第23話 新たな領域
「な、なんだ!? 一体何をしているんだ、毅山!?」
突然、空中へ筆を走らせる毅山に、範村は戸惑いを隠せなかった。
言うまでもないが、本来は空中に文字など書けるわけがない。
ましてや毅山が振るっているのはただの筆だ。ペンライトみたいに光の残像や、航空ショーのような煙の文字が書けるわけでもない。
にもかかわらず、毅山は空中に書をしたためていた。
毅山が筆を動かすと、その毛先に沿って線が空中に引かれる。そしてそのまま留まり、毅山の筆圧や速度によって滲んだり、かすれたりした。
それにしてもその曲線の滑らかさときたらどうだ。よく川の流れのようにと表現されるが、毅山が空中に描く筆の動きはもはや水の流れすらも遥かに凌駕している。
「そうか! これは大気の流れを利用しているのだな!」
「いいや、違うぜ親父。これはライフストリームだ!」
「ライフストリーム……だと? なんだそれは? 聞いたことがないぞ!」
およそ書道らしからぬ言葉に、範村はさっきまで死にかけだったことも忘れて毅山に問いかける。
「それは俺が説明しよう」
が、答えたのは毅山ではなく、新たにその場に現れた意外な人物であった。
「お前は竹下剛厳!? バカな、毅山との筆勝負に敗れて自害したのではなかったのか?」
「ああ。確かに俺は自害した。だが、生と死のはざまで彷徨っているところを毅山に連れ戻されたのさ」
思いもよらぬ剛厳の登場に、範村だけでなく、彼が意識を取り戻した際にその場にいた大山たちすらも驚いた。
昨日までは深い昏睡状態で、集中治療室に横たわっていた剛厳。本来ならすぐに動けるものでもない。
が、剛厳はそもそも意識を失っていただけで、怪我をしていたわけでもなかった。
同じく目を覚ました米田とは違い昏睡状態でいた時間も短かったため、筋肉や体力はほとんど落ちていない。
それでも医者はさすがに退院を認めなかったが、毅山と範村が戦うことを耳にした剛厳は無理矢理病院を抜け出してきたというわけである。
「ライフストリームとはこの星で生きる命そのものの流れ。いわば命そのもの。俺たちが『気』や『魂』と呼ぶのは、このライフストリームの末流に過ぎない」
剛厳が語り始める。
どうして彼がライフストリームを知っているのか?
それは昏睡状態の中で、ずっと感じていたからだ。
近くて遠いところに大きな生命の流れがある。今は分断されているが、かつて自分もそれと繋がっていたのが本能で分かった。
いや、このままでは剛厳の魂もやがて干乾びて消え去る運命ではあるが、その蒸発した魂もいつかはまたあの流れに戻っていくのだろう。
全ての命はライフストリームから生まれ、死ぬとライフストリームに戻っていく。そういうものなんだなと剛厳は何故だか知らないが理解した。
そんなことを考えてどれだけ経っただろうか。微睡む意識の中では時間の感覚が曖昧な中、いきなり剛厳の気が何者かに引っ張られた。
小さくて強い魂が剛厳を掴んでズリズリと移動させている。
一体誰だと懸命に意識を集中した剛厳は、正体が分かって愕然とした。
毅山だ。
父を殺し、自分を復讐の鬼へと育てた花川範村の息子。そしてそんな自分を筆勝負で打ち負かし、復讐の呪いから解き放ってくれた男。
その毅山が今度は自分の精神世界に現れ、どこかへ連れて行こうとしている。
何故毅山の魂が突如現れ、そんなことをしているのかはいくら考えても分からなかった。
ならば代わりにどこに連れていくつもりだろうかと、剛厳は引き摺られる先に目を凝らす。すると突然、それが見えた。
ずっと近くて遠くにあると感じていたライフストリームが、今や眩いばかりの光の大河となって目の前に現れたのだ。
どうやら毅山は自分をライフストリームへと連れていくつもりらしい。
そう結論を出した剛厳は、最初に自分の死を意識した。
ライフストリームはすべての命の源。ここで命が生まれ、死んだら戻っていく。とうとう自分もその時が来たのだなと覚悟した。
が、さらにライフストリームとの距離が縮まって、毅山の魂がそれと繋がっているのが見えると別の考えが浮かんだ。
もしかすると万物はライフストリームから生まれ落ちた後も繋がっているのではないだろうか。ライフストリームに繋がることで生きる活力を得ているのだとしたら、遮断されている自分が死を待つだけの存在になっていることも理解出来る。
だとしたら、そのライフストリームにここまで連れて来てくれた毅山の意図とは?
