第36話 泡沫の夢は一夜に咲いて散る
すっかり日も落ちてきた堤防を歩く。
目の前には4人の少女たち。彼女らは色とりどりの浴衣に身を包み、楽し気に笑っている。
俺はそんな彼女らを見て、いい得ぬ感動に包まれていた。
こうやってみんなでどこかに出かけて、雪芽があんなに多くの人に囲まれながら、楽しそうに笑っているのを見たのはいつぶりだろう。
気が遠くなるほど昔のことのように感じる。
それが、今はあんなに楽しそうに、元気な姿で、笑っていて。
……あぁ、泣きそうだ。
でも、こんな楽しい舞台で泣いてたらおかしい奴だもんな。だから涙はこらえなくては。
だから俺は微笑む。涙を流すのはもっと後でいいんだ。嬉しくて泣くのは、俺たちの未来が帰ってきたときなのだから。
「お兄ちゃん、次あれ食べたい! スクリューポテト!」
「おいおい、さっき焼きそば食べたばっかだろ? また食べるのか?」
「……何食べてもいいって言ったじゃん」
「そりゃそうだが……、あーもうっ! わーったよ、買えばいいんだろ! 買えば!」
次はあれ、次はこれと、片っ端から目についた食べ物を要求してくる晴奈に、いい加減にしろと言おうとしたところ、他の3人の突き刺すような視線を感じた。
全く、何でもおごってやるなんて言わなければよかった……。
ポテトを買って振り返ると、4人は何やら楽しそうに顔を突き合わせている。
……うん、表情は普段と何も変わらないんだけど、やっぱり浴衣だと雰囲気変わるよな。
晴奈のは去年も見たから分かるけど、由美ちゃんも随分大人っぽく見える。
浴衣の色は黄色と元気なイメージだが、髪を結わえてまとめていると、なんだか一気に大人っぽくなる。
……本当に、いつまでも子供じゃないんだな。寂しいような、嬉しいような。
夏希は最初会った時に見違えたほどだ。普段は制服か体操着ばかりを目にしているから、最初誰か分からないくらいだった。
あの夏希があんなに上品に見える日が来ようとは。
化粧をしているせいもあるだろうか?
そして雪芽、あれはちょっと似合いすぎて怖いくらいだ。
雪芽の着ている浴衣は、昔母さんが使っていたものらしい。
雪芽を誘ったところ、浴衣を持っていないという話で、母さんと晴奈が半ば強引に誘ったのだ。
その結果、雪芽は家に来て母さんに着付けをしてもらうことになった。
俺が一足先に夏希と合流したのは、話を聞いて駆けつけてきた由美ちゃんも合わせて、母さんが3人の着付けをすることになり、邪魔だから先に行けと放り出されたからだ。
しかし母さんが夢中になったのも分かる気がする。
白い浴衣は雪芽の肌の白さや、普段のイメージと合致していて、違和感がない。
それに、調子に乗った母さんが、少し化粧を施していたようで、薄く引かれた紅がいい意味で目を引く。
有り体に言うなら、まるで人形のようだ、と。
そんな雪芽に見入ってしまった俺を、誰が責められよう。
俺はそんな少女たちの元へ、召使よろしくポテトを運ぶ。
「ほらよ」
「ん、ありがと」
短い礼の言葉を述べ、晴奈は早速ポテトにかじりついていた。
「じゃあ陽介、私はあれね。射的」
「おいおい、あれまで俺がおごるのかよ?」
「ダメなの?」
そう言って少し寂しそうな顔をする夏希。
……今その表情はずるいだろ。分かっててやってるんじゃないだろうな?
「……しょうがねーなぁ! ほら、行って来い!」
「何言ってんの? あんたがやるのよ。何かとって私にプレゼントしてよ」
「はぁ!? 俺あんまり得意じゃないんだけど……」
それにこういう類の屋台ってのは、ある程度の物は取れないように加工してあるんだよなぁ。
ま、やれるだけやってみるか。
「おじさん、射的一回で」
「あいよっ! 500円な」
俺は500円と交換にコルクの弾を5発もらう。
それを銃に詰めながら、狙うべき的を定める。
夏希が欲しがりそうなものか……。なんだろう?
