終わらない悪夢
第60話 夏の悪夢は未だに終わらない
「……雪芽えッ!!」
俺は思わずそう叫び、駆けだす。
ぐったりしている雪芽の横にしゃがみ込み、手を取る。
その手は握り返すこともなく、ただ脱力している。
う、嘘だ。だって雪芽の命は助かったはずだ……! 終わらない夏休みは終わったはずだ! こんなの、嘘だ!!
――ループは確かに抜け出しました。しかし、これで再発しないとも限らないということです。
その時、飯島さんの言った言葉が頭をよぎった。
……また、また繰り返すのか? また雪芽は死んでしまうのか?
あれだけの苦しみを超えて、あれだけの悲しみを超えて、やっとつかんだこの未来すらもまた、奪われてしまうのか……?
「……そんな、そんなの嘘だよな? 雪芽……? なぁ、目をあけてくれよ、雪芽ッ!」
しかし俺の呼びかけに、雪芽はただ苦しそうに呼吸をするだけだった。
顔が青い。貧血でも起こしているのか。
「おい池ヶ谷が倒れたって聞いたぞ! 何があった!?」
「先生……! 分かりません、きゅ、急に倒れて、それで私どうすればいいのか分からなくて……!」
「よし、分かった、今は落ち着け。救急車は呼んだから、じきに病院へ搬送されるはずだ。それまでは安静にしておく必要がある。おい柳澤、しっかりしろ!」
顔を上げると、真剣なまなざしで俺の目をまっすぐに見つめる山井田の顔があった。
隣にはおろおろとするクラスメイトの女子の姿がある。
俺は山井田の目を見て、まとまらない思考のまま口を開いた。
「……先生。雪芽が、雪芽がまた……!」
「落ち着け柳澤! お前が狼狽えてどうする? 池ヶ谷のことは心配だろうが今は考えるな。助けたいなら体を動かせ」
そう叱咤されて、俺はハッとする。
……そうだ。まだ雪芽は生きてる。ただ倒れただけで、まだ生きてるんだ。
今は雪芽を助けることを最優先に行動しなくては。
「お前は俺を手伝ってくれ。池ヶ谷をひとまず保健室まで運ぶ。急に倒れたってことは脳に何かあるかもしれないから、頭を揺らさないよう慎重にな」
「は、はい……!」
俺は山井田の言葉にひとまず平静を取り戻し、慎重に雪芽の体を持ち上げる。
それから保健室に運び込んだ雪芽の手を握り、救急車が来るまでずっと祈っていた。
どうかただの貧血でありますように。白血病なんかじゃありませんように。どうか命だけは、助かりますようにと。
やがて救急車が来て雪芽が運ばれていくのを、俺はどうすることもできず、ただ立ちすくんで見送ることしかできなかった。
抜け出せたと、救えたと、そう思っていた。
もうあんな地獄はやってこなくて、これから俺の焦がれた未来が、平凡でささやかな、幸せであふれた日常が続くと、そう思っていた。
でも甘かったんだ。俺は浮かれていたんだ。
雪芽を救ったと思って、また同じように雪芽に危機が迫るなんて、俺は想像もしていなかった。
飯島さんは確かに俺に忠告してくれていたのに、そんなはずはないと、どこか心の隅で思っていた。
……認めたくなかったんだ。あの地獄の再来を。雪芽の死を。
飯島さんは言っていた。雪芽の寿命は8月15日に尽きるはずだったが、何らかの影響で延びていると。
そんな不確かなものに生かされている雪芽は、いつ再び倒れるともしれない状態だったのだ。
俺はそのことから目を背けていた。無意識に見ないようにしていたんだ。
飯島さんが言った意味がようやく分かった。根本的な解決をしない限り、俺に、俺たちに真の平穏は訪れないという意味が。
そのことを今になってようやく、理解したんだ。
俺はただ、校門を眺めていた。
とっくに雪芽を乗せた救急車が通り過ぎていったその先を、ただ眺めていることしかできなかった。
今すぐに自転車にまたがり、雪芽の後を追いかけたい。
雪芽の一番近くで彼女の無事を祈っていたい。
そう思うのに、俺の足は一歩も前には進まなかった。
いくら動けと念じても、俺の足は石になってしまったかのようにピクリともしない。
どうして、どうしてなんだよ……! 雪芽の
「どうしてッ、どうして……、どう、して…………」
そう呟く声も、どこか遠く聞こえた。
まるで俺じゃない誰かが、この状況ではそう言うことがお決まりだとばかりに言葉を並べているような、そんな感じがした。
「……もう、嫌だよ。あんな地獄を味わうのは、もう嫌なんだよ……」
そう。俺はもう嫌だったんだ。
雪芽が死んでしまうのを見ることが。雪芽の死を悲しみ、涙を流す晴奈や夏希を見ることが。その後に何もかも忘れて笑っているみんなを見ることが、もう嫌だったんだ。
なぁ、神様。あんたはなんで俺にばっかり冷たいんだよ?
