第21話 最初の一歩はコンビニに向けて

 目が覚めた。


 でもそこは病院ではなくて、いつも眺めていた俺の部屋の天井が広がっていた。




 ……死んでない?




 俺は自分の頭部に手をやる。

 そこにグルグルと巻き付けられた包帯はなく、以前と変わらない俺の頭があった。


 慌てて起き上がってふくらはぎを確認する。

 あの日、ペダルを踏み外して擦りむいた傷があるはずだ。


「……ない」


 まるで魔法のようだ。

 俺の体中にあった傷はいつの間にか消えていて、死んだはずの俺は今こうして生きている。




 おかしい、何かがおかしい。




 俺はスマホを確認した。

 スマホのホームに設定しているウィジェットには、今が7月27日の9時20分であることが示されている。


 おかしい。だって、俺が死んだとき、ニュースでは8月22日だと言っていた。

 それがどうして7月27日に戻っているんだ。



 ……あぁ、そうか。


 やっぱりこれは夢だ。悪い夢だったんだ。


 雪芽が病気で死んでしまうのも、俺を忘れてしまったのも、電車に轢かれてしまうのも、全部、全部。


 だから俺が今から駅に行けば、きっと雪芽は笑って出迎えてくれる。

 俺の名前を呼んで、また遅刻だと言って、俺をたしなめてくれる。


 そうだ、そうに違いない! だってこれは夢で、雪芽は死んでなんていなくて、俺も死んでいないのだからっ!



 そう思い立つと、俺はベッドから勢いよく飛び出した。

 しかし、俺はそこで思い至ったのだ。


 ……いや待て、今日が7月27日? これがもし正しかったとしたら、俺はまだ雪芽と出会っていない……?

 もしそうだとしたら、雪芽はやっぱり俺を知らないままなんじゃ……?



 そう思ったら、急に怖くなった。

 雪芽に会うことが、外に出てそのことを確認してしまうことが。


 俺は勢いよく布団にもぐる。


 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!

 またあの目で見られることが、彼女の顔を見たら、辛い思い出が溢れて止まらなくなることが。



 きっとまだ夢の中なんだ。もう一度寝たら、もう一度目覚めたら、きっと元の現実に戻る。

 その現実では雪芽は死んでなんていなくて、俺と友達のままで。

 だからもう寝よう、もう目覚めよう。


 そして、俺は布団なのかで目を閉じた。

 きっと目覚めたその世界は、現実だと信じて。





 ――――





 結局、何度目が覚めても、俺の現実はやってこなかった。


 スマホの時計は着々と時間を進めていて、気が付くとあっという間に5日が経っていた。


 今日は8月1日。テレビのニュースもそう言っていた。

 毎日、過去に見ていたものと同じ内容が流れている。



 夢か現か……。いよいよわからなくなっていた。

 ……でも、もしこれが現実だとしたら、俺が雪芽と友達になったあの1ヶ月は嘘になる。あれこそが夢ということになる。


 いやそんなはずはない。確かにあの時雪芽は存在していた。現実にいた。

 あの手のぬくもりが、あの笑顔が、棺桶の重さが、骨の熱さが、嘘であったはずがない。夢であったはずがない。


 だが、現実であるなら、なぜ俺は生きている?

 俺は確かにあの時自ら命を絶った。そのはずだ。

 雪芽のいる世界に行くために。いや、逃げるためか。

 どちらにしても、確かに俺は一度死んでいる。


 じゃあ、俺は死んだのに生き返ったのか……?



 ……いや違う。のだろう。

 雪芽と出会う前の7月27日に。


 だが、雪芽が病気で死んだ時、俺は死んでいないのにこの日に戻ってきた。




 雪芽が死ぬか、俺が死んだとき時間が巻き戻る……?




 そう考えると辻褄が合う。

 雪芽と友達になったあの1ヶ月が夢でないとしたら。俺が死んだ昨日までの日々が夢でないとしたら。今こうして何事もなかったかのように朝を迎えているのが、夢でないとしたら。


 そのすべてを現実だと言うのなら、そう考えることしかできない。

 じゃあ、俺は死ぬこともできずに、永遠に雪芽がこの世を去るのを見送り続けなくてはいけないのか?



