第22話 最果ての書
花川範村の書は歴史的大家たちの書風を模倣して取り入れた『鏡の時代』と、独自のスタイルを確立させた『烈の時代』に分けられる。
が、その『烈の時代』すらも竹下巌の模倣――すなわちは『鏡の時代・竹下巌編』だとすれば、本当の花川範村の書風とは一体どのようなものなのであろうか?
それを知るのは厳興寺の住職・海空だけである。
かつて竹下巌との筆勝負に立ち会った海空は、毅山に請われてその書を語ったことがある。
花川範村の書とは、言うならば天衣無縫の書、何にも縛られない自由な書であった、と。
その時はイマイチ想像がつかなかった毅山であったが、しかし今、水が上から下へ流れ落ちるが如く自然な筆使いで書き上げていく範村の作品を目の当たりにして、ようやく意味が分かった。
これまでの範村は囚われていたのだ。歴史的な書道の大家や、あるいは竹下巌の亡霊に。
彼らの技術を身に付けることで現代三筆と呼ばれるほどの名声を手に入れた範村であったが、それらは範村が生まれ持っていた恐るべき才能を覆い隠していただけにすぎない。
竹下巌が生涯のライバルだと海空に語り、筆勝負で本来の力を解き放った範村の書を見て竹下が微笑んだ、その理由とは――。
「スゲェ……これが親父の、花川範村本来の書か!」
「まるで子供が書いたような無邪気さが作品全体から漂ってきて」
「しかしその実、恐ろしいほどまでに完璧じゃ」
「しかも本人からは何の衒いもなく、特別な技術を施す意図も感じられません。究極の自然体だ!」
毅山も、流も、東波も、大山も、その場にいる書道家全員が驚嘆し、範村が操る筆先に誰もが見入った。
見ているだけで何とも言えない心地よさが全身を包み込む。それはまるで宙を漂うような浮遊感であり、母の胸元でゆらりゆらりと揺らされる安心感であり、ほどよい温度の温泉に肩まで浸かってほぅと息を吐く時の脱力感である。
書道家ではない鹿野雄徳ですらも、自分が失禁していることにすら気付かぬほどの幸福感を覚えていた。
「おおっ、なんという。これぞまさに『天真爛漫の極み』!」
海空が唸った。
人間という生き物は歳を重ねるにつれて色々なものを身に付けていく。
それは知識や技能といった大切なものもあるが、同時に見栄や欲望など、純粋に生きていくには不必要なものまで自分の中に生み出してしまう。
これら不純物を取り除くのは非常に難しい。
書道においても大きな大会での入賞を欲したり、今回みたいな筆勝負に勝とうと意気込むあまり、それらの煩悩がどうしても作品に滲み出てしまうものだ。
ところが範村が今書き上げる作品にそれらはまったく感じられない。
墨をつけた筆で文字を書くという行為を純粋に楽しんでいる。
海空が十数年前の筆勝負で見た時もその自由奔放な書に多幸感を覚えたものだが、今回はそれを遥かに上回っていた。
ゆえに『天真爛漫の極み』と称した。
「ああ、思い出す。書道を始めた頃の純粋な気持ち!」
「筆を墨にひたしただけでトキめいた心!」
「真っ白な紙を前にしてワクワクした胸の高鳴り!」
「日が暮れるのにも気付かず、いつまでも筆を動かし続けていたっけ……」
忘れていた童心が毅山たちの心のうちに蘇ってくる。
そうだ、あの頃はやれ筆勝負だ、大日本書道倶楽部だ、古端渓だ、
「ああ、ついに書けた……」
範村が静かに筆を硯に置き、顔を天へ向けた。
「これをずっと書きたかった。これが私の書だ」
その表情は母親に抱き着く幼子のように、幸せで満ち溢れていた。
天才画家パブロ・ピカソは晩年になって「ようやく子どものような絵を描けるようになった。ここまで来るのに随分と時間がかかったものだ」と言ったが、範村が辿り着いた終着点も同じようなものだったのかもしれない。
若くして身に付けた技術や経験、さらには名声の数々。そしてそれらに覆い隠されるようにして埋もれていった自分自身の書。
技術や経験は決して余計なものではないが、人はどうしてもそれを拠り所にしてしまい、本来の自分自身の形を見失ってしまう。そして気付くのだ。理想を形にすることは出来るが、自分自身を形にするのはなんと難しいことか、と。
範村が書き上げた作品は、展覧会では認められないかもしれない。
しかし、書道家にとって本当に大切なものは何かを毅山たちに強く訴えかける書であった。
毅山と範村の親子筆勝負が終わった。
毅山は竹下巌の遺作を見事に再現した奇跡の書。
対して範村は純粋に自分自身を表現した天真爛漫の極み。
どちらも素晴らしく甲乙つけがたいが、それでもこの場にいる誰もが感じていた。
(よくやったと思うが――)
(最大限に出来る限りのことをやったんじゃ――)
(相手が凄すぎましたね――)
それは立会人を務める
でも自分の判定で全てが終わってしまう、かけがえのないものが永久に失われてしまうと思うとなかなか結果を言い渡す勇気が出てこない。
剛厳との筆勝負とは違い、今回は真っ当な勝負だった。
とは言え、親子同士で命を奪い合うなんて馬鹿げている。流は当初、なんだかんだで引き分けにするつもりだった。
だが、ここまでの作品を見せつけられた以上、自分のエゴで引き分けにしてしまうのはふたりに、そして書道に対する侮辱以外なにものでもない。
だからちゃんとした判断を下さなきゃいけない。でも、それはあまりにも辛い選択。今さらながら立会人なんて引き受けるんじゃなかったと、後悔が心を締め付ける。ぎゅっと閉じる目からも、気を許せば涙が溢れそうになってきそうだ。
「……この勝負」
それでも流が必死の思いで口を開いた。
「勝ったのは花川――」
「流君、もういい」
しかし、意を決して勝者の名を告げようとする流を、静かに制する者がいた。
「その先は言わなくていい。嫌な役回りをさせてすまなかったね」
範村だった。これまでになく穏やかな表情を浮かべた範村が、ふるふると頭を横に振って結果発表の中止を促すと、流に労りの言葉をかける。
「おじさま……」
「本当にすまなかった。それに毅山、お前にも詫びたい。私は長い間、さらにひどい勘違いしていたようだ」
かつて竹下と戦い、情けをかけられたと思っていた範村。
しかし、竹下と同じ状況に立ち、同じように魂の一筆を書き上げた今、その心境がようやく分かった。
「竹下は勝ちを譲ったのではない。あの瞬間、竹下の心にあったのは私への深い感謝だったのだ。私がいたからこそ、ここまで自分は辿り着くことができたという感謝。今、私はそれと同じものを毅山、お前に抱いている。ああ、ありがとう、毅山。お前が私をここまで導いてくれたのだ。この幸福感と比べたら、勝敗なんてなんとちっぽけなものであるか」
だからこそ竹下は感謝の意を込めて、いち早く敗北宣言を口にすることで範村の命を救ったのだ。
「それに気付かないなんて、私はなんて未熟だったのか。毅山よ、すまなかった。私が愚かなために、お前には辛い人生を送らせてしまったな」
「…………」
範村の言葉に、毅山は黙って答えない。
ただ、父をじっと見つめている。
「そうか、許してはくれぬか。それはそうだろうな、私はお前に……ぐほっ」
突然、範村が吐血した。
無理もない。末期癌という重体にありながら、生体エネルギーを激しく消費すると言われている書道をその体で押し通してしまったのだから。
範村の体はもはや限界寸前だった。
その命の灯は今、まさに消え失せようとしている。
「おじさま!」
血を吐いて倒れこもうとする範村に流が駆け寄った。
東波も、大山も流に続き、範村の体を支えて横たえようとする。
鹿野は慌てて懐から携帯を取り出し、救急車を呼んだ。
「毅山君、何をしてるの!? 早くこっちへ!」
急転直下なこの事態に、それでもただひとり反応せず、ひたすら範村を見つめる毅山。おそらくは動揺のあまり意識が飛んでいるんだろう。そう思った流が大きな声で呼びかけた。
「……おい、親父! あんた、一体何を言ってやがる! 辛い人生を送らせた? 許してはくれないか、だと? ふざけてんじゃねーぞ!」
が、次の瞬間、毅山の口から出たのはその場にいる誰もが予想だにしないものだった。
「ちょ! 毅山君、何を言って――」
「流、親父の上半身を起き上がらせてこっちに向かせろ! いいか、親父、俺はあんたに恨みなんかこれっぽっちも抱いてなんかいねぇ! むしろこんな立派な書道家に育ててくれたことを感謝している! なんせ」
「…………」
死にゆく父親に届くよう叫ぶ毅山に、範村はもはや何か言う気力すら残ってないものの、その瞳から涙を一筋流す。
範村としてはこれで何の悔いもなく、あの世に逝ける――はずだった。
「あんな凄いのを書くあんたに、俺は今から勝ってみせるんだからなっ!」
しかし、毅山のその言葉に突然、範村の目がかっと見開かれた。
さらに信じられないことに範村は一体どこにそんな力が残っていたのか流たちの支えを振り切ると、四つん這いで毅山に詰め寄る。
「あの字を書き上げた私に……勝つ、だと!?」
「ああ! 親父、この勝負まだ決着はついてねぇ!」
「愚かな息子よ! 結果はすでに出ておるのが分からぬか!」
「いいや、まだだ。俺はまだ俺の書道をしていねぇ!」
なん……だと……?
息を飲み込む範村の口から、驚愕が無言となって零れ落ちた。
「さっき書いたのは竹下の臨書にすぎねぇ。今から書くのが俺の本当の書だ」
「ふざけるな、毅山! まさかお前、先ほどの書はリハーサルで、これから書くのが本番だというつもりではなかろうな!?」
「その通り!」
毅山がだからどうしたと言わんばかりに堂々と宣言した。
「こ、この馬鹿息子がっ! そんなことが許されるわけがなかろう! せめて……せめて泣きの一回でもう一度再戦して欲しいというのなら、それ相応の態度というものがあることを知らぬのかっ!」
「そうだよ、毅山君。泣きの一回をお願いするなら土下座をするのが昔からの常識だよ。確かに屈辱的だけど、大丈夫。こと書道に関しては普段書いている姿勢そのものが土下座に近いから、そこでちょっと頭を地面につければいいの!」
流がどさくさに紛れて世の書道家たちが聞いたら激怒しそうなことを言う。
「ふ、俺は土下座などしない!」
「毅山ぁぁぁ!」
「毅山君!」
先ほどまでの穏やかな表情はどこへやら。鬼の形相を浮かべて立ち上がり、範村は毅山の胸元へと手を伸ばす。
が、毅山はそんなのはお構いなしに、立ったまま筆を墨につけず持ち上げると、
「何故なら俺の書はこの状態からでも書けるからだ! 親父、近くでよく見ていろ! これが俺の辿り着いた、これからの書道のあるべき姿だ!」
そう言って毅山が勢いよく筆を空中に走らせた。
べちゃり! と。
空中で飛び散った何かが、範村の顔へと跳んだ。
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