剛厳はライフストリームに向けて手を伸ばした。
その手に向けて、毅山がライフストリームに浸した筆を勢いよく持ち上げる。
ライフストリームをいっぱいに含んだ筆は、まるで太陽のプロミネンスのように光の龍を立ち昇らせた。
そしてその顎を掴んだ瞬間、剛厳の魂は一気に現世へと浮上したのであった。
「意識を取り戻した俺はその日の夜、毅山にこのことを話した。毅山もライフストリームをうすうす感じていたらしい。かくして人類が未だ見たことがない、新たな書への挑戦が始まったのだ」
誰もが剛厳の話に聞き入っていた。
とても信じられない話である。が、毅山が今も空中に書を綴っているのは間違いない事実だ。そんな不可能が実際に起きている以上、剛厳の話も信じるしかなかった。
「ということは毅山君はそのライフストリームを墨に見立てて、書を空中に書いているって言うの?」
「ああ。その通りだ。毅山は徹夜でこの神業に挑み、ついにものにしたんだ」
剛厳たちを目覚めさせた後、毅山が病院の一室を借りて対範村戦に向けた最後の特訓に入ったのは大山たちも知っていた。
しかし、中では竹下巌の臨書に没頭しているものだとばかり思っていた。
それがまさかライフストリームによる書道という、空前絶後、前代未聞、人類未踏の新境地を開発していたとは!
なるほど、これなら大阪の病院を発つのが遅くなり、東京に着くのが昼過ぎになってしまったのも大納得である!
「むぅ! ライフストリームだと!? そんなのは邪道だ! 紙に墨で書いてこそ書道でないか!」
「範村、あんたがそれを言うか!? 毅山はな、あんたの為にこの書を身に付けたのだ!」
「なっ、なに? どういうことだ!?」
そう、毅山はずっと悩んでいた。
実の父と命を賭けて戦う。
このことに毅山は書道家として避けられない運命を感じながらも、同時にどうすることが最良であるのかをずっと考えていたのだ。
負ければ狂ってしまった範村を残し、勝てば父を殺すことになる。
いや、それどころか病に侵された父の体は勝敗の行方に関わらずもはや限界かもしれない。
このままではどのような結果になったとしても悔いが残るのではないか?
その迷いが毅山の筆を重くした。いくら竹下巌の臨書を繰り返しても満足がいくものを書けなかったのはそのためだ。
そこへ大谷が昏睡状態にある剛厳たちを救ってほしいとやって来た。
医者でもなんでもない、ただの書道家である毅山にとっては不可解な、一見インポッシブルに感じる依頼である。
が、書道家が人を救うというインポッシブルさこそが、対範村戦で抱えている命題そのものであることに毅山はこの時気付いた。
もし書道で本当に剛厳たちを救うことが出来れば、それは病に侵された範村の身体にも通用するかもしれない。
毅山はイチかバチかこの無理難題に全てを賭けることにした。
かくして毅山は剛厳救出の中で彼の魂の声を聞き、ライフストリームの真実に辿り着いたのだ!
あとはライフストリームを如何に操るかであった。
まさか範村にも上半身裸になってもらって筆を走らせるわけにもいくまい。
上半身裸の実の父に跨って、その肌に筆を走らせるなどマニアックプレイにもほどがある。
となれば、ライフストリームを墨に混ぜてみるか、あるいはライフストリームを筆にして書いてみるか、はてまたライフストリームを紙にしてしまうのはどうだろう?
これら様々な試行錯誤の結果、一晩かけて生み出したのはライフストリームを墨に見立てて、空中に字を書くという大技であった。
「私を救うためにこの馬鹿げた書を生み出しただと? 一体どういうことだ、剛厳!?」
「ふっ。まだ分からないか、花川範村。ならば先ほど毅山の初筆でライフストリームが飛び散った頬を触ってみるがいい」
「なに? ……なっ、なんだと!? そんなバカなっ!?」
剛厳に言われた通り、自分の頬に手を伸ばした範村が驚きのあまり大声をあげた。
「初老の乾ききった頬が、まるで十代の頃のように瑞々しく張りのある肌に変わっているっ!?」
「そうだ。ライフストリームは命の源。それをまともに浴びれば細胞が活性化し、若返ったとしても不思議ではない」
さも当たり前とばかりに言い切る剛厳。
そんなバカなっと範村の頬を凝視し、その奇跡を確かめる書道家たち。
と、そこへ毅山の筆から飛び散ったライフストリームのかけらが
「う、ウソっ!? 巨乳持ち特有の肩こりが一瞬で治っちゃった!」
「ぼ、僕の右肘も全快しました! このオフシーズンにトミー・ジョン手術をする予定になっていたのに!」
「おおっ、ワシの腰もまるで若い頃に戻ったようじゃ。これなら毎日でもサーフィンが出来るぞい」
さすがは恐るべし、命の源・ライフストリーム! 効果覿面である。
そして鹿野が「え、この雄徳には? 雄徳にもライフストリーム降り注いでほしいんだけど!」と騒ぐ中、
「書けたぞ! 親父よ、これが俺の書・ライフストリーム書道だ!」
ついに毅山が完成の声をあげた。
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