ぶつかり合う想い

第62話 夏の言葉は涙に濡れて

 ユッキーが倒れてから今日で一週間が経った。

 この一週間、ユッキーのいない教室はなんだか懐かしい感じがした。



 そして金曜日の放課後、私は部活を休んで、ある病室の前に立っていた。

 表札には無機質な字で「池ヶ谷」と書かれている。


 その扉の前で、私はただ立ち尽くしていた。

 まるで扉の開け方を忘れてしまったように、呆然と、口を半分だけ開けた状態で立っていた。


 声をかけるべきか、それともノックすべきなのか、あるいは何もせずにただ開けるべきなのか。

 そんな無意味なことに頭を使ってばかりで、私は何をしているんだろうと思う。


 ユッキーのお見舞いには行かなければと思っているのに、こうして病室の扉に阻まれて最後の一歩が踏み出せずにいた。


 そして私は今日も、扉に背を向けて歩き出す。



 なぜ、ユッキーに会えないのだろう。喧嘩をしているから? 今は敵同士だから? どちらも違う気がした。


 ユッキーが倒れた一週間前、陽介はユッキーのことを心配していた。

 でもそれは友達として当然するべきたぐいの心配ではなかった。何か特別なものを感じたのだ。


 それを言葉にするすべを私は持たないから、それが何なのかはわからずにいたけど、陽介にとってユッキーが友達以上の存在だということは確かに伝わってきた。


 陽介にとってユッキーが特別な存在だということは、なんとなくわかっていた。

 でも、認められなくて、諦められなくて、それでも何とかなると思っていた。

 だけど、ユッキーを心配して駆け寄る陽介の後ろ姿や、言葉はなくとも決意を固めた目に、もうどうにもならないんじゃないかと思ってしまった。


 そう思った時、ユッキーへのお見舞いの誘いを、素直に受けることができなかった。

 だから少しきつい言葉で、放っておいて、などど口走ってしまった。


 当然、ユッキーのことは心配で、陽介から元気らしいということを聞いて安心はしたけど、お見舞いには行けてなかった。

 毎回こうして扉の前まで来ては引き返している。



 まるで昔陽介が話していたゲームみたいだ。

 鍵がかかって開かない扉があって、そこを通るには特別な魔法の鍵が必要だという話。

 私はまだ、この病室の扉をあけるための鍵を、持っていないんだ。

 それこそ魔法でもなきゃ、開かないような気がした。





 ――――





「なぁ、もうすぐ中間だよな?」


 9月も半ばを過ぎた火曜日の放課後。陽介が唐突にそんなことを言った。

 なんだろう、昨日までの3連休中に年間行事予定表でも見つけたのかな?