俺が何をしたってんだよ。ただ普通に、人並みに生きてただけじゃんか。何がそんなに気に入らないんだよ?
もう俺には耐えられねぇよ……。
「――さわ、柳澤。おい柳澤!」
「ッ! は、はい!」
すぐ後ろから聞こえた声に振り向くと、険しい顔をした山井田が立っていた。
「お前、今日はもう帰れ」
「え、でもまだ体育祭は……」
「そんなことはいい。鏡を見てみろ、酷い顔だぞ? そんな奴を体育祭に参加させるわけにはいかない。体調不良ってことで早退しろ。それにお前はこの後参加する予定だった競技はないだろ?」
「それはそうだけど……」
煮え切らない様子の俺に、山井田は呆れたようにため息をこぼした。
「バカたれ、帰って少し休め。そんで自分の気持ちを整理して、心を落ち着かせろ。幸い明日から土日だし、落ち着いたら池ヶ谷のお見舞いにでも行ってやれ」
「山井田さん……」
「それとも一人で帰れないなら親御さんを呼ぶが、どうする?」
そう言った山井田の目は俺を心配ているようだった。
普段は嫌味を言ったり、俺に面倒ごとを押し付けたりして、まだまだ敬うほど大人じゃないと思ってたけど、それでも先生は大人なんだな。
「ありがとうございます、山井田先生。俺、一人で帰れますんで、早退させてもらいます」
「ん、そうか。気を付けて帰れよ」
「はい」
俺は山井田に一礼し、荷物を取りに校舎へ戻る。
今日のところはひとまず帰ろう。それで、少し落ち着いたほうがいい。
雪芽のお見舞いは今日はまだ無理だろうし、明日にでも晴奈を誘って行こう。きっと晴奈も心配するだろうし、雪芽も晴奈の顔を見れば喜ぶだろうし。
「陽介!」
「……夏希?」
教室に向かって校舎内を歩いていると、後ろから声をかけられた。
振り向けば焦燥を顔に浮かべた夏希が立っていて、俺と目が合うと駆け寄ってくる。
「ユッキーはっ、ユッキーは大丈夫なの?」
「さっき救急車で病院に搬送された。もう大丈夫だろ」
俺がそういうと、夏希は急かすように言葉を並べた。
「そうじゃなくて、ユッキーにいったい何があったのかってことよ! なにか命にかかわるようなことじゃないのかって、そう聞いてるのよ!」
「それは……。そんなの、俺にわかるわけないだろ。むしろ俺が一番知りたいくらいだ」
俺がそう言うと、夏希は言葉を詰まらせる。
俺が歩き出すと、夏希は無言で後をついてきた。
どうやら少しだけ落ち着いたようだ。
「心配、よね。ユッキーのこと」
「ああ」
「体弱いって言ってたものね。でも、急に倒れたから私、びっくりしちゃって……」
「ああ」
「……陽介は知ってたの? ユッキーが急に倒れちゃうような病気を持ってること」
「……いや、知らなかった」
「そう……」
夏希はそれ以上何も言わなかった。
ただ二つの足音だけが廊下に
そうして教室につくと、俺は帰り支度を始めた。
今日は体育祭なので大した荷物もなく、支度はすぐに済んだ。
「もう帰るの?」
「ああ、山井田さんがそうしろって」
「そう」
教室を出るために振り返った入り口で、夏希は俯いて立っていた。
滴る汗もそのままに、服についた砂も落とさず。
きっと急いできたのだろう。雪芽のことが心配で。
そのことが少しだけ嬉しかった。夏希と雪芽は喧嘩していても友達なんだな。
「じゃあ、俺はもう帰るわ。夏希はどうする?」
「私は……、私も、今日はもう帰る。これ以上お祭りを楽しむ気分になれないし」
夏希はそういうと、少し疲れた顔で笑った。
