第5話 教師の夏休みは想像以上に忙しい
「山井田先生、お疲れ様です」
「あ、教頭先生。お疲れ様です」
俺が数研で補習のプリントを整理していると、厳しい顔をした教頭先生が声をかけに来た。
おそらく
「今日も補習ですか。お忙しいですね」
「ええまあ。本当は今日で終わるはずだったのですが、どうやら明日も補習をしなくてはいけないみたいで」
そう言うと教頭先生は
「彼ですか? 本当に大変ですね」
「はい。あいつも家が遠いですから多少は目をつむりますが、連日となると少しきつく言い含めないといけないですかね」
「体罰はだめですよ? 体罰は」
「それはもちろん、承知していますとも」
俺の反応に満足いったのか、教頭先生の顔は少し穏やかになった。
「そんなお忙しい中申し訳ないのですが、今日も転入生の子がいらっしゃるかもしれません。その時は山井田先生が案内してあげてください」
「そちらの件も承知しております。あと、その件に関してですが、教頭先生にいちいち御足労頂くのも申し訳ないので、明日以降は転入生がきたら内線で私にご連絡いただければ対応しますので」
「そうですか。それでは以後そのようにしましょう。ではお忙しいでしょうがよろしくお願いします」
形式的にそう言うと、教頭先生は足早に帰っていった。
あの人もいろいろ忙しい人だが、俺も大概忙しいな。せめて補習だけでも他の先生に変わってもらえたらよかったのに、よりにもよってうちのクラスだけ赤点者が出るとはな。
部屋の時計を確認すると時刻は10時20分。あいつが来るのにはもう少し時間があるか。
俺は補習のプリントからいくつか問題を抽出して新たなプリントにまとめていく作業に戻る。
あいつ、この調子じゃ一向に補習に来ないから、最終的な措置として宿題の増量も検討しないといけないしな。
全く、俺の仕事をこれ以上増やさないでもらいたいな。
それからコーヒーを片手に黙々とプリントを作っていると、印刷が終わるころには50分が経過していた。
これでひとまず明日の再テストの問題はできたことになる。ようやく一息つけそうだ。
数研に戻り、一応と転入生の資料に目を通す。
さて、すでに確認はしているが、ざっくりだったし。今のうちにしっかり詳細まで見ておくか。
そう思って資料を手に取った時、扉をノックする音が部屋に響いた。
俺は資料をしまい込み、扉の方へ視線をやる。
「失礼しま~す……。山井田先生いますか~?」
「おういるぞ。柳澤ぁ、いい度胸だな、二日連続で1時間遅刻とは。それも補習対象者の分際で」
「げ、山井田さん怒ってる?」
「たりめーだろ! 俺だって暇じゃねぇんだぞ? お前ひとりのために1時間も待ってられるか」
俺が少し声を荒げると、柳澤は縮こまって申し訳なさそうに謝ってきた。
まあ、こいつの実家からの最寄り駅が、1時間に1本しか電車が通らない無人駅ってことは知っているし、何か事情があったんだろう。
もともと柳澤は品行方正な生徒だし、この赤点以外は特に問題もない生徒だ。
そもそも授業中に眠りこけてるからあんな簡単なテストも赤点をとるんだ。勉強さえ真面目にすれば成績も目に見えて上がるだろうに。
「で? 一応遅れた理由を聞いておこうか?」
それでも俺は怒っている態度を崩さず、背もたれに体を預けて腕を組む。
柳澤は俺の態度に委縮しながらも、言いにくそうに理由を述べた。
「……寝坊しました」
「はぁ……」
こいつは俺のことをなめているのか?
