第78話 罪の意識は赦しによって拭われる

「にゃるほど、それで陽介と喧嘩したってわけか」

「喧嘩じゃない」


 昼休み、あたしはいつもの体育館前でエロ猫と並んで座っていた。

 最近は昼休みの時間はこうしてエロ猫と話をするのが日課になりつつある。

 あたしはもう来るなっていつも言ってるのに、エロ猫は言うことを聞かず毎日あたしの元にやってくる。もう拒絶するのにも疲れた。

 図書館の漫画もほとんど読んじゃったし、いい暇つぶしにはなるけどさ。



「まぁそうむくれるにゃって。陽介も晴にゃのことが心配だったんだよ」

「別に心配してくれなんて頼んでない」

「頼まれにゃくたって家族にゃんだ。心配するにゃって方が無理だろ。晴にゃだって陽介が大変だったら心配するだろ?」

「それは……」


 ……そうかもしれない。夏休みのお兄ちゃんはなんだかおかしな雰囲気だったし、今もなんだか存在が薄っぺらいというか、時々心配になる。

 でも、あたしはお兄ちゃんみたいにしつこく食い下がって首を突っ込んだりしてない。これはあたしだけの問題で、あたし自身で何とかしないといけないんだから。


「にゃ? そうだろ? 晴にゃはお兄ちゃん大好きだもんにゃぁ」

「別に好きじゃないし、あんなバカ兄貴」

「にゃはは! 強がってもだめだ。行動や言葉に愛が溢れてる」

「気持ち悪いこと言わないでよ」


 エロ猫はあたしの言葉も涼しげな表情で受け流す。

 そのすべてお見通しだって顔、ムカつくんだけど。



「でもそんにゃに好きだと、陽介に彼女が出来たりしたら、晴にゃは辛いんじゃにゃいか?」

「お兄ちゃんに彼女? ありえないって」

「ありえにゃくはにゃいだろ。陽介は誰にでも優しいし、誰かのためにボロボロににゃるまで頑張れる奴だ。頭も悪くにゃいっぽいし、実はモテるのかもしれないぞ?」

「ちょっと待って、優しいっていうのは少し分かるけど、誰かのために頑張るとか頭がいいってのは冗談でしょ?」


 バカ兄貴はゲームのこと以外で頑張るってことをしない人だし、赤点取っているような人の頭がいいとは到底思えない。

 誰にでも優しいだけでモテるわけないじゃん。世の中そんなに簡単じゃないっての。


「冗談じゃにゃい。陽介は雪芽のためにいろいろ頑張っているし、現に晴にゃのこともにゃんとかしようとしている」

「そう言われてみればそうか……? でも、頭がいいっていうのは嘘でしょ。赤点取ってたんだよ?」

「勉強ができるかどうかで頭の良し悪しが決まるわけじゃにゃい。頭の回転、理解力、論理的にゃ思考能力、発想力、先を見通す目。そういった能力が高いかどうかってことだ」


 何か難しい話だ。猫のくせに。

 あたしが難しい顔をしていると、エロ猫は小さく笑って説明しなおしてくれた。


「つまりにゃ? 陽介はやろうと思えば勉強もできるやつにゃんだ。でも面倒臭がりだから今までやってこにゃかった。あるいは自分の能力を他人に見せるのが怖いのかもしれにゃいにゃ」

「怖い?」


 あたしが問い返すと、エロ猫は目を丸くした後、何かを慈しむように笑った。


「そう。きっとにゃ」



 ……この猫は一体何を知っているんだろう。あたしの知らないお兄ちゃんを色々知っているみたいだし、もしかして観察するっていうのはお兄ちゃんのこと?


「それで、はにゃしを戻すけど陽介の彼女ににゃりそうにゃおんにゃの子をはいるのか?」


 あたしがエロ猫にそのことを問い詰めようと口を開こうとすると、エロ猫が先んじて口をひらいた。

 ……やっぱり、お兄ちゃんのことすごく聞きたがるし、そうなのかもしれない。


 でもお兄ちゃんの彼女になりそうな女の子、ねぇ。


「う~ん、由美はお兄ちゃんのこと好きみたいだけど、たぶんお兄ちゃんがその気じゃないから無理かな。他にはお兄ちゃんの友達の夏希さんもお兄ちゃんのこと気になってるっぽかったけど、どうだろう?」