その笑みが、なぜだか自嘲気味に見えたのは、きっと俺も疲れているからだろうと、そう思った。
それから俺たちは二人無言で駅までの道のりを歩いた。
俺の自転車のかごに積まれた二人分の荷物が、歩道の車両乗り入れ部を乗り越える度にガタゴト音を立てる。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
雪芽の乗っていったそれとは別物だとわかっていても、心臓が跳ねる。
雪芽の様子は一見して貧血のように見えた。
だから大丈夫、だなんて安心はできない。白血病の初期症状の一つに、貧血がある。
その他にも息苦しい、脱力などがあり、それらは赤血球の減少が原因だと、俺の調べたところには書いてあった。
もし、雪芽が倒れたのが白血病のせいだとしたら、貧血ということはまだ初期の段階のはず。適切な治療を施せば直らないわけではない。
……でも、そう思って病院に連れて行った夏休み、あれは何周目だったかもう覚えていないが、あの時雪芽は助からなかった。
だとすると、今回このまま治療を受けたとしても、雪芽は何かの呪いにかけられたかのように死んでしまうということになる。
それは、それだけは何としてでも阻止したい。いや、阻止しなくてはいけないんだ。どんな手を使ってでも。
そうだ、それならまずは飯島さんに話をした方がいい。あの人の力を借りるのが、現状一番雪芽を救う未来に近い選択肢のはずだ。
となれば行動は早い方がいい。今日、これから飯島さんを訪ねるとしよう。
そんなことを考えているうちに、俺たちは駅前まで来ていた。
そろそろ飯島さんのいるビルが見えてくる。ここで夏希とは別れることにしよう。
「夏希、俺はちょっと用事があるからここでお別れだ」
俺がそう言うと、夏希は一瞬不安そうな顔をしたが、俺の顔を見ると安心したように頷いた。
「そう、分かったわ」
夏希の顔を見て、俺は1つの提案を思いついた。
今まで何度も繰り返してきたことだし、当たり前のように行われてきたことだったから忘れていた。
「そうだ夏希、もし明日雪芽のお見舞いに行けるとしたら、一緒に行くか? 雪芽の体調次第では行けないかもしれないんだけどさ」
当然好意的な反応が返ってくることを予測した提案だった。
喧嘩していても夏希と雪芽は友達だと、さっきそう確信したから、まず間違いはないだろうと、そう思っていた。
「あぁ、えっと、私は部活があるから明日は難しいかもしれないわね」
それは予想だにしない答えだった。
だって、夏休みの時、雪芽が倒れたことを知ると、自分からお見舞いに行くと言っていた夏希が、部活があるから行かない? そんな……。
「夏希お前――」
「私はっ! ……私は自分のタイミングで行くから、だから今は放っておいて」
夏希は微かに震えているように見えた。
しかしその原因を探る前に、夏希は俺の自転車から自分の荷物を取り出し、行ってしまった。
俺はただその背中を見つめていることしかできなくて。
ただ、今の夏希と雪芽の関係は、俺が知っている夏休みの時の彼女らのそれとは違うのだ、ということだけは分かった。
でも夏希、たとえ喧嘩をしていても、お前たちは友達だって、俺は信じているからな。
お見舞いには必ず来いよ。そうじゃなきゃダメなんだ。
去っていく夏希の背中に、俺はそんな予感を感じていた。
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