第52話 気持ちの整理はお早めに

「14.58! ちょっと落ちてるね~」

「そうね……」

「もうっ、そんなに落ち込まなくたって、夏希は十分速いよ?」

「……うん、ありがと」


 タイムを計ってくれた同じクラスの女子にお礼を言い、私は何とか笑みを浮かべて見せる。

 ちゃんと笑えているかな。きっとできてない気がする。



 それから朝部の時間は終わり、急いで片づけをする。

 その間も昨日のことが頭をよぎって、スムーズに片づけが出来ない。


 昨日はなんであんなこと言っちゃったんだろう。

 ユッキーが陽介のことを好きだって聞いたとき、納得はしたんだ。なんとなくユッキーが陽介のことを好きなことはわかっていたから。


 なのに、なんでだろう。気が付いたら私の中は汚い感情でいっぱいになっていて。

 ユッキーにそんな感情をぶつけてしまった。

 私、ユッキーの友達のはずなのに……。



 突然、目の前で持ち上げようとしていたスターティングブロックが視界から消えた。


「どーしたの? 俯いて。らしくないよ」


 見上げると、隆平が汗で濡れた顔をこちらに向けて立っていた。


「当ててあげようか。陽介のことだろ?」


 陽介の名前に、思わず顔が強張る。

 しかし、それを悟られないように素早く立ち上がり、無理やりにでも笑みを浮かべて見せる。


「違うわよ。ちょっとタイムが落ちてきてて、それだけよ」

「夏希がタイムのことで……? 珍しいこともあるんだねぇ」


 隆平は珍しいものを見るような表情を浮かべ、用具入れへと歩き始める。

 私もそれを追いかけるようにして歩き出す。


「なにがよ?」

「いや、夏希がタイムのことで悩んだことなんて俺の知る限り一度もないからさ。珍しいなぁって」

「私だってタイムで悩んだり、普通にするわよ」

「そっかぁ。夏希はその点で俺と一緒だなって思ってたんだけど、違ったのか」


 なぜか少しだけ残念そうな隆平。



 隆平はタイムで悩んだりしないらしい。


 確かに、隆平はあまり自分のタイムを気にしないし、大会出場にも意欲的ではない。

 有り体に言えば本気ではない、ように見える。


 なんだかその姿勢が、陽介と被って見えて。

 でも、陽介と違って隆平は速いわけじゃない。平均あたりを上下している印象を受ける。


「あんたはもう少しタイムを気にした方がいいんじゃないの? そんなんじゃ後輩に先越されちゃうわよ?」

「後輩が成長してくれるなら、俺はそれでもいいよ」


 そう言って用具入れにスターティングブロックをしまい込む隆平の顔は、本気でそう思っているように見えた。




 ……じゃああんたはなんで陸上やってるのよ。




 そんな言葉を飲み込んで、その日の朝部は終わりになった。



 それから着替えて教室に向かう途中の廊下で、二人並んでこちらに向かって歩いて来るユッキーと陽介の姿を見つけた。


「暑ちぃ……」

「なら陽介もバスで来ればいいのに。時間もそんなに変わらないんだし」

「バスは混んでたら乗れないだろ。バスが混んでました~は遅刻の理由として成立しないんだよ」

「私と同じ時間の電車に乗るんだから、私と一緒に登校すれば遅刻はしないよ?」

「それはそうだがバスは金が――、あっ、夏希おはよう」


 楽しそうに話す二人を、私はぼぅっと見つめていた。

 私に気が付いた陽介が声をかけるまで、私は立ちすくんで二人を見つめていた事に気が付かなかった。



「……なっちゃん」


 ユッキーが私の存在に気が付き、楽しそうだった表情を曇らせる。

 その様子が、なんだか私を邪魔者扱いしているように感じられて、無性に腹が立った。


 もともと陽介の隣は私の場所だったのに。そうして笑っているのは私のはずなのに。

 ユッキーを見ていると、そんな汚い感情ばかりが沸き起こってきて、またそんな感情をぶちまけてしまいそうになる。


「……おはよう」


 だからそれだけ素早く言うと、私は逃げる様にして教室に入った。

 ユッキーが何か言おうと口を開いていたようだったが、その言葉を聞くことが、今の私にはできなかった。





 ――――





 結局その日、私はユッキーとまともに口をくこともなく放課後になってしまった。


 私もユッキーには昨日のことを謝ろうと思っていたのに、ユッキーの顔を見るとそんな考えはどこかへ行ってしまって、口を開けば謝罪とは相反する言葉が飛び出してきそうで怖かった。