 その事実は、俺を絶望の淵に叩き落した。


 そんなの、辛すぎる……。

 雪芽の死を乗り越えることも、目を背けることもできないなんて。

 俺には、耐えられないよ……。


 俺の頭の中はぐちゃぐちゃだった。

 何がどうなっているのか、もうわからなかった。



「どうしろってんだよ……」


 俺は台所で独り言ちる。


「補習に行けばいいじゃん。サボるとサボっただけ後で行きづらくなるよ?」


 俺の独り言に返したのは、晴奈だった。

 俺は晴奈の顔を見ると、少し申し訳なくなる。


 あの時、雪芽が病気で死んでしまった時、俺は晴奈にもうどこにも行かない、一人にしないと言ったのに。

 俺は雪芽を失った辛さから逃げるために自ら命を絶った。

 それだから、この5日間、晴奈の顔を見るたびに罪悪感に駆られてきた。



「……あぁ、これでまた行きづらくなったな」

「お兄ちゃん、どうしたの? 夏休みが始まってからなんか変だよ?」

「……俺の夏休みは何回始まるんだろうな」

「え?」

「なんでもない」


 怪訝そうな表情で、晴奈は俺を見る。



 あれから俺は発狂したりはしていない。

 そんなことをする気力すらもう残っていないのだろう。

 ただ死んだように、眠っては起きてを繰り返す日々。もう何も、する気にならない。


 いっそ狂ってしまえば、楽になれるのだろうか……?

 この地獄から、俺は救われるのだろうか……?



 何回か既定の回数死ねば、俺はついに死ねるのだろうか?

