったって、そう言ったっしょ?」
そう言った由美の表情は、怒ってもいなければ軽蔑もしていなくて、ただ呆れたように笑っているだけだった。
「もしウチがそのことで晴奈を許さないって思ってたとしたら、この6年はどう説明するの? ウチ、嫌いな人とそんなに長く友達やれるほど器用じゃないし」
「え、じゃあ……?」
由美は大きく頷くと、膝の上で組まれたあたしの手に、自分の手を重ねた。
「当然! ウチはとっくに赦してるってのっ!」
そうして、由美はいたずらっぽく笑う。
それは紛れもなく、ずっとあたしの親友だった子の笑顔で。それが今もまだ、こうしてあたしに向けられていることが、何よりも嬉しかった。
「……うん!」
だからあたしもとびっきりの笑顔でそれに応えよう。
あたしは由美の親友なんだって、そう伝えるために。
そうして見た駅のホームは、さっきと何も変わらないはずなのにもう寂しくはなかった。
震えもすっかり止まって、もう寒くはない。むしろ少しだけ暑いくらいだった。
――――
「それにしても、晴奈も神経質というか、律儀というか。そんな昔のことずっと気にしてたの?」
「そりゃぁ……、気にするでしょ」
隣の席で、由美は軽快に笑う。
その振動が繋いだ手から伝わって、あたしの肩も小さく揺れた。
「でも、ウチが晴奈と同じ立場だったとしたら、やっぱり気にしちゃうかもしれない」
「でしょ?」
頷く由美の笑顔に、あたしも自然と顔が綻ぶ。
もう肩を強張らせることはない。随分と気も楽になった。
それでも、まだ少しだけ気になることがある。
「ねぇ、あたしは由美がいじめられている時に助けてあげられなかったけど、その後にちゃんと助けになれたのかな?」
エロ猫もお兄ちゃんも、あたしはちゃんと由美の助けになったって、そう言ってくれた。
でも、それはお兄ちゃんたちの言い分で、由美がそう思っていたとは限らない。
「そりゃもちろん! 今のウチがあるのは晴奈と陽介さんのお陰だよ!」
「でも、あたしはお兄ちゃんについてきてもらわなかったら、きっと由美に会いに行くこともできなかったと思うし……。一人じゃ何もできなかった」
あたしがそう言うと、由美は何度目かのため息をついて、繋いだ手をコツン、とベンチのひじ掛けに当てる。
「いい? 晴奈はさっきから一人じゃ何もできないってことにこだわってるみたいだけど、ウチはそんなの関係ないと思う。人間一人でできることなんて
……そうか、一人じゃなくてもいいんだ。
あの時、由美を助けられるのはあたしだけだと思って、助けられなかった自分を責めた。
その後も由美に会いに行くのが怖くて、お兄ちゃんを頼った自分が情けなかった。
でも、でもそうか。それでよかったんだ。
「……って今ウチいいこと言ったっしょ!?」
「ふふっ、それがなければねっ!」
「えぇー!?」
由美は悔しそうにベンチに背を預ける。
少し古いベンチは、その重みで
「……でも、ウチは確かに晴奈に助けてもらったよ。外に出ることや人に会うこと、学校に足を踏み入れることが怖くなくなったのは、晴奈のお陰。そんで、クラスに復帰できたのは陽介さんのお陰かな」
「お兄ちゃんが? どういうこと?」
由美は背もたれに背を預けたまま、頭だけこちらに傾げる。
そのまま横目であたしを見ると、当然知っているだろうといった風に話し始める。
「この前話したじゃん? ウチが陽介さんを好きになった理由。いじめられてた時に助けてもらったって」
「え? そんな話したっけ? 覚えてないんだけど」
「えぇー!? 晴奈の方から聞いてきたのに……」
「ごめんごめん。そん時ちょうどテンパってたからさ」
由美のいじめの件を思い出していて、それどころじゃなかったし、そんな話覚えてない。
というより、今聞いてもお兄ちゃんが由美を助けたなんて話、聞いたことないんだけど。
「じゃあ何度でも教えてあげるっ! ウチが学校に行けなくなってた時、晴奈と陽介さんとでウチを外に連れ出してくれたり、学校に付き添ってくれたりしてたじゃん? それでウチがそろそろクラスに復帰したいって考えてた時に、またいじめられたりしたらどうしようって不安だったことがあって、それを陽介さんに相談したことがあったの」
そんなことがあったんだ……。あたし全然知らなかったんだけど。
てかお兄ちゃんからも聞いたことないし。まぁ、あのバカ兄貴なら忘れていても不思議じゃないけど。
「そしたら陽介さんがさ、きっともう大丈夫だと思うけど、どうしても心配なら今のままの由美ちゃんじゃダメだ、変わらないといけないって言ってくれて。それでウチが困ってたらさ、笑ってればいいって」
「笑う?」
「そそ。そうすれば自然と悪いことは忘れちゃって、周りにはいっぱい人が集まってくるって。そしたらクラスの人気者になって、もういじめられなくなるって」
「なにそれ、いかにもバカ兄貴の考えそうなことだな」
「そ、そうかもしれないけどっ! ……でも、ウチは確かにそれで助けられたんだよ」
「あっ、それが由美が今みたいに明るくなった原因?」
「まぁ、そゆことっ!」
しかしそうか、言われてみれば由美がこんな性格になったのもクラスに復帰してすぐだったような気がする。
「それであのバカを好きになったと?」
「ま、まぁ……。だって一緒になって遊んでくれたり、優しく微笑んでくれたり、足も速くてかっこよかったんだもんっ!」
「はいはい」
「あー! なんかこうして口に出すと恥ずいぃ!」
由美はそういうと少し顔を赤くして、繋いでいない方の手でしきりに顔を扇いでいる。
繋いだ手からも由美の恥ずかしさは熱となって伝わって来て、由美は本当にお兄ちゃんのことが好きなんだって分かってしまう。
あのバカのどこがいいんだと思っていたけど、由美の言う通り、確かに優しいところはあるし、頼りになることもある。
……少しだけ、分かった気がする。
「~~ッ! こうなったらこれから街まで遊びに行くよ、晴奈!」
「はぁ!? どうしてそうなるのさ!」
「ウチを恥ずかしくした罰!」
「なにそれ!?」
立ち上がる由美に引っ張られてあたしもベンチから立つ。
それを見計らったようにホームのアナウンスが電車の到来を知らせる。
「晴奈の元気も戻ったことだし、お祝いってことでさっ!」
そうして手を引っ張る由美はやっぱり笑っていて、あたしはまぁそれも悪くないかと思ってしまう。
「……分かったよ、親友」
「え、何か言った?」
「なんでもない。ちょうどあたしも由美と遊びに行きたいと思ってたとこ」
「やったね! そしたら買って買って買いまくるしかないっしょ!」
「そんなにお金ないって……」
そうして二人電車を待った。
あたしと由美の関係は、きっと言葉の上では何も変わっていない。それでも、言葉では言い表せない何かが、確かに変わったような気がした。
電車が来るまでの少しの時間、あたしはそんなことを考えていた。
そうして電車が来て、街へ向かって出発しても、あたしたちは手を繋いだままだった。
目には見えないあたしたちの繋がりを示すように、固く、固く繋がれていたのだった。
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