「なっちゃん、その、昨日は――」

「ごめん、私これから部活だから」


 だからユッキーがこうして話しかけてきてくれても、そっけなくすることしかできなくて。

 私のそんな反応を見て、寂しそうな顔をするユッキーを見ると、申し訳ない気持ちや腹立たしい気持ちがごちゃ混ぜになって、私は自分が分からなくなる。


「じゃあね」


 そうしてユッキーに背を向けて教室を出ていく。

 後ろで口をつぐむユッキーの気配を感じた。


 そうしてユッキーを黙らせることで、なぜか勝ったような気がして、優越感を感じる。

 そんな私を軽蔑する別の私がいて、そんなことをしても意味がないって叫んでいるけど、私はそれを無理矢理押さえつけて、聞こえないふりをした。



 足早に廊下を歩く。

 リノリウムの床を蹴るたび、いつもより大きな音が鳴り響く。


「夏希ー! ちょっと待って、夏希!」


 後ろからかけられた声に振り向くと、慌てた様子の隆平がこちらに向かって駆け足で近づいて来る。


「……なに?」

「なにって、夏希どうしたんだよ? タイムがよくないからって池ヶ谷さんにまで当たったらだめだよ」

「別に当たってなんてないわよ」


 私がそう言うと、隆平はいぶかしむような視線を向けた。


「夏希、やっぱり何かあった?」

「……何もないわよ」




「いや、何かあったでしょ。だって今日の夏希、一度も陽介と話してないし」




 陽介と話をしてない? 私が?

 挨拶くらいはしたし、一度もなんてことないはず。


「そんなことないわよ。ちゃんと話してる」

「じゃあ陽介がテストの結果どうだったか、夏希は知ってるの?」


 テストの結果……? そういえば私も今日あった授業の分は返ってきた。

 私は平均より少し上くらいで、いつも通りだったのを覚えている。


 じゃあ陽介は? 陽介のはどうだった?

 ……だめだ、覚えてない。


「赤点だったんじゃないの? テスト終わった直後はそんな雰囲気だったし」


 だから当てずっぽうなことを言った。

 あいつのことだし、赤点を取っていても不思議はないと思った。


「じゃあ何の教科だと思う?」

「英語」


 今日は英語のテストも返って来ていた。陽介は英語が終わった直後、手ごたえが悪い様子だったしきっとそうだ。

 しかし、確信を持って言った私の言葉に、隆平は残念そうに首を振る。


「違う、物理だ。あいつは今日返ってきた物理のテストで赤点だったんだよ」

「ほら、でも赤点は取ってるじゃない」


 私が別に間違っているわけではないと指摘すると、隆平はもう一度首を横に振った。


「そうじゃないよ。問題は俺でも知ってるようなことを、なんで夏希が知らないのかってこと。こんなこと、いつもの夏希だったら真っ先に知ってることだろ? テストが返ってくる日の話題に、テストの結果が出てこないはずないんだからさ」


