第22話 川遊びの時は急流に注意

 あれから7日が経って、今日は8月8日。

 お兄ちゃんは未だ一人で外に出れないようだった。


 あのバカ兄貴、何か事情があるみたいだけど全然話してくれないし。

 夏休みに入るまでは普通だったのに、夏休みに入った途端おかしくなった。


 まるでこの世の終わりみたいな顔で、一晩で大切な何かを失ったような、そんな雰囲気をしている。



 虚ろな目で日々テレビを見るお兄ちゃんを見ていると、なんだかどこか遠くへ消えてしまう気がして。

 このまま家の中にいたら、真っ黒な何かに飲み込まれてしまう気がして。

 だから連れ出したんだ。あの日、外に。


 その時はよかった。少しだけ目に光が戻って、話す言葉も少し元に戻った。

 でも、それは一時的なもので、今では前と同じようにぽっかり穴が開いたようにボーっとしている。



 今も電話が鳴っているが、バカ兄貴は出ようともしない。

 ボーっと、無関心にテレビを見ている。


 仕方がないので、あたしが出ることにした。


「もしもし、柳澤です」

『こんにちは、陽介君の担任の山井田です。陽介君はいますか?』


 お兄ちゃんの担任の先生からだった。

 多分要件はいつもと同じだろう。


「いるにはいるんですが、あまり調子が良くないみたいです……」

『そうですか……。補習の件で電話させていただいたんですが、また日を改めて電話します』

「はい、すみません。お兄ちゃんには言っておきます」


 そうして電話は切れた。

 こんなことがここ何日も続いている。



 あのバカ兄貴、補習をサボってばかりで、家に引きこもってるんだもん。


 バカ兄貴は確かにバカでアホだけど、授業とか、補習とか、そういうのはしっかり行く人だ。

 なのに夏休みに入ってからずっとこんな調子で電話にも出ない。

 どうしたんだろ、ほんとに……?


「お兄ちゃん、また先生から電話きたよ。補習に来いってさ」

「……あぁ」

「お兄ちゃん、聞いてる?」

「……あぁ」

「はぁ……」


 こんな感じで会話もまともにできない。

 やっぱり家の中にいたらだめになるみたい。

 外に連れ出さないとダメかなぁ?