「ふむふむ、由美とにゃつ希か。他にはいにゃいのか? 雪芽とか」

「雪芽さん? あんなに綺麗な人じゃバカ兄貴に釣り合わないって! お兄ちゃんがその気でも無理無理!」


 あたしがそう言って笑っても、エロ猫は驚いたような表情をしていた。

 なんだよ、そこは一緒に笑うところだろうが。


「にゃんだ、陽介は雪芽のことが好きにゃのか?」

「さあ? あんなに綺麗で優しくて、それでいて可愛いところもあって、純粋で素敵な人、好きにならない方がおかしいと思うけど、バカ兄貴なら分からないしね」


 あたしがそう言うと、エロ猫は声を上げて笑った。

 いや、今笑うところだった? 雪芽さんの素晴らしさを並べただけなんだけど……。


「晴にゃは雪芽のことがホントに大好きにゃんだにゃぁ。それとおにゃじくらいすにゃおににゃれればにゃぁ……」

「……何の話?」

「いや、にゃんでも」


 あたしが睨み付けると、エロ猫はそう言って顔を逸らす。



 ……分かってるよ、言われなくたって。

 でも、今のお兄ちゃんに余計な心配はかけたくない。ようやく少しましな顔するようになってきたんだ。あたしのことで煩わせたくない。


「陽介に言えにゃいにゃら、俺に相談してくれてもいいんだぞ? 全く関係にゃい俺ににゃら言えることもあるだろうしにゃ」


 こちらを見ることもなく、まばらに道路を通る車を見つめているエロ猫は、ポツリとそんなことを言った。


「ま、その内ね」


 あたしがそう言ったところで折よくチャイムが鳴った。

 背にした体育館から徐々に人の気配が消えていく。あたしもそろそろ行かないと。


「じゃあね」


 あたしの呼びかけに、エロ猫は尻尾をぱたんと動かして答えるのだった。





 ――――





 それから翌日の金曜日の昼休み。あたしはいつものように体育館前に向けて教室を出ようとしていた。


 最近は図書館へ向かうのではなく、直接体育館前に行ってエロ猫と会うようになっていた。どうせ図書館に行こうとしてもあいつがまとわりついて来るし、いちいち迎えに来てもらうと生徒や先生に見つかる可能性も上がるし、やめてくれってあたしが頼んだのだ。

 と言ってももう手遅れかもしれないけどね。最近猫が校内をうろついてるって噂になってたし。



「あ、晴奈! 図書館行くの? ウチも用あるから一緒に行っていい?」


 教室を出てしばらくすると、後ろから由美が声をかけてきた。

 あたしは学校では由美とあまり関わらないようにしているせいか、由美と話すときはいつもこうして由美の方から声をかけて来る。それも気を使っているのか知らないけど、こうしてクラスメイトの目に触れにくいところで。


「ごめん、図書館じゃないんだ」

「え? 晴奈っていつも昼休みは図書館にいたよね?」

「そうなんだけど、最近は違うの」


 由美はあたしの言葉に驚いたような顔をして、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「そうなんだ。じゃあどこに行くの?」

「……どこでもいいじゃん」

「あっ、ちょっと晴奈!」


 あたしは呼び止める由美の声に耳も貸さず、由美を置いて廊下を歩きだす。

 階段に差し掛かる直前、ちらっと視界の端に映った由美は、なんだか悲しそうな目をしていた気がした。


 ごめん、由美。でもしょうがないんだよ。エロ猫のことを説明するのは難しいから。

 バカ兄貴みたいなよっぽどのバカじゃないと信じられないような話だから。



 由美を置いて体育館前にやってくると、エロ猫はもの言いたげな目をしてあたしを出迎えた。


「なに?」

「晴にゃ、いくらにゃんでも由美にあの態度は可哀想にゃんじゃにゃいか?」

「……見てたの? 2階だよ? あそこ」

「猫は木登りが得だからにゃ」

「覗きとか趣味悪い」

「パンツを覗くのは俺の使命だからにゃ!」


 あたしは返事の代わりにため息をつき、階段に座る。

 エロ猫はそんなあたしをじっと見つめて、やっぱり何か言いたげだった。


 それからしばらくの間、エロ猫は目の前の道路をぼんやりと眺めては、まるで逡巡するように尻尾をゆっくりと動かしていた。


 やがて、エロ猫は道路を見つめたままゆっくりと口を開く。


「にゃあ、にゃんで晴にゃは由美に冷たくするんだ? 由美のことが嫌いににゃったのか?」

「違う!」


 思わず大きな声が出て、あたしは慌てて周囲を見渡した。

 ……大丈夫、誰もいないみたい。


 エロ猫はあたしの声にも驚かず、ただ目の前の道路を見つめている。朝夕は車通りも多いが、この時間ではほとんど車は通らない。それなのに何を見ているんだろう。


「じゃあにゃんで由美に冷たくする? 由美、悲しそうだったぞ」

「それは……」


 そうしてエロ猫はあたしの目を見る。

 その瞳は丸く透き通っていて、まるであたしの瞳の奥にある秘密を見透かしているかのようだった。


「はにゃしてくれにゃいか。俺も晴にゃが心配にゃんだよ」


 そうしてあたしに語り掛けるエロ猫は、なんだかお兄ちゃんみたいだと思った。



 それから、エロ猫はあたしの話を口も挟まず聞いてくれた。

 いじめられていた由美に何もしてやれなかったこと。差し伸べられたはずの手でさえ差し伸べなかったこと。いじめの傍観者は共犯であるということ。

 そしてあたしは今もなお、その罪悪感にさいなまれていることを。


 その話を聞いても、エロ猫は何も言わずただ目をつむっていた。

 しばらくして、言葉を選ぶように語りだす。


「確かに、その状況にゃら由美を助けられたのは晴にゃだけかもしれにゃい。でも、石をにゃげられている由美に手を差し伸べるということは、一緒に石をにゃげられるということだ。それを払いのける術をもたにゃい限り、由美は余計に傷ついたんじゃにゃいかにゃぁ」