 そう言われて初めて、私はまともに陽介と会話してなかったと思い知らされた。

 或いは隆平の言う通り、一度も会話していないのかもしれない。



「だから言ったろ? 夏希は今日1日、陽介と話してないんだよ」

「な、なんでそんなこと断言できるのよ? もしかしたら話してたかもしれないじゃない!」


 私が気づかなかった私を言い当てられて、少しムキになってしまう。

 そんな私に対して、隆平は落ち着いた様子で言葉を紡ぐ。




「俺はずっと夏希を見ていたから、わかるんだよ」




 そう言った後に隆平は思い出したように笑みを浮かべて、言葉を付け足す。


「いや、その、朝から様子がおかしかったからさ! 心配で見てたっていうか、そういうことだよ」

「……そう。心配してくれてありがと。でもほんとに何もないから」


 そんな隆平の厚意も、今の私には邪魔なだけだった。


 陽介と私のことなんて、隆平には関係ないじゃない。それをとやかく言われる筋合いなんてないわよ。

 それに私はユッキーとちょっとあっただけで、陽介とは何もないんだから。

 何も、ないんだから。



「あんたも私の心配なんてしてる暇があったら、自分のこれからのこととか心配しなさいよ。後輩に記録抜かれたりしたら情けないわよ」


 そう言って隆平に背を向け、部室へと歩き出す。

 隆平は慌ててついてきたが、もうそれ以上何かを言うことはなかった。


 それからの部活に身が入らなかったのは言うまでもない。

 タイムは今朝計った時より落ちていて、それがなぜなのか、私にはわからなかった。





 ――――





 翌日の木曜日。

 LHRにて来週の木曜日に迫った体育祭の種目を決めることになった。



「じゃあリレーの女子は相沢さん、小山さん、ヒナで決まりかな。後は男子だけど、誰か推薦や立候補はいるかな?」


 クラス委員長の広瀬君が私を含めたリレーメンバーの名前を読み上げていく。

 クラス副委員長の子が黒板に相沢あいざわ結奈ゆな、小山夏希、にわ雛美ひなみと名前を書いていく。



 結奈は私と同じ陸上部で、いつも私のタイムを計ってくれたり、なにかと仲良くしている子だ。


 どうせ推薦されるのだから、いっそのこと立候補しようと言われ、仕方なく立候補した形だ。

 確かに誰も立候補しなかった場合、直前の体育の授業で計った100mのタイムの速い順に指名されてしまう。そうなれば陸上部の私と結奈は指名されてしまうだろうから、妥当な判断だと思う。



 そうして残るは男子となったが、このクラスに男子で陸上部なのは隆平しかいない。

 必然隆平は誰かに推薦され、本人もそうなることが分かっていたのか了承していた。


 隆平は長距離選手だから、短距離はあまり得意じゃないと思うけど、実際そこそこ短距離も走れるし、問題はないと思う。



「じゃああと二人、誰か推薦はないかな? 立候補でもいいよ」

「はいはーい! じゃあリンリンがやったらいい感じっしょ! 男子の中じゃ一番だったし?」

「え、俺か?」


 高野君の言葉に数人の男女が便乗し、それを受けて広瀬君もリレーの選手になった。


 確かに広瀬君は男子の中で一番速かったと聞いているし、妥当だと思う。

 本人は困ったように笑っているけど、余り驚いていない所を見ると予想の範疇だったのかもしれない。



「えーっと、じゃああと一人、誰かいないかな?」

「はい」


 手の上がったほうを見ると、手を上げているのは何とユッキーだった。


 まさか、ユッキーが男子として走るなんてことはないだろうから、誰かを推薦するんだろうけど、まさか……。




「私は陽介がいい、と思います」




「なっ――」


 ユッキーの放った一言に、隣で半分眠りかけていた陽介が飛び起きて言葉を失っている。

 しかし、驚いているのはなにも陽介だけじゃない。クラスの全員、その中でも取り分けて驚いていたのは私だ。


 ユッキーは何を言ってるの……? まさか私があんな話をしたから? でもあの話を聞いた後じゃ陽介が走らないってわかってるはずだし、陽介を推薦する意味が分からない。



「陽介か……。100m走の記録だと真ん中よりは上だから、遅いわけじゃないと思うけど、どうして陽介なのかな?」


 広瀬君は陽介の事情を知らないクラス全員の言葉を代弁して見せた。

 ユッキーは私をちらりと見た後、こともなげに陽介の過去を告げる。


「陽介は元陸上部だって聞いて、それでその時短距離走で速かったって聞いたから」

「おい雪芽! 何言ってんだよ!」

「だってとっても速かったんでしょ? なっちゃんから聞いたもん」


 ユッキーの言葉に陽介がこちらを恨めしげに見る。


 ユッキー、なんでこのタイミングで私が話したことを言うのよ! ユッキーは何考えてんの!?

 まさか私がユッキーに冷たくしたから、その仕返しとか?