 でも、あの苦しみをあと何度も味わうなんてこと、俺にはできない。


 怖いのだ、単純に。死ぬことが、苦しむことが。

 でも、雪芽を失うことはそれ以上に怖い。

 だから俺はその二つの恐怖に板挟みにされて、今はただ家に引きこもっていた。


 外に出たら雪芽に出会ってしまうかもしれない。

 雪芽は俺を知らなくて、そのことが悲しくて、俺は正気を保てないかもしれない。

 そうしたらまた雪芽が死んでしまうかもしれない。

 俺が彼女に関わらなければ、彼女は死なないのかもしれない。


 そんな風に考え出すと、俺は怖くて外に出れなかった。

 あれほど会いたいと願った雪芽に、会うことが怖かった。




「……俺は、弱い奴だな」




 自嘲の笑みとともに吐き出された言葉に、思わず泣きたくなった。

 なんて情けないのだろう、俺は。

 雪芽の死を乗り越えたつもりでいて、二度目の死を目の前にして俺は死を選んだ。


 きっとそんなことをしたと、かつての雪芽が知ったら怒るだろう。

 悲しみから逃げるために大切な命を無駄にするなと。

 楽になるために、晴奈との約束まで破って、と。



「ねえ、お兄ちゃん今日暇? 暇だよね。だって補習サボってるのにボーっとしてるだけだし」


 俺が自己嫌悪の渦に飲み込まれそうになっていると、晴奈が見かねたように声をかけてきた。


「なんだよ、確かに暇だけど……」

「じゃあきまりね! 今日はあたしに付き合ってもらうから!」

「はぁ? 今はそんな気分じゃ――」

「いいからっ! 今のお兄ちゃんはそうしてちゃダメなのっ! とにかく外に出て、新鮮な空気を吸わなくちゃダメ!」


 晴奈は強引に俺の手を取る。

 その手は小さくても温かくて、俺の手はこんなにも冷たくなっていたのかと驚いた。


「ほらほらっ、すぐ出かけるから支度して!」

「んだよ……」


 口では嫌そうに言ったが、それでも俺は救われていたのだ。

 外に出ることが怖かったのに、こんな状況でも変わらずにいる晴奈の態度に、その手の温もりに、確かに恐怖が和らぐのを感じていた。


 晴奈に引っ張られて、俺は立ち上がる。

 凝り固まっていた氷が溶けていくような、そんな錯覚をした。

 じんわりと温かくて、徐々に体が解きほぐれていく。



 この時、俺の視界は少し、ほんの少しだけだが、開けたのだ。





 ――――





「……何でここなんだよ?」



 俺と晴奈は外に出た後、歩いて最寄りのコンビニまでアイスを買いに行った。

 歩いて30分。コンビニとは何なのか考えさせられる時間だが、夏の日差しの中、手に入れたアイスをもってたどり着いたのは昔よく遊んだ公園だった。


「昔遊んだでしょ? それにこの時間なら誰もいないし」


 それは理由になってないと思うんだが……。


「日陰もあるし、ちょうどいいじゃん。ここで食べてこうよ」

「まぁ、暑いしな。アイス食べるのには賛成だ」


 公園といっても多くの遊具があるわけではない。

 ベンチと、それに日陰を落とす、ツタ植物で作られた天然の屋根。

 後は砂場と乗れるけど前後には動かない何かの動物のオブジェ。それくらいしかないさびれた公園だ。



 昔は晴奈と俺、由美ちゃんとかでここで遊んだものだ。

 こんなさびれた公園に来るのなんて歩き疲れたおじいちゃんおばちゃんくらいのものだったから、俺たちだけの公園だった記憶がある。


 大概は少し遊んだ後で俺たちの家に移動したんだっけ。

 懐かしいが、あえてこの場所に来る理由なんて思いつかなかった。



 俺たちはベンチに腰掛け、各々購入したアイスを取り出す。

 それを半分ほど食べたあたりで、晴奈は口を開いた。


「ここ、懐かしいよね。昔は由美も一緒によく遊んだし」

「今じゃもう由美ちゃんと遊ぶこともなくなったけどな」

「もうあたしたちも中2だよ? いろいろあるんだって」

「……いろいろってなんだよ」

「お兄ちゃんにもあったでしょ? いろいろ」


 それはあれか、色恋沙汰のことか?

 晴奈にも男ができたってことか? そういうのはまずお兄ちゃんを通してだな……。


「あ、なにその顔? 嫌なことでも思い出した?」


 いたずらっぽく笑う晴奈。

 全く、とんだ勘違いだが、そういった所だけは一丁前に女子なんだな。



 晴奈もそうやって大きくなって、女になっていくのか。

 嬉しいような、寂しいような、誇らしいような、心配のような、複雑な気分だ。

 でもそれは、きっと幸せなことだ。

 いざとなれば俺が守ってやるし、きっと幸せなことになるはずだ。


「ちげーよ。晴奈も大人になってるんだなって思ってさ」

「なにそれ? セクハラ?」

「ははっ、妹にセクハラなんて言われるとは思わなかった」


 俺が笑うと、晴奈はそれを見て嬉しそうに笑った。


「ようやく笑った。お兄ちゃん夏休みに入ってからずっと死んだような顔してたから、良かった良かった」

「んだよ、そんなにひどい顔してないだろ」

「いや、めっちゃひどい顔してたじゃん! まるでこの世の終わりみたいな顔してたよ」

「……そうか」


 この世の終わりみたいな顔。ついこの間も言われた気がする。

 そのことを思うと胸の奥に虚無感が広がる。



「……お兄ちゃん、何があったのかは知らないけどさ、あたしにできることなら相談してくれてもいいんだよ? 妹なんだからさ」


 心配そうに俺の顔を覗き込んでくる晴奈を見て、俺は少しだけ元気が出てきた。

 妹に心配されてちゃ世話ないな。まだ完全に立ち直れるわけじゃないけど、少しはしっかりしないと。


「ああ、ありがとうな、晴奈」

「……バーカ。当然じゃん、兄妹なんだし」


 そういって晴奈は恥ずかしさを誤魔化すようにアイスにかぶりつく。

 そして食べ終わったアイスの棒を見て声をあげた。


「あっ、当たった!」

「お、じゃあもう一本貰いに行くか」

「うん!」



 そうしてベンチから立ち上がる。

 日陰から日向へ、一歩踏み出す。夏の太陽の下へ身をさらす。


 その足取りにかつての重さはない。

 軽快、とまではいかなくても、少し軽くなった。



 そう、俺は踏み出すのだ。この場所から、未来へ。

 まだ雪芽に会うのは怖い。でも、少しずつ進んでいけばいい。


 今はまだコンビニに行くのが精一杯だけど、いつか、いつか必ず――。


「ほらっ、お兄ちゃん! 早く早く!」

「……ああ、わかったよ」



 そうして俺は、いろいろな重荷を背負ったまま、まず一歩を踏み出したのだった。

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