「どういうこと?」

「晴にゃと由美は親友だったんだろ? じゃあ親友が自分のせいで傷つくのを見ていられる奴にゃんて、俺はいにゃいと思うけどにゃぁ」

「……でも、大変なときに手も差し伸べてやれない奴が、親友なはずない」

「いや、晴にゃはちゃんと由美を助けている」


 エロ猫は一度立ち上がって伸びをすると、あたしの方に向き直って座りなおした。




「由美が学校に行けにゃくにゃったとき、晴にゃは由美に手を差し伸べて、寄り添って、そうして一緒にいてやった。そのことがどれだけ由美の支えににゃったか、お前に分かるか?」




 ……そうなのかな。あたしはちゃんと由美の支えになれてたのかな。

 でも、それでも。あたしが由美へのいじめを止めることができなかったことは事実だし、由美と一緒にいてあげたのも、お兄ちゃんと一緒だった。あたし一人の力じゃない。


「もし晴にゃが本当に親友を見捨てるようにゃひどい奴だったとしたら、由美は今もお前の親友をにゃ乗るかにゃ? 俺だったらきっと顔も見たくにゃいはずだ」


 確かに、由美はあの一件以来ずっとあたしの親友でいてくれた。そうあってくれた。

 それが答えだとしたら、由美はあたしのしたことを何とも思ってないのかな。あたしのことを許してくれるのかな。


「最後に罪を許すのは他人でも、まして神でもにゃい。自分だ。自分が自分の罪を許さにゃい限り、その辛さからは逃れられにゃいだろう。そうして自分を許せる理由をくれるのが罰だ。どうしてもそれが必要にゃら、由美に今のはにゃしをしてみるといい」


 罰……。それが今のあたしが求めるものなのかな。

 由美に一言、なんてひどい奴だって言ってもらえればこの罪悪感も消える? いや、そんなことはない。きっと余計に辛くなるだけだ。

 じゃああたしはどうしたいんだろう……?


「にゃはは……、余計に混乱させちゃったかにゃ? もし答えがほしいにゃら陽介にもおにゃじはにゃしをしてみるといい。きっと力ににゃってくれるはずだ」

「お兄ちゃんに……?」

「そう。あいつは良い兄貴だ。きっとお前の求める答えをくれるはずだ」





 ――――





 家に帰って来て、あたしはお兄ちゃんが帰ってくるのを待ち、帰ってくるなり話があると台所に呼び出した。

 言い合いをした後だったからちょっと気まずかったけど、お兄ちゃんはなんてことない様子で対応してくれた。


 いつも食事をするテーブルを挟んで座り、あたしはお兄ちゃんにエロ猫にした話と同じことを話した。

 すると、お兄ちゃんは真剣な表情でそうか、とだけ言った。


 それからエロ猫と同じようなことを言って、最後に、


「それで、晴奈はどうしたい?」


 と、そう尋ねた。


「あたし、どうしたいのか分からない。どうしたらこの罪悪感が消えるのかも……」


 するとお兄ちゃんは、昔あたしをあやしたときのような優しい笑みを浮かべて言った。


「お前は由美ちゃんと友達でいたいか?」

「もちろん! 由美とはずっと友達でいたい……」

「じゃあ答えは簡単だ」


 そう言うとお兄ちゃんは椅子から立ち上がり、あたしの頭に手を置いた。




「由美ちゃんにそのことをちゃんと謝って、許してもらえ。お前が求めているのは罰じゃなくて、ゆるしだと思うから」




 それはとっても温かくて、あたしの全身にじんわりと染み渡っていく。

 あたしは膝に置いた手を握りしめて、ただ頷いた。

 バカ兄貴に震えた声を聴かれるのは、なんだか癪だったから。



「だったら早い方がいいな。この土日とか。不安なら俺も一緒に付いて行ってやるけど、どうする?」


 その申し出を首を横に振ることで拒み、あたしは鼻から息を吸って勢いよく口から吐き出した。


「大丈夫! これはあたしの問題だから」

「うん、そうか」


 そう言ったお兄ちゃんの目はやっぱり優しくて、あたしの口からは自然と言葉がこぼれた。




「お兄ちゃん、いろいろ言ってごめん。それと、ありがと」


「……あぁ、気にするな。俺はお前のお兄ちゃんだからな」




 そう言ったバカ兄貴の顔は、底抜けの笑顔で。

 あたしの心は、とてもあったかくなるのだった。

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