第21話 死に触れる
「竹下との勝負、先攻は私の方であった」
当時を懐かしみ、範村が遠くの山々から昇りくる朝日を眺めるように目を細めて語る。
「竹下と戦いたい、ずっとその想いを抱いていた私だったが、いざその時を迎えてみると不覚にも心が乱れた。筆勝負と言う命を賭けた戦いが初めてだったのも、その原因のひとつかもしれない。恐怖に筆が震えたよ」
常に毅然としている父・範村の言葉に、毅山は驚いた。
父でも恐怖を覚えることがあるなんてとても信じられない。
しかし、毅山にも覚えがある。恐怖を克服してこそ、辿り着ける美がある、と。
「だが、私はその恐怖に打ち勝った。あの時書き上げたのは、それまでの私を遥かに凌駕した最高傑作だったよ」
「ええ。素晴らしいものでした」
範村の言葉に海空が頷く。
もっともその作品は竹下の体と共に焼かれてしまった。今となっては誰も見ることが出来ない、まさに幻の最高傑作である。
「あの瞬間、私は勝利を確信した。いくら竹下と言えど、この作品を越えることは出来まい。ついに竹下に勝ったと興奮で体が震えそうになるのを必死に堪えながら、私は卑しくも我がライバルの顔色を窺った。書と同じく感情も激しい男だ。さぞかし悔しがっているだろうと思ったのだ」
その時見た竹下の表情を範村は今でも忘れられないと言う。
「竹下は微笑んでいた。虚勢ではない。心から満足した、いや、もしかしたら感謝の表情だったのかもしれない。私はそれまでの興奮が一気に冷め、逆に先ほど以上の恐怖が襲ってきた。この窮地であんな表情を浮かべる竹下……一体どんな書を生み出すのか想像が出来なかった」
やがて竹下が静かに筆を持つ。
紙に筆先が触れても、その様子は変わらなかった。竹下と言えば、己の激情をそのまま紙面に直接映し出すのが特徴の書道家だ。それが何の気迫も感じられないまま、ただ静かに筆を運んでいる。
その姿に範村は恐怖から解放され、むしろ失望感すら抱いた。
これが竹下巌か? ずっと乗り越えたいと目標にしていた男の字か?
否、断じて違う。このような竹下と戦いたかったのではない。
やはりすべては遅すぎたのだ。病に侵された身体にはもはやかつての力などどこにも……そう思った範村はしかし、竹下が握る筆の穂を見て目を見開いた。
「墨がな、命毛にしかついておらなんだ」
命毛とは筆の穂先のことをいう。
筆の穂はその先端から命毛、のど、腹、腰と呼ばれているが、普通は腰までしっかり墨をつけて書くものである。
命毛だけの墨ではさすがにかすれがひどく、本来ならまともな字など書けるものではないのだが……。
「命毛にしか墨がついていないのに字に無駄なかすれはひとつもなく、むしろゆったりと墨が伸びておるのだ。気迫が感じられないなどとんでもない思い違いであった。竹下はこの白い筆で静かにだが、一画一画に魂を墨に滲ませて書き上げていたのだ」
そう、それこそが竹下の遺作に漂う生命力の秘密であった。
「瞬間、私は自分の敗北を悟った。竹下に勝ちたい一心で研鑽を積み重ねてきた私だったが、奴はもはやそのレベルにはいなかった。流れ筆になり、命を賭けた筆勝負を繰り返すしたことによって、おそらく竹下は自分の敵は己自身のみと悟ったのであろう」
いや、よもするとあるいは神に挑戦するつもりだったのかもしれぬと範村が呟く。
大袈裟な物言いだが、実際に竹下の遺作を臨書した毅山には分かる。竹下がその域に達していたとしても決しておかしくはない、と。
「ともあれ、私は負けた。筆勝負は初めてなれど、作法は知っている。私は辞世の句を詠むべく、しばし熟考した。その虚を竹下に突かれたのだ」
「え? ま、まさか……」
「そうだ。私が物思いに耽るのをいいことに、竹下が突然『さすがは花川範村。私の負けだ』と言い出したのだ」
茫然とする範村の前で、吐血する竹下。それが自決の為に飲み込んだ薬によるものなのか、それとも癌によるものなのかは分からない。だが、どちらにしろ竹下は自分に情けをかけたのだと範村は強く憤った。
「しかし、竹下がそんな状態になってしまった以上、今さら『いや、私の負けだ』と言いだすわけにもいくまい」
「確かに。それではダチョウ倶楽部のコントになってしまう」
「だから竹下の最期を見届ける私の心境はそれはもう惨めなものであった。勝ちを譲られたという劣等感、あれほどの作品を目の前で書き上げられてしまった敗北感、己の人生を賭けてそこまで登りつめたことへの嫉妬心……私は気が狂いそうになった。いや」
毅山のつまらないツッコミを無視して話を続けていた範村だが、不意に口角を吊り上げた。
「実際に気が狂ってしまったのだろう。私はその時、私のこれからの野望を叶えるために、長い時間をかけてこの時を作り上げてしまうことを思いついてしまったのだから」
かつて範村は、毅山を自分の対戦相手として育て上げたのだと語った。
だが、その時に語られなかったふたつの真実がある。
ひとつは毅山を第二の竹下巌になるよう育て上げたこと。
その為に範村は毅山に厳しい修行を強制する傍ら、自らの書を竹下風に改めた。
何故なら子にとって尊敬する父の書こそが最高のお手本になるからである。
その思惑は見事に実を結び、毅山はついに竹下の遺作すら見事ものにしてみせたのだ。
そして明かされなかったもうひとつの事実とは――。
「