第45話 希望の未来は笑顔に彩られて
俺は雪芽と別れて家に帰り、飯島さんからのメッセージを確認した。
そこには、こんなことが書かれていた。
『雪芽さんの手相からは、徐々に死相が消え始めています。柳澤君の未来も見えてきています。これは本当に上手くいくかもしれません』
短い文章だったが、そこには確かな自信で溢れていた。
本当に、本当に雪芽は無事にこの夏休みを過ごすことができるのか?
急に倒れたりするんじゃないのか?
大丈夫だなんて、そんな保証はどこにもない。俺の抱いた希望はことごとく打ち砕かれてきたのだから。
そんな不安と日々戦いながら、俺は残りの数日を過ごした。
雪芽には毎日他愛ないことで連絡を取って無事を確認していた。
食事も喉を通らない。そんなことがあるかと思っていたが、本当に喉を通らなかった。
食べても味がしないし、少し食べただけですぐに腹が膨れた。
緊張で夜は眠れず、ただ1日が過ぎるのが、何日にも感じられたほどだった。
そうして迎えた21日。俺は再び緊張で震える手を何とか動かし、雪芽にメッセージを飛ばす。
やがて返ってきたメッセージを見て、俺は安堵のため息をこぼすことになる。
雪芽はまだ元気だったのだ。
そのことが嬉しくて嬉しくて。俺は意味もなく晴奈を呼び出して、頭を撫でまわして怒られたりしていた。
外はひどい台風だったが、俺の心の中は晴れ晴れとしていたんだ。
……でも、待てよ? と、少しだけ冷静になる。
雪芽はまだ元気で、寿命が延びていることは確かだ。それはとてもいいことだと思うし、俺が今まで努力してきたことが報われたことになる。
でも、だからと言ってこのループが終わるとは限らない。俺たちは雪芽の死を回避するために奮闘してきたが、ループを抜ける条件は分からず仕舞いなのだ。
油断は、まだできない。
雪芽が無事で、この夏休みを抜け出すことこそが、俺の目指す未来だ。
そこにたどり着くまでは、まだ油断はできない。手放しでなんて喜べないのだから。
――――
そして迎えた23日。
俺のすべてが狂い始めたこの日に、俺はスマホの時計を睨み付けていた。
23時57分。あと3分で夏休みが終わる、はずだ。
今日も雪芽は元気だった。メッセージでの確認では安心できなくて、電話まで掛けた。
雪芽は驚いていたが、それでもどこも悪くない様子だった。
俺の幻聴じゃない。元気な雪芽の声だった。
明日は学校だからちょっと緊張している、そう雪芽は言っていた。
俺も今まさに、緊張の直中だった。
不安、恐怖。そういったものが緊張となって俺を襲う。
体はガクガクと震えて、夏だというのに震えが止まらない。
呼吸が浅くなり、息を吸うたびに口が渇き舌で舐めるのだが、ただ舌はくっついて剥がれるだけで、うるおいは得られなかった。
余りに手が震えるので、スマホを持つこともままならず、膝の上に置いた。
それでも足が震えるので、仕方なくベッドの上に置いた。
今、23時58分になった。
俺は拳をきつく握りこむ。
汗が垂れて、目に入りそうになるのを拭った。
寒い。夏だというのに寒くて寒くて仕方がない。
それなのに汗はどこからともなく滲んでは流れ、俺の視界を遮ろうとする。
そして23時59分になった。
あと1分……。呼吸が荒くなる。
唾液を飲み込もうとして、ただ空気だけを飲み込んだ。
世界から音が消えてなくなる。
あぁ……! 頼む! どうか、どうかこのまま時が進んでくれっ……!
俺の汗が眉を伝い、目の横を掠めて、顎先から落ちた。
それはゆっくりと、スマホの画面に向けて落ちていく。
ポタリと、画面に当たってはじけた汗が、飛び散るその瞬間、スマホの時計が動いた。
――0時00分。
「…………え? 抜けた……?」
初め、俺は目の前に表示されている時間が信じられなかった。
日付は8月24日になっていて、さっきまで並んでいた数字はすっかり0になっている。
「ほ、ほんとに……?」
俺は部屋に置いてある時計を見た。
その時刻は確かに12時を示している。
それでも信じられなくて、俺は117に電話をかけてみる。
しかし、時報は確かに8月24日の午前0時だと言っている。
不思議な睡魔も襲ってこなかったし、俺は今もこうして意識を保っている。
「じゃあ、じゃあ本当に、本当にループを抜け出したのか……?」
その言葉は俺の全身を駆け巡り、やがてそれが本当なのだと実感を湧き上がらせる。
「やった……、やった……! やったやった! 俺はついにやったんだ!!」
それは、俺が待ち望んだ瞬間だった。
時は再び動き出したんだ……! この世界は、終わらない夏休みから抜け出したんだ!!
俺はスマホに飛びつき、電話をかける。
相手はもちろん決まっている。
コールが1回、2回となるたびに、早くしろ、早くしろと焦りが募る。
コールが5回目のあたりで、途切れた。
『……もしもし? 陽介、どうしたの?』
「…………雪芽か?」
『そうだけど、こんな時間にどうしたの?』
「……元気か? 生きてるか?」
『ふふっ、なにそれ? 電話に出てるんだから生きてるに決まってるじゃん』
「……本当に、どこも悪くないのか? 体が痛かったりとか、熱があったりとか」
『ないよ。ほんとにどうしたの? 私もうちょっとで眠れそうだったのに……』
少し眠そうで、不満そうな声。その声は、確かに雪芽のものだった。
「い、いや、雪芽、明日の学校が不安で眠れないのかなって思って、心配でさ……」
『確かに眠れなかったけど、今まさに眠れそうだったんだよ? 陽介が電話なんてしてこなければ!』
「ごめん……」
『まぁいいけど。それに、もう明日じゃないよ。日付変わったんだから、今日の学校だよ』
「日付……」
『そう、今日は8月24日だよ! 私が陽介の学校に転入する日! 緊張するけど、楽しみっ!』
「そう、か。そう、だよな……」
何か熱いものが、俺の頬を流れた。
それは次々に溢れてきて、止まることを知らない。
『……陽介? どうしたの?』
「……ッ、何でもない! 起こしちゃって悪いな! また明日、お休み!」
『あ、ちょっと――』
強引に電話を切って、俺は深く目を閉じた。
そうして目を閉じても、俺の目からはとめどなく、熱い何かが流れ続けていた。
それは頬を伝って、鼻先から、顎先から、零れ落ちていく。
「……雪芽が、生きている。雪芽は、生きているんだ……」
言葉にして得た実感は、俺にそれが真実だと伝えた。
雪芽が生きている。この夏休みが終わっても、雪芽は生きている……!
その事実が、嬉しくて、俺はずっと呟いていた。
その声は掠れていて、涙で濡れていた。
「よかった、よかった……! ほんとに、よかったぁ……!」
嬉しくて嬉しくて嬉しくて。
でも、涙は止まらなくて。
おかしいな。嬉しいはずなのに、雪芽が生きていて、夏休みが終わって、こんなに嬉しいはずなのに、涙が止まらない。
……おかしい。おかしいなぁ。涙が、止まんねぇよ……。
垂れてきた鼻水をすすって、溢れて止まらない涙を拭って、拭って。
それでも止まらなくて。目に手を当ててせき止めようとしても止まらなくて。
そんな涙と一緒に、思い出が、溢れてきた。
初めて雪芽が死んでしまった時の事。俺は悲しみに暮れて泣いた。
再会した雪芽を自分の手で殺してしまった時の事。つらくて死を選んだ。
晴奈に励ましてもらって、そして何も関わってないのに雪芽が死んでしまった事。絶望に身を沈めた。
それでも、晴奈や由美ちゃんが励ましてくれて、俺に人間らしさを取り戻してくれた。
夏希が道を示してくれて、俺に希望を与えてくれた。
飯島さんが解決策を提示してくれて、ここまでこれた。
そして、何よりも――
雪芽の笑顔が、俺をここまで支えてくれた。
その思い出が、俺を今まで生かしてくれた。
そんな風に笑える未来のために、俺は今まで歩いてこれた。
今までの、約10ヵ月と少しの思い出が、ずっと俺を支え、生かし、背中を押してくれた。
積み重ねた思い出は、辛く悲しいものも多かったけど、それだけじゃなくて。
笑いあったあの思い出は、確かに、俺の胸に息づいていたんだ。
その夜、俺は泣き続けた。
子供のように、ただ延々と、涙を流し続けた。
でもその涙は冷たく悲しいものではなく。
どうしようもなく嬉しくて流れる、温かい涙だったのだ。
――――
「よし、今日は転入生を紹介するぞー。入って来い」
山井田の声に、教室が騒めきだす。
高野あたりが言いふらしたのだろう。教室は朝から転入生の話題で持ちきりだった。
女子で、かなり可愛い。
そんな噂は俺の耳にも入ってきた。
まぁ当然俺は知っているわけで? 何の驚きもないわけだが。
転入生と知り合いで、なんでお前がこのクラスに!? 何てシチュエーションも、もはやあるわけもなく。
知り合いなんてレベルでの付き合いじゃないのだから、いまさら衝撃を受けることは何もない。
ちらりと夏希を見ると、あいつも俺のことを見ていたらしい。
目が合うと、夏希は楽しそうに笑った。
ドアが開き、細い足が一歩、教室の中に踏み込んだ。
騒めいていたクラスメイト達は、途端に静かになり、固唾を呑んでその様子を見守っている。
白のYシャツから除く肌は驚くほど白く、背の中ほどまで伸びた黒髪が、余計に目を引く。
整った顔立ちは男女問わず言葉を奪い、視線を他に逸らすことを許さない。
それは俺も例外じゃなかった。
……制服姿、初めて見たけど、すごく似合ってるじゃん。
「じゃあ名前を書いて自己紹介をしてくれ」
山井田の言葉に、彼女はチョークを手に取る。
少し筆圧の弱い字で、ちょっと薄くて読みづらい。
でも俺はその名前を知っている。
何度も聞いて、何度も呼んだ。その名前を。
彼女は名前を書き終わり、振り返る。
翻った髪の向こうに見えたのは、
池ヶ谷雪芽
彼女の名前だった。
「池ヶ谷雪芽です。東京から来ました。もともと体が弱くて、空気のきれいなこちらに引っ越してきました。これから1年間とちょっと、よろしくお願いします!」
そう言って礼をした彼女の表情は、笑顔だった。
緊張して、少し強張ってはいるけど。
そんな雪芽の笑顔を見て、俺は思わず顔を伏せた。
滲む涙を拭って、もう一度顔を上げる。
そこには笑顔で拍手を受け取る、雪芽の姿があった。
幻覚でも、夏の蜃気楼でもない雪芽の姿が、変わらずそこに、あったのだった。
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