夏休みだからってたるんでるんじゃないだろうか。出す予定の宿題をさらに増やさないといけなさそうだ。
「なあ柳澤。昨日も寝坊だって言ってたよな? 夜遅くまでゲームでもしてたのか」
「ぐっ……!」
「図星か」
しかし見れば柳澤の髪は汗でびしょぬれだし、ズボンにまで汗が垂れた後がある。
こいつなりに早く着くよう努力はしたってことか。
……ま、今日はこのくらいにしておいてやろう。俺も暇じゃないし。
「まあいい、今日も補習はなしだ」
「え、じゃあもう帰ってもいい?」
「ばかたれ! 少しは反省しろ!」
一瞬見せた喜色を引っ込め、柳澤は再び殊勝な態度に戻った。
全く、調子のいい奴め。
「遅刻した罰としてお前には俺の仕事を手伝ってもらう。1時間はかかるからな」
「えっ! そりゃないよ山井田さん! 俺だって暇じゃないんだ」
「俺の大切な1時間を奪っておいて自分だけ見逃してくれなんて虫が良すぎるよなぁ? そう思わないか柳澤」
「……そうですね。ぜひお手伝いさせていただきます……」
渋々、といった感じで柳澤は頷く。
その様子に俺は笑顔で頷く。
まず、柳澤には数研の掃除を申し付けた。
夏休みに入ってしばらく、掃除は先生で交代して行っていたが、皆忙しいので細かいところまでは行き届いていない。そこを掃除してもらうことにしたのだ。
しばらくの間、柳澤は文句を垂れつつも掃除をしていた。
しかし次第に飽きが回ってきたのだろうか、口数が多くなる。
「山井田さーん、なんで補習って夏休みにやるの? 俺の夏休み全然休みじゃないんだけど」
「そりゃ赤点とったお前が悪い。むしろお前は感謝すべきだぞ? 俺が直々に補習してやるんだから」
「ええー、別に頼んでないし」
「じゃあ進学諦めるか?」
「ぜひ明日もよろしくお願いします」
調子よく頭を下げてくくる柳澤。
素直なのはいいことだが、言いたいことを素直に言いすぎるのも考え物だな。
「山井田さんって夏休み中なにしてるの?」
「どこかの赤点取得者に補習授業したり、研修とか部活の練習とかいろいろだ」
「へー、先生って忙しいんだ」
「そうだな。特に補習に遅刻してくる奴がいると後々の予定が詰まってより忙しくなる」
「それは……、すんません」
少し意地悪が過ぎただろうか?
まあ、今日はこのくらいで勘弁してやるとしよう。
それから柳澤は文句も言わず、隅々までしっかり掃除してくれた。
その間に俺は宿題のプリントをまとめる。
大体30分もかからずに掃除は終わり、部屋の隅に固まっていたホコリはきれいさっぱりなくなっていた。
「おお、きれいになったな。助かったぞ柳澤」
「じゃあ……!」
「まだだ」
「ちえ」
帰りたそうにしている柳澤を押しとどめ、もう一仕事頼むことにする。
二日連続遅刻の罪は重いと知れ。
プリントの印刷と運搬を頼もうと思い、椅子から立ち上がる。
「あ、山井田さんプリント落ちたよ」
「ん? おお、わりぃ取ってくれ」
つい反射でそう言ってしまったが、今落としたプリントが何だったのかを思い出し、慌てて柳澤を見る。
「先生これって……?」
慌てて取り上げるも、どうやら一瞬目を通してしまったらしい。
個人情報までは見られてないようだが、転入生がやってくることはわかってしまったか……。
「あー、なんだ。まあ、そういうことだ」
「転入生って、男子? 女子?」
目を輝かせてそう尋ねる柳澤。
くっそ、俺としたことが油断したか。まあ、遅かれ早かれ分かることだし、口止めさえしておけばいいだろう。
……いや待てよ。
ここで俺は考えを改める。
転入生の件、こいつに任せてみてもいいかもしれない。
もちろん個人情報はできるだけ漏らさずに、必要な情報だけを伝えておけば問題ないだろう。
教頭先生には後から許可を取ればいいし、これは妙案かもしれないぞ!