ゲーム機、は違うだろうし、現金も違うよな? キャラメルとかだと怒られそうだし……。
「ん? あれがいいかもな」
熊だか猫だか熊猫だか、なんだかよくわからないけど、何か動物のぬいぐるみがあった。
それ以外は男の子向けというか、エアガンとかゲームソフトとかで、大抵そういうやつは取れないようになっているから論外。
後はお菓子くらいしかないけど、それは持っていくと怒られるやつだ。プレゼントとは言わないとか言ってな。
となるとあのぬいぐるみがよさそうだ。
俺はぬいぐるみに狙いを定め、引き金を引く。
ポンッ、と間抜けな音がして、コルクの弾が飛んでいく。
それはぬいぐるみではなく、その隣のキャラメルタワーに当たった。
「はいおめでとう。キャラメル3つね」
おじさんが落ちたキャラメルを回収する。
何かとれたのはいいけど、俺が狙ったのはそれじゃないんだよなぁ。
もう少しよく狙おう。
次、その次と、弾を撃っていくが、ぬいぐるみに当たるものの、なかなか倒れない。
半ば諦めつつも、最後の一発を込め、限界まで伸ばした腕で引き金を引く。
飛んでいった弾はぬいぐるみの顔面に見事命中し、ぐらりと傾いた後、静かに倒れた。
「おっ、やった! おじさん、これで終わりだから景品ください」
「はいよ」
そう言って手渡されたのは、先ほど偶然にも落としたキャラメルだけだった。
「あれ? あのぬいぐるみも倒したんだけど」
「あれは倒れただけだろぉ? 落とさなきゃダメダメ」
「ちょ、そんなの聞いてないんですけど」
さっき、知らない女の子がやっているのを見ていたが、倒れただけのお菓子を景品として渡していた。
このオヤジ、俺が男だからって足元見てやがるな……?
「ちょっと、どうしたのよ?」
少し後ろの方でこちらを見ていた夏希が、様子を変に思ったのか近づいてきた。
「景品を倒したのに、それじゃあだめだっていうんだよ」
「え、倒したんだからいいじゃない! ダメなの? おじさん」
屋台のオヤジは夏希の顔を見ると、俺の時とは違う表情を浮かべた。
このエロオヤジ……。女子相手なら倒しただけで渡してたな?
「ダメなもんはダメなんだなぁ。残念だけど、もう一回挑戦してくれないと――」
「え! ダメなんですか? 私射的って倒せばいいものだと思ってたのに……」
おじさんの声を遮って、夏希の後ろから顔を出したのは、綿菓子を手に持った雪芽だった。
雪芽を見ると、屋台のオヤジは一瞬とんでもないものを見たような顔をして、後にへらへらと笑い始めた。
「そ、そんなわけねぇだろ! 冗談だ冗談! ほれ、持ってきな坊主」
そしてあっさりぬいぐるみを俺に渡しやがった。
こ、こいつ、そこはかとなくムカつくなぁ!
まぁいっか。こうして目当ての物は手に入ったわけだし。
「ほれ、夏希。ひと悶着はあったが、無事手に入ったお前へのプレゼントだ」
「ふ、ふーん、ぬいぐるみね。まぁ、もらってあげなくもないわよ?」
「……いらないなら雪芽にあげるぞ? これ貰えたのは雪芽のお手柄みたいなもんなんだから」
ちょっと上から目線の夏希に意地悪なことを言うと、雪芽と夏希は二人して慌て始めた。
「わ、私はいいよ! ただ少し口挟んだだけだし!」
「別に私もいらないわけじゃないわよ!? むしろ嬉しいっていうか……」
まったく、最初からそう言えばいいんだ。
「じゃあこれは夏希へのプレゼントだ。ほら受け取れ」
「う、うん、ありがと……」
ぬいぐるみを受け取った夏希は、少し恥ずかしそうにぬいぐるみを胸に抱く。
でもその顔には笑みが浮かんでいて。
なんだかんだと言いながら、こういう可愛いもの好きなんだな。初めて知った。
「じゃあ雪芽にはこれな。さっきはありがとう、助かったよ」
隣で夏希を微笑ましく見つめている雪芽に、キャラメルを手渡すと、雪芽は一瞬驚いた表情を浮かべて、その後に笑った。
「……うん! じゃあ有り難くもらっちゃうね。ありがと!」
「いいのよユッキー。今日はこいつのおごりなんだから、食べたいものとか、やりたいこととか、遠慮しなくて」
「おい、俺の財布も無限に肥えてるわけじゃないんだぞ?」
雪芽はそんなやり取りを見ながら嬉しそうに笑う。
「ううん、私はもう十分やりたいことやってるよ? こうして友達皆でお祭りに来るなんて、私にはあまり縁のないものだったし、今こうして皆でいられることがとっても楽しいの」
それは、笑顔で言うにはあまりに切ないことで。
昔の雪芽のことはあまり知らないけど、体が弱かったせいもあって友達も少なかったのだろう。
だからきっと、こんな風に友達と祭りに来るのなんて数えるほどしかないはずだ。
夏希も同じような考えに至ったようで、沈痛な面持ちをしている。
でも雪芽は、過去を思い出して悲しんでいるんじゃない。今を見つめて、楽しんでいるのだ。
だったら、俺たちが重苦しい顔をしててもしょうがないだろ。
雪芽を見ると、彼女は微笑む。
それは花火のように、どこか儚くて、通りを行く人々や、この祭りの喧騒全てを背景にしてしまうくらい、美しかった。
「じゃあさ、食べたいものは? なにかあるだろ」
俺がそう尋ねると、雪芽は少しだけ考えるそぶりを見せた後、思い出したように言った。
「たこ焼き! 私たこ焼きが食べたい!」
「じゃあ買いに行くわよ! ほら晴奈ちゃんに由美ちゃんも、次はたこ焼きよ!」
「え、たこ焼きですか!? 食べたいです!」
「えぇ!? そんなに食べて太らないかなぁ……。ねっ、陽介さんはどう思います?」
「いや、そう言われても……」
賑やかに、俺たちは歩き出す。
その中心で、雪芽はやっぱり笑っていて。
俺はその光景を見て、やっぱり泣きそうになってしまうのだ。
……こんな時がずっと続けばいいのに。
ずっと雪芽が、みんなが、楽しそうに笑っていられたらいいのに。
でもそれは叶わない。
きっとこれは夏の幻。
でも、その幻に、俺の心は支えられているのだから。
だから今だけは、せめて今だけは、こんな幸せな夢を見させてくれ。俺も一緒になって笑わせてくれ。
覚めてしまえば悲しくても、切なくても、今だけは――
「ほら、陽介。早く行こう」
「あ、ああ。行くか」
雪芽に声をかけられて、俺は慌てて歩き始める。
「ねぇ、陽介」
「ん? なんだ?」
「お祭り、楽しいねっ!」
振り返って笑う雪芽を見て、俺は目頭が熱くなるのを感じていた。
それはなんてことはない光景で。
でも、いつ脆くも崩れ去ってしまうかわからないからこそ、尊かった。
「……ッ! あぁ、そうだな! すっげ―楽しい!」
こみ上げてくるものを抑え込んで、俺は満面の笑みを浮かべる。
今泣いてしまえば、俺はきっと泣き続けてしまうから。満足してしまうから。
この夏休みが終わるまで、俺は泣いてはいけないんだ。満足してはいけないんだ。
俺は大きく息を吸うと、顔を上げる。
そうして見えた景色は、少しだけ、ぼやけて見えた。
――――
「そろそろ花火上がるってさ。場所取らないと」
たこ焼きを購入したところで、夏希がそう言った。
確かに、人が一斉に流れていっている。そろそろ俺たちも移動しないと、いい場所がなくなっちまうな。
「よし、幸いたこ焼きは熱々だ。少し冷ますつもりで移動しよう」
「「賛成ー!」」
全員の賛成を得て、俺たちは群衆に交じって移動する。
何度かはぐれそうになったが、誰一人はぐれることなく、河川敷に到着した。
俺たちは人があまりいない土手にシートを広げ、腰を下ろす。
「花火楽しみだね。その前にたこ焼き食べよう!」
「あ、私も食べたいです!」
「じゃあ晴奈ちゃん、あーんして、あーん」
「え!? そんな、恥ずかしいです……」
「いいじゃん! なんだか姉妹みたいだし!」
「そういうことなら……、あ、あーん……」
そんな風に雪芽はたこ焼きを楽しんでいた。
晴奈もなぜか顔を赤らめて嬉しそうだし。まぁいいんだけどさ? 二人が仲良しなのは。
でも晴奈は俺の妹なんだからな? 雪芽の妹ではないんだからな?
「ほらっ、陽介もあーんして!」
俺がたこ焼きおいしそうだなぁーと思って見つめていると、雪芽が唐突にたこ焼きを一つ取り出し、俺に差し出した。
しかし、そのあーんしろってのは何だ? もしかして俺に食べさせる気なのか!?