「よし!」


 あたしはそう気合を入れると、スマホを取りに自室に戻る。

 そんなあたしの背中を見つめる虚ろな視線を感じながら、あたしは焦燥感に駆られていた。


 このままじゃやばいって感じがした。具体的にといわれると困るけど、やばいって感じる。


 だから多少強引にでも外に連れ出して、いろんな人と話をさせないと。

 そうしないとお兄ちゃんはぽっかり空いた穴の中に落ちて行っちゃう。


 あたしだけじゃ手が届かないなら、他の人に手伝ってもらえばいいんだ。

 だから少し不服だけど、由美の手を借りることにする。


 由美はお兄ちゃんのことを話しに出すと食いついてくるから、多分大丈夫。



『由美、ちょっと頼みごとがあるんだけど。お兄ちゃんのことで』


 メッセージを送信して、あたしはスマホを片手に台所に戻る。

 その途中でスマホが震えた。


『なになに!? なんでもするよん!』

「ふっ、ちょろいな、由美」


 想像以上にいい反応だったので、思わず変な笑いが漏れた。


『今度いつ暇?』

『明後日なら大丈夫かも。いや、大丈夫にする!』


 あたしはそのメッセージを確認して、バカ兄貴のところに戻る。


「お兄ちゃん、明後日暇? 暇だよね。ちょっとあたしに付き合ってもらいたいんだけど」


 あたしがそういうと、お兄ちゃんはめんどくさそうにこちらを向く。

 その目はやっぱりどこまでも深く、暗く、目を合わせていると吸い込まれてしまいそうで少し怖かった。


「……またそれか? 今度はなんだ」

「由美と一緒に川に行きたいの。二人だけだと危ないし、お兄ちゃんに引率してもらいたいなぁって」

「そんなの、二人だけでもいいだろ。もう中学生なんだから」

「溺れたりしたらどうすんの!? いいから予定空けておいて! んで、水着用意しといて!」

「おい、勝手に――」


 あたしは言いたいことを言うと、お兄ちゃんの言葉を最後まで聞かずに背を向ける。


 そして、スマホを開いて由美にメッセージを飛ばす。


『んじゃ明後日お兄ちゃんも誘って川行くから。水着用意しといて』

『え、うそでしょ!? まだダイエットしてないからムリ!』

『明後日までに済ませておいて。じゃあまた』


 そこまで書き込むと、あたしはスマホの通知を切った。

 由美は何のかんのといいながら、結局来るんだから、ほっといても問題ない。

 問題はあたしの水着なんだけど……。


「まいっか。どうせお兄ちゃんと由美しかいないんだし」


 田舎の川なんて誰も来ないし、別に誰に見せるわけでもないんだから。

 むしろ水着が急流に流されていっちゃうほうが問題だよ。兄妹とはいえ、もう裸を見せるわけにはいかないし。


 そうしてあたしは特に何の準備もせずに明後日を待つのだった。





 ――――





「きたよー!」


 あれから2日後の8月10日。チャイムの音がして玄関に向かうと、由美が立っていた。


 随分とおしゃれしてるけど、これからすぐ川に行くんだよ? 意味なくない?


 川はここから徒歩10分くらいの距離にある。

 その短い距離を移動するだけなのに、随分と気合い入れてきたなぁ……。


「あのねぇ、そんなに気合い入れても多分バカ兄貴は気づかないと思うよ? 今相当きてるみたいだから」

「なに、そんなにひどいの? 陽介さん」

「まあね……。とりあえず見てもらったほうが早いかも」



 由美には事前にお兄ちゃんの様子を伝えてあった。

 それでもこうして付き合ってくれるんだから、由美はいいやつだ。


 まぁ、由美には他に思惑がありそうな気もするけど、それがうまくいくとは思えないなぁ。



 あたしがお兄ちゃんを呼んでくると、あいつは相変わらず虚ろな目でボーっとしていた。


「こんにちはっ、陽介さん!」

「あぁ、由美ちゃんか。こんにちは」


 由美が声をかけると、思い出したように返事をする。

 少し目に光が戻ってきたかな?