「勉強会しないか? 雪芽と。3人で」

「え、だってユッキーは入院して……」

「だからさ、病院でやるんだよ。最近では雪芽も移動できるまでに快復してきたらしいからさ。休憩室みたいなところでやろうぜって話してたんだよ」


 そう話す陽介の顔は、ユッキーが倒れた時より明るかったが、まだ暗さを残していた。


 確かに体調は良くなってきているのに、まだ入院しているんだもの、心配なのはわかる。

 私だって心配しているし、ユッキーの体調がよくなることについては嬉しい。


 でも、勉強会って……。今の私には難しいことだ。


「私は……、いいわよ。部活もあるし」

「お前……、またそれかよ? 雪芽だって寂しそうだったぞ? 夏希がお見舞いに来てくれないの」

「それは……」


 私だってお見舞いに行こうとはしてるのよ。

 でも今はユッキーに会いたくない。

 ユッキーに会って、面と向かって言葉を交わしたとき、私はきっと惨めな思いをすると思うから。

 だから今は会いたくない。


「テスト前は部活もないだろ? たしか」

「私、独りでやる方がはかどるのよ」

「じゃあ一度だけでいいからさ、雪芽の顔見に来いよ」

「ユッキーの容体は陽介から聞いてるから、わざわざ行く必要ないでしょ」

「……ああそうかよ分かったよ。それじゃあな」


 そう言い残すと、陽介は教室を出ていった。

 その背中は、私の態度に苛立いらだっているように見えた。


 ……私のこと、嫌いになったかな。

 ははっ、何やってんだろ、私。



「どうしたんだよ、夏希。陽介とも何かあったのか?」

「別に、何もないわよ。隆平には関係ないでしょ。ほら、部活行くわよ」

「……あぁ」


 私は隆平をあしらい、部活へと向かった。



 それから部活をしている最中も、なんだかはかどらなくて、集中できてないなと感じた。


 今頃陽介とユッキーはテスト勉強でもしてるのかな。私のことなんか忘れて、楽しくやってるんでしょうね。



 最近陽介はユッキーのことばっかりで、私のことなんて気にもしてくれない。

 夏休みが終わってから、学校でも、休みの日でも、ずっとユッキーのことばかり心配していて、口を開けば雪芽雪芽って。


 ユッキーばっかり陽介の気を引いてずるい。私も体が弱ければ、陽介の気を引けたのかな。

 私が転入生で、クラスになじめてなければ、陽介は私の傍にいてくれたのかな。


 リレーの時、本気で走ったのは私のためだったと思ってたけど、あれは気のせいだったのかな。

 陽介はもう、私のことなんてどうでもいいのかな。





 ――――





 その週の金曜日。今日でユッキーが倒れて2週間が経過した。ユッキーはまだ入院している。


 私はテスト前最後の部活動を終えて、汗を拭っていた。



「ねー、知ってる? 駅前にすんごくよく当たる占い師がいるの」

「あ、知ってる。手相占いでしょ? うちのお母さんが占ってもらって、私の成績が良くなるって言ってたって喜んでた! なんでお母さんの手相から私の成績のことが分かるのって話だけどね~」

「それな! でもあんたの成績が私より高かったら今度行ってみるのもありかも~」

「はぁ? 絶対負けないから!」


 すると同じ陸上部の女子たちから、そんな会話が聞こえてきた。


 占い師……、どこかで聞いた気がするんだけど、どこだったかな……。

 ダメだ、思い出せない。なんか誰かにお勧めされたような気がするんだけど……。



「おーい、夏希! ちょっと」


 もう少しで思い出せそうな時に、少し離れたところから隆平が手招きしているのが見えた。

 私はいったん思い出すことを止めて、隆平の元まで歩いていく。


「なによ」

「ほら」


 隆平が目をやった先を見ると、先に帰ったはずの陽介が立っていた。

 陽介はなんだか怒っているような少し怖い表情で壁に背を預け、腕を組んでいる。

 どうやら今の今まで私を待っていたらしい。


 あ、そうだ思い出した。陽介に気持ちの整理をしに行ってみろって勧められたんだった。

 って今はそのことはいいのよ。なんで陽介がここにいるのか、それが問題。


「陽介、何やってんのよ?」

「ちょっと話があって、待ってた。一緒に帰ろう」

「う、うん……」


 その目がやけに真剣で、思わず言葉に詰まる。

 そして私は慌てて支度を済ませ、陽介と一緒に学校を後にした。



「久しぶりだな、こうやって二人で帰るの」

「そ、そうね」


 こうして部活終わりに陽介と一緒に帰るのなんて、本当に久しぶりだ。

 1年生の初めに何回かあった程度で、2年生になってからは1回もない。



 それから他愛もない会話を続け、駅までの道を歩いた。

 私は陽介が口を開くたびにやけに緊張していたから、その距離を歩いただけで疲れてしまった。


 話がある、なんていうから、変に期待しちゃうというか、緊張しちゃうというか……。なんかそういう話かと思っちゃうじゃない。


 でもユッキーはどうなのかな?

 陽介にとってユッキーは特別な存在なんだと思ってたけど、もしかしたら違うのかも。それなら私にもまだチャンスはあるわよね!