「陽介、それは本当なのか?」

「……まぁ、確かに中学の時に陸上やってて、それなりだったけど。でも1年で辞めたし、今も走れるかはわからないぞ?」


 陽介の消極的な言葉に、クラスの中から笑いが漏れた。


 1年でやめて、しかも中学1年の時にそこそこ速かっただけ。

 それが体育祭の華ともいえる男女混成リレーで選手として走るなんて。

 そんな思いが透けて見えるような笑いだった。

 もしかしたら荒んだ私の心が、そう捉えただけかもしれなかったけど。


 そんな風に陽介が笑われるのが気にくわなかった。

 そんな風に陽介を笑いものにしたユッキーにも腹が立った。

 そして今この時も何も言えない自分に、どうしようもなく怒りがこみあげて来る。



「俺も! 俺も陽介を推薦する。陽介の走り、見てみたいし」


 そう言って手を挙げたのは隆平だった。

 隆平は私の方を見て、私と目が合うと一瞬微笑んだ、ような気がした。


「えぇ……、お前ら本気か?」


 陽介はあきれたように笑っていた。

 自分が笑われていることを当たり前のように甘受して、何も言い返そうともしない。


 陽介の隣にいるユッキーに目を向けると、彼女は私を見て小さく頷いた。

 それがどんな意味なのか、なんとなくわかったけど、その意図まではわからなかった。



 陽介はあれから走っていない。きっと走り方もあまり覚えてないし、鍛えてないから筋肉も衰えてるはず。

 そんな陽介を走らせて、恥をかかせろって言うの? 私は陽介にこんなことを強いるためにユッキーに昔話を聞かせたんじゃない!


 ……でも、今こうして笑われたままの、部活を続けられなかった根性のない男というレッテルを張られたままの陽介を見ているのは嫌だ。

 だからしゃくだけど、ユッキーの思惑に乗ってあげる。


「私も、陽介を推薦するわ。中学で陽介の走りを見てたけど、速いわよ。もしかしたら広瀬君より速いかもね」


 私がそう言って手を上げると、クラス中が今度は驚きどよめいた。


「そ、そうか……。それは失礼なことを言ったね、陽介。陸上部の2人が推薦するんだ、きっと大丈夫だろう! 期待してるよ!」


 広瀬君は一瞬動揺した様子を見せたが、すぐに持ち直し、いつもと変わらぬ笑顔で陽介に笑いかけた。

 その笑顔が驚きに変わるのが、今から少しだけ楽しみだ。


「おいおいおい、まじかよ……? 俺リレーやんなきゃいけないの?」


 陽介は呆れを通り越して開いた口が塞がらないと言った様子だけど、走ってはくれるみたい。

 それがユッキーの提案だからか、それとも私たちの推薦を受けて流れでなのか。どちらにせよ陽介が再び走ることは嬉しい。

 後はどうやって本気にさせるかだけど……。



「ただ、陽介には最後に走ってもらいたいの。それで、女子の中ではなっちゃんが最後に走ってもらいたいなって……。転入してきたばかりの私がこんなにでしゃばるのはどうかと思うんだけど……」


 ユッキーの驚きの発言に、クラスの女子数名から敵意にも似た視線がユッキーに向けられる。

 おそらく広瀬君のファンの子たちだろう。広瀬君がアンカーじゃないことに不満をあらわにしているに違いない。


 私としてもよくわからない提案だし、リレーに参加しないユッキーが口を出せる問題じゃないと思う。


 でも、私がバトンを渡して、陽介が最終ラップを走る、というのはなんだかいい。

 それはついぞ実現しなかったことだし、憧れなくもない。


「俺は異存ないぞー。リレーの最後は足の速い奴が走るべきだし、女子もそれでいいよな?」

「私は夏希が最後でも全然オッケー! というか夏希より足速い女子なんていないしね!」


 隆平の言葉に結奈も便乗し、ヒナも問題ないと頷く。


「う~ん、そっか……。よしわかった! 俺も陽介にアンカーを譲ろう! 最高の走りを期待しているよ、陽介!」


 ついに広瀬君も折れて、陽介がアンカーとして走ることに満場一致で賛同した。

 広瀬君ファンの子たちからの敵意の視線はまだ少し残っているけど、陽介が広瀬君より速く走れば問題ないはずだ。


「……まじかよ」


 ただ一人陽介だけは、何が起こったのかまだよくわからないといった顔をしていた。

 隣でニコニコと笑っているユッキーは、私と目が合うと、申し訳なさそうに笑った。


 まったく、何を考えてるの? ユッキーは。

 私としては嬉しいけど、ユッキーにメリットがないように感じる。

 何を考えてるのか、聞いてみたいけど、今はまだ難しい気がする。



 こうして体育祭の種目決めはつつがなく進行していき、LHRは終わりを告げた。



 体育祭まであと1週間。

 その間に、私はユッキーと話ができるくらいには自分の気持ちの整理をしたい。そう思うのだった。

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