「じゃ、出発!」


 お兄ちゃんに全員分の荷物を持たせて、あたしたちは川へ向けて出発した。

 お兄ちゃんはというと、あたしたちの後ろをゾンビみたいにふらふら付いて来る。


「ほんとにやばそうだね、陽介さん」

「だから言ったでしょ?」

「う~ん、ウチらで何とかしてあげられないかなぁ?」

「どうかなぁ? 何が原因かもわかんないし、今は話しかけるくらいしかできないでしょ」


 そういうと由美は後ろを振り返って微笑む。


「陽介さん! あたし、今日のために水着を新調したんですよ!」

「ん、あぁ。そうなのか? 楽しみにしておくよ」


 バカ兄貴が少し遅れて返事をする。

 すると、由美はあたしのほうに向き直って一言。


「うん、やっぱり様子が変だね」

「いや、多分普段でもあんな反応だと思うけど」

「いや、普段の陽介さんなら俺のためにわざわざありがとう! 今日もかわいいね! ってつけ足してくれるしっ!」


 いや、そんなこと言わないって。

 てかそんなこと言えてたら今頃彼女と遊びに出かけてるでしょ。


 でもやっぱり、由美に声かけて正解だったかも。

 だってお兄ちゃん、また少し普通に戻ってきてるし。



 そんな風に時々声をかけながら歩いていると、あっという間に川についた。


 ここは昔、たまに遊びに来たスポットで、川の上流だ。


 大きな岩が天然の滑り台になっていて、飛び込んでも大丈夫なほど深い場所もいくつかある。

 場所を選べば流れも急じゃないし、十分子供だけで遊べるスポットなのだ。



「とうちゃーく! お兄ちゃん荷物おろして」

「はいよ」


 家にいた時よりも大分ましな顔になってきたお兄ちゃんは、さっきよりも早い反応を示した。


 そして荷物を渡すとバカ兄貴は何を思ったのかそのまま突っ立っていた。


「ちょっとお兄ちゃん……」

「ん? どうした、俺何かしたか?」

「いや、着替えるからあっち行ってて」

「おぉう、そうか。わりぃわりぃ」


 まあ、あたしも由美も、服の下に水着を着てるからそこまで気にしなくてもいいんだけど、なんか嫌だし。



 そうしてバカ兄貴を遠ざけて、あたしたちは服を脱ぐ。


「え!? 晴奈の水着ってそれ!?」

「ん? 何かおかしい?」

「いや、まあ、晴奈がそれでいいならいいんだけどさ……」


 あたしが水着に着替え終わると、由美は驚いたようにそう言った。

 別にいいじゃん、由美とバカ兄貴しかいないんだし。



「お兄ちゃん、もういいよー!」

「おーう」


 呼ぶと、少し間抜けな返事が聞こえてきた。


 少ししてバカ兄貴がやってくると、あたしを見て頷き、由美を見て感嘆の声をあげた。

 まあ、あたしの水着を見て感想を言って欲しいわけじゃないし、いいんだけどさ。なんか格差が気になる。



「由美ちゃんは随分と攻めた水着だね~。可愛いフリルのビキニか。こりゃクラスの男子は皆いちころだね」

「えへへ、ありがとうございますっ!」


 バカ兄貴が感心している由美の水着は、確かにあたしから見ても攻めてると思う。

 それもこんな田舎の川で着る水着じゃない。流されないか心配だ。



「それで、晴奈はなんていうか、……スクール水着か」

「な、なに? 別にいいでしょ!? お兄ちゃんと由美しかいないんだし!」

「ま、まあそうだな。俺たちだけだからそれでもいいか」


 そうだよ、由美がおかしいんだって!

 見ればバカ兄貴も去年の水着だし、普通はそんなもんだって!



「それで、あたしの水着を見て、陽介さんはいちころですかぁ?」

「え、あぁ、うん。可愛いと思うよ」

「そういうことじゃないんですけど……」


 見事思惑を外した由美、哀れだ……。



 それからあたしたちは川で遊び始めた。

 最初は川の水の冷たさに騒いで、慣れてきたら岩を滑り台にして、深いところへウォータースライダーのまねごとをして遊んだ。


 お兄ちゃんはそんなあたしたちを岩の上から見守っていて、全然遊んでいなかったので、あたしたちで無理やり川の中に引きずり込んだ。

 最初は渋々といった様子だったが、徐々に笑顔が増えていって、目の奥にあった暗闇は鳴りを潜めた。


 それを見て、あたしたちは安心して川遊びを続けられたのだった。



「きゃあっ!」


 しばらく川への飛び込みで遊んでいると、由美の悲鳴が聞こえてきた。

 あたしが見たときにはすでに、由美はバカ兄貴に抱き着いていた。


 まさか、と思ってみてみると、先ほどまで由美がつけていたフリルのビキニが流れに乗って下流へと流れていた。


 あーあ、やっぱり。だからあたしみたいにスク水にしとけばよかったんだよ。



「ちょちょ、由美ちゃん!?」

「ごご、ごめんなさい! 少しだけ背中貸してくださいっ!」


 声の方を見れば、由美がバカ兄貴の背中にくっついていた。


 なにやってんの!? あの二人は!


「こらっ! あたしの目の前で何やってんの!?」

「い、いや、好きでやってるわけじゃ――、って由美ちゃん!? なんでそんなにくっついてくるの!?」

「だ、だって、陽介さんに見られると恥ずかしいし……」

「この状況のほうが恥ずかしいでしょ!?」

「もーっ! 離れろっー!」


 由美はなんか嬉しそうだし、バカ兄貴は鼻の下伸ばしてあたふたしてるしっ!