「そうだな~、教えてもいいが条件がある」
「え、補習追加とかだったら別にいいんだけど」
「違う。その子が学校見学に来るそうなんだが、お前にその案内を頼みたい。どうだ?」
俺の提案に柳澤はしばらく考えるそぶりを見せたが、好奇心が勝ったのか俺の提案を呑んだ。
「それで、どんな子なんですか?」
「まあ詳しくは直接会ったときにでも聞けばいい。とりあえず今言えることはうちのクラスに転入してくる女子で、見学には午前中から夕方の間に来るらしいってことだけだ」
「へー、どこから転入して来るの?」
「それは言えん」
「じゃあ名前は?」
「それも言えん」
「えー……」
まだ教頭先生に許可を取っていないし、名前は許可が取れてからでも遅くはないだろう。
それまではなるべく個人情報の開示は避けなくては。
「ただ彼女は体が弱いらしくてな。いつ来れるか定かではないらしい。もし来たらお前を呼ぶとしよう」
「俺の最寄り駅、1時間に1本なんだけど、大丈夫なの?」
「それは向こうに伝えておこう。前もって連絡をくださいって言っとく」
「まあそれなら」
確かにいつ来るかわからないというのはあまりにこいつの自由を奪いすぎるか。
「でもそうだな、それだと柳澤が大変だろ。俺がお前に連絡して、もし予定が空いていたらでいい。その時は案内役を頼む」
「はーい。多分俺暇だから空いてると思うし、大丈夫です」
「よし、じゃあプリント印刷行くぞ」
それから印刷室に行くまでの短い間に、柳澤の質問が続いた。
その子はかわいいのか、体が弱いって深刻なのか、この時期に転入ってなにか特別な理由があるのかなどなど……。
もちろんすべて断った。
全く好奇心の塊みたいなやつだ。うかつに情報を漏らせないこちらの身にもなってほしい。
そうして先ほど作ったプリントを印刷し終えて、俺と柳澤で半分ずつもって数研に戻る。
「あ、山井田さん、このプリントって何なの? 休み明けのテスト?」
「んなわけないだろ。これは休み明けに配る復習プリント兼お前の宿題だ」
「え!? 宿題なんて聞いてないんだけど!?」
驚き足を止める柳澤。
「当然だ。今日決まったんだからな」
俺も足を止め、振り向く。
柳澤はこの世の終わりのような表情で立ちすくんでいるが、大した量じゃない。これくらいでへこたれてもらっては困る。
「二日連続補習遅刻者のお前にぴったりの内容だ。それに、嫌なことばかりじゃないぞ? そのプリントの内容から明日の再テストの問題が出る。その再テストで9割の点数が取れれば無事補習は終了ってことにしてやるから、精々頑張るんだな」
「せめて8割にしてくださいよ~、山井田先生~」
「だめだ、9割」
「じゃあ8割5分でいいから! ねっ!」
隣に並んだ柳澤の表情からは、楽をしたいという魂胆が見え見えだった。
「何が、ね! だ。いいわけねぇだろ」
「ええ~、じゃあ8割6分でどうだ!」
刻むな。
その程度の交渉じゃあ俺は一歩も引かないぞ。
「9割」
「山井田さんのけち!」
「10割」
「すんませんでした! 9割でオナシャス!」
全くバカな奴だと心の中で思いながら、俺は緩む口元を隠すのに必死だった。
あぁ、こいつのような奴がいれば、転入生も早くなじめるかもな。
案外柳澤は案内役として適任だったかもしれない。
あとはどうやって教頭先生を説得するかだが、そこはなんとかなるだろう。
それから数研に戻り、柳澤に宿題のプリントを持たせ、明日は遅刻しないよう重々言い含めた後、帰した。
俺はまだこれから部活の練習があるから帰れないが……。
「はぁ、俺も生徒のように夏休みが欲しいな」
俺一人の部屋で、俺の呟きに返事をしたのは、ミンミンと鳴り響く夏の喧騒だけだった。
俺はそんな喧騒を余所に、数研を後にするのだった。
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