 それでも陽介は、電車を待っている時も、電車に揺られている時も、肝心な話とやらをしてこなかった。


 そして電車はついに、いつもの無人駅に到着してしまう。



「ねぇ陽介。話って何よ? もしかして今までの世間話が話ってわけじゃないでしょ?」


 だから私はしびれを切らしてそう問いかけた。

 すると陽介は改札へ向かう足を止め、少し時間はあるかと尋ねてきた。

 私が頷くと、陽介はベンチに腰掛けて、私にも座るよう促した。



 そして私が隣に腰掛けると、陽介は真剣な面持ちで語り始める。


「話しってのは、雪芽のことだ」


 ……なんだ、ユッキーのことか。私のことじゃないんだ。

 なんとなく陽介だし、分かっていたことだけど、少し期待していたからショックだなぁ……。


 それにユッキーのことと言ったらお見舞いのことだろうし、私としてはあまりしたくない話だ。


「雪芽には夏希を無理にお見舞いに誘うなって言われてるけど、俺はそれじゃダメだと思う。だから何度でも言う。雪芽に会いに行ってやれよ」


 そんなの、私だってダメだと思ってる。でも、ここまで来て、もう引き下がれないじゃない……!


「無理よ、会いには行けない」

「どうして? 部活だってもう終わっただろ?」

「そういう問題じゃないのよ」

「喧嘩してるからか? 何をそんなに意固地になってるんだよ。喧嘩したなら仲直りすればいいじゃないか」

「そんな簡単な問題じゃないのよ」

「じゃあどんな問題なんだよ?」


 それはあんたには言えないのよ……!



 私が黙り込むと、陽介は困ったようにため息をついた。

 その雰囲気がわがままを言う子供に呆れた大人のようなものだったから、私は少し頭に来た。


「じゃあ聞くけど、ユッキーが一度でも私に会いたいだなんて言った? お見舞いに来てほしいなんて、言ってないでしょ?」

「それは言えないだろ? 雪芽だって夏希が忙しいと思って言えないでいるだけで、会いに来てくれれば喜ぶはずだ」

「なに? 陽介はユッキーの気持ちがわかるの? いつからそんなに仲良くなったのよ!」

「なにをそんなに怒ってるんだよ? 俺はただ夏希のことを思って――」

「私のことを思って? 押し付けないでよ! 私は放っておいてって言ったの! 私は一度だってユッキーとの間を取り持ってくれなんて頼んでない!」


 私の剣幕に、陽介は一瞬言葉に詰まったが、すぐにその瞳に怒りの炎をともした。


「なんだよ、その言い方。俺はただ、喧嘩しているせいで会えないなら、手伝ってやろうって思っただけじゃないか!」

「勝手に決めつけないでよ! 私はそんな理由で会いに行けない訳じゃない!」

「じゃあ何なんだよ! それを話してくれなくちゃ何もできないだろ!?」


「だからあんたには関係ないって言ってるじゃん! お節介なのよ! 人の気も知らないでッ! ユッキーだって陽介に心配してもらえて喜んでるんじゃないの!? 私が行ったら邪魔者だって嫌がるに決まってるわよ!」


「何言ってるんだよ、雪芽はそんな奴じゃない。お前だって知ってるだろ!?」

「知らないわよ、ユッキーのことなんてッ! この間会って友達になったばかりなんだから! 大体体が弱いっていうのも嘘なんじゃないの? 陽介の気を引くためにわざと倒れたとかさ!」




 ……あぁ、私は何を言っているんだろう。




 私の中に溜まっていた汚いものが、私の口を通じて外に溢れ出していく。

 本当はそんなことないって分かってるはずなのに、口に出すたびにユッキーが悪者だというのが正しい気がしてくる。



「お前――、雪芽は本当に体が弱いんだぞ!? 倒れたくて倒れたわけじゃない! なんでそんなひどいことを言えるんだよ!?」


「だってあの子はッ! 突然現れたと思ったら私にできないことを次々にやって見せて、私から大切なものを奪おうとして、でも私は何もできなくて……! だから悔しくて妬ましくて仕方がなかった!」


 隠してた感情が、押し殺していた気持ちが、溢れて来る。

 蓋をしていたはずの私の心から、とめどなく、堰を切ったように。




「もう、ユッキーなんていなくなっちゃえばいいのよ!」




 私がすべてを吐き出すと、陽介は呆然と立ち尽くしていた。


 そうか、私たちは知らぬ間に立ち上がっていたんだ。そんなことにも気が付かないくらい私は頭に血が上って……。




「夏希、お前、自分が何言ってるのか分かってるのか……? 雪芽がいなくなればいい、だって……?」




 陽介は俯いたまま静かにそう言うと、ゆっくりと顔を上げて、私の目を見た。

 その目はかつて、中学の陸部の先輩に向けた怒りと同じ、いや、それ以上の怒りに燃えていた。




「お前は、雪芽がどれだけ苦しい思いをしたか知ってるのかッ!?