 いや、バカ兄貴のほうはこの状況を飲み込めずにあたふたしてるだけかも。

 でもちょっとは鼻の下伸ばしてる気がするっ!



「は、晴奈! 由美ちゃんの水着をとってきてくれ! あのワンドにある!」


 バカ兄貴が指さすほうには、川の流れから外れた、水の流れのないところに漂う由美のビキニトップがあった。


「なんであたしが……」


 バカ兄貴や由美の位置からは距離もあるし、あたしが今唯一自由に動けることを考えると仕方のないことなのだが、なんだか釈然としない。



「陽介さん、これって漫画みたいですよねっ」

「由美ちゃん楽しんでない!?」


 むむむっ……。なんか楽しそう。


 まあ、バカ兄貴の顔に生気が戻ってきたからいいけどさ……。

 うぅ~、やっぱりよくない! なんかこう、なんかなんだけどっ!



 あたしが急いで水着を持って帰ると、由美はバカ兄貴に密着して、耳元で何やら囁いていた。


「ど、どうですか? あたしの胸。クラスじゃ一番おっきいんですよ?」

「いやいやいや! どうしたの由美ちゃん!? 今日なんか変だよ!?」

「だって、こんな機会そんなにないですし、恥ずかしいけど、陽介さんにはこれくらいしないとっ!」

「いやなんのことだよ!?」


 由美は顔を真っ赤にしながらバカ兄貴に胸を押し付けている。

 バカ兄貴は全身をこわばらせて相変わらずあたふたしている。


「そこっ! いい加減離れろー!」


 あたしはバカ兄貴と由美を引きはがし、由美に水着を渡す。

 それから由美が水着をつけなおすまでバカ兄貴を見張っていたけど、その間由美はぶつくさ呟いてて、バカ兄貴は固まったままだった。



 それから変な空気になったし、ちょうど夕方ということで帰ることにした。

 その道中、由美は自分が何をしたのかようやく自覚し始めたのか、頭から湯気が出るんじゃないかというほど顔を赤くしていた。

 バカ兄貴も耳を赤らめてだんまりだった。


 それを見ているあたしは、なんだか複雑な気分だった。


 お兄ちゃんに彼女ができようが関係ないって思ってたけど、なんか、少し嫌だな。

 それが由美だからなのか、由美かどうかは関係ないのかはわからないけど、なんかモヤっとする。




 なんでだろう。




 あたしはお兄ちゃんを好きとか、そういうんじゃないと思う。

 確かに仲はいいと思うけど、それは兄妹としてのものだ。

 だからあたしはお兄ちゃんの彼女になりたいわけじゃない。そんなの想像するだけで気持ち悪いもん。




 でも、なんでだろう。やっぱりモヤっとする。




 あたしはそんなモヤモヤの正体を突き止める前に家についてしまった。



 由美はバカ兄貴の顔を見ることなく帰っていった。

 ちゃんと帰りつけるか心配だ。


 バカ兄貴はやっぱりずっとだんまりで、家に帰っても耳が赤いままだった。

 家を出る前と違う意味でボーっとしていた。


 でもその目は虚ろじゃなくて、命の光が灯っていた。



 あたしのモヤモヤの正体はいつか分かる。だから今は手の焼けるバカ兄貴が元気になってきたことを素直に喜ぼう。


 そうだ、由美には感謝しないとね。

 確かにあれはやりすぎだったけど、でも結果的に良かったし、お礼はちゃんと言わないと。


 うん、だからあともう一押しだよね。全く手の焼けるバカ兄貴なんだから。



 あたしはひとまず自分のことを置いておいて、お兄ちゃんのこれからを考えていた。

 次はどうやって連れ出すか、誰を誘おうか。

 そんなことを考えて、夜は更けていくのだった。

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