「ちょちょ待て! 俺は一人で食べられるからいいだろ!?」
「いいじゃん! 私こういうの憧れだったの。友達と食べさせ合いっこするの」
そう言われると断りづらい……。
俺は観念して口を開く。
「あ、あ~ん……。むぐ、ん、うん。うまいな」
とか言いつつ、味はほとんどわかってない。
なんだか緊張して食感しかわからない。
「えへへっ、じゃあ次はわたしが食べる番ね」
「……え? まさか俺が食べさせるわけじゃないよな?」
「もちろん陽介に食べさせてもらうんだよ!」
マジかよ!?
彼女もいたことない俺にいろいろ求めすぎじゃありませんかね!? それはもう友達の範疇を超えているように感じるんだが!?
だが俺も男の端くれ、一度乗り掛かった舟から降りる真似はしない。バシッと決めてやる!
「じゃ、じゃあ行くぞ……。あーん」
「あ~ん……。はむっ、うん、うん! おいしいね! ……でも、食べてる姿をそんなに見られると、ちょっと恥ずかしいかも……」
「あっ、すまん……」
……バシッとは決まらなかったな。なんかこっちまで恥ずかしくなってきたぞ。
「あー! 雪芽さんだけずるいです! あたしも陽介さんから食べさせてもらいたいです!!」
「あ、それいい! じゃあなっちゃんと晴奈ちゃんも陽介に食べさせてもらおうよ!」
「わ、私は別に……!」
「あたしも別に雪芽さんに食べさせてもらえば十分です!」
そんな風に状況が混沌としてきたところで、辺りにに大きな音が鳴り響き、周囲が
皆が何事かと音の方を向くと、光の玉が天高く昇っていくのが見えた。
それはゆっくりと減速して、やがて中空に止まると、大きな光の花を咲かせた。
一瞬遅れて大きな音があたりに
俺はそれに目を奪われた。
光が、踊っている。
噴出す火の噴水が、打ち上がって空に咲いた花が、花が残した微かな残滓が、様々な色や音、形をして一瞬の後に消えていく。
それはほんの一瞬だけ、この夜空に咲いて、人々の目を楽しませた後に散っていく
「わぁ……! きれい……」
隣で呟く雪芽の声に、俺は目を向けた。
雪芽はまるで子供のように、口元に笑みを浮かべ、瞳の中に花火を映しながら、ただ夜空の花に見入っていた。
俺も、もう一度空を見上げる。
また一つ、花が咲く。
それは儚くも、今この瞬間夜空に浮かぶ何物よりも、美しかった。
きっとそれは、
でも、その夢から覚めても、人々の心には、記憶には、確かに存在する。夜空に咲いた美しい花は、誰かの胸に、きっと残っている。
だから、今はこの夢の中で、覚めた後にも残る何かを刻み込もう。己の心に、記憶に。
「ね、陽介。とっても綺麗だね」
「……あぁ、この世界の何よりも、綺麗だと思う」
俺はその時、雪芽の顔を見れなかった。
きっと今の雪芽の笑顔を見てしまったら、俺は泣いてしまうから。
だから必死に夜空を見上げた。
次々に咲いては散る一夜花を、俺はずっと見つめていたのだ。
――――
結局、花火がすべて終わった後、全員にたこ焼きを食べさせ、食べさせられる羽目になった。
忘れてくれていると思ったのだが、由美ちゃんと雪芽がしっかりと覚えてやがって、散々苦労した。
たこ焼きは冷めていたし、冷たいはずだったのだが、どうしてか、体は熱かった。
帰り道も、皆は終始楽しそうで。
寂しいのは俺のお財布の中身だけだった。
駅に着くと、皆それぞれ迎えに来た親の車に乗り込み、帰路につく。
当然俺もそうだと思っていたのだが、母さんは俺に向かって一言。
「あんたは歩いてきなさい。雪芽ちゃんの着替えを覗きでもしたら大変だからねぇ」
そう言って俺を置き去りに、雪芽と晴奈だけを乗せて行ってしまった。
「……まぁ、いいけどさ。ちょっと涼んでから帰りたかったし」
そう独り言ちリ、俺は歩き出す。
蛙や鈴虫、コオロギたちの大合唱を聞きながら、俺は星を見て歩く。
……占いの結果がよかったら、今度雪芽をキャンプに連れて行こう。
確か家に父さんのキャンプ道具や、望遠鏡があったはず。それを使って天体観測をしよう。
きっと楽しい夏休みになる。
お盆だって、きっと無事に過ごせるさ。
……わかってる。そんな保証はないってことくらい。
でも、今日くらいは、今夜くらいはさ、そんな夢を見てもいいじゃないか。
こんな平凡な日常が、他愛のない日々が、ずっと続いていく夢を。
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