 あいつは病気で辛いはずなのに、お前がくれた千羽鶴にすげぇ喜んでッ! 笑えるほどの体力なんてないはずなのに笑って見せてたんだぞッ!? お前を、俺たちを心配させまいとしてッ!

 そんな奴がいなくなっていいわけがない! 死んでいいはずなんてないんだよッ!!」




 陽介の剣幕はすごかった。

 私は陽介がかつてこんなに怒っているところを見たことがない。陽介は普段から怒らない奴だったし、私が先輩のいじめを受けていた時もこんな風に怒鳴ったりはしなかった。


 それに千羽鶴? 死ぬ? 千羽鶴なんて私には覚えがないし、ユッキーが死ぬって、私はただいなくなればいいって言っただけで、死んでほしいなんて言ってないのに!


「な、何を言って――」

「……いいから訂正しろ。そんで雪芽に謝れよ」


 陽介の怒りに燃える瞳に、私はただ唇をかむことしかできなかった。

 そして私はこの期に及んでまだ、陽介はユッキーの味方なんだ、なんて、バカなことを考えていた。



「……嫌」

「夏希!」

「陽介はそうやってユッキーのことは庇うのね。どうせ私がユッキーの立場だったとしたら、そんな風には怒ってくれないくせにッ! 陽介はユッキーの味方なんだ!」

「何言って――」

「リレーの時だって、きっと私が言っても陽介は走らなかった! アンカーに推薦されても断ってた! なのにユッキーが言ったから、あんたはリレーでアンカーをやったのよ!」


 また、溢れて止まらない。

 今まで溜め込んできたものを、すべて吐き出したと思ったのに。

 奥深くに隠していた感情まで、今私は吐き出している。



 吐き出した言葉は、陽介にではなく、私に胸に突き刺さっていく。


 口に出す度、私はユッキーには敵わなくて、陽介を変えることはできないと。

 今までの私と陽介の時間はユッキーにとっては容易に超えることのできる時間で、意味なんてなかったと。

 私の抱き続けてきた想いは、陽介には届かなくて、ユッキーには敵わなくて。


 とまらない言葉は私の胸を穿ち、穴をあけ、血を流す。


 ……胸が痛い。たまらないほどに痛い。

 重く、苦しく、辛い痛み。



「ユッキーは私がほしかったものを全部持ってる! 私が何年かけても手に入れられなかったものを、一瞬で手に入れて見せた!」


 穿たれた胸から溢れる血が、喉に昇って来て、次第に声が震え始める。


「ユッキーとは敵同士だなんて言って、でも私じゃはなから勝負になんてならなかったのよッ!!」


 やがて喉から目の奥に溜まって、とうとう溢れて来る。

 溢れた血は、涙となって頬を伝う。




「夏希、お前泣いて――」


「もう、放っておいてっ!」




 そう叫んで、私は駆けだす。

 溢れる涙もそのままに、ただ我武者羅がむしゃらに改札を抜けた。


「夏希ッ!」


 後ろで聞こえた陽介の声を置き去りにして、私はただ走った。



 どこを走ったのか、視界は滲んで何も見えない。

 音は自分の嗚咽と風の音以外、何も聞こえない。

 ただ、頬に当たる風が冷たくて、そのことで余計に悲しくなった。



 やがて息が苦しくなって立ち止まる。もう涙は止まっていた。

 残った涙を拭って辺りを見回すと、そこはうちの近所の田んぼだった。


 すると少し遠くの田んぼから、こちらに向かって何かが飛び立ってきた。

 それはこの辺ではよく見かけるアオサギで、そいつは私の頭上を悠々と通り過ぎていった。


 ……まるで今の私の心みたいに灰色にくすんだ体だ。

 いや、きっと私の心の方がもっと汚い色をしている。それはきっとどす黒い色だ。


 そう思うとまた、涙が溢れてくる。

 それは拭えど拭えど溢れてきて、私の視界を滲ませていく。


 上を向けば止まるかと思って、空を見上げた。

 真っ赤に燃える空は、それでもまだ、滲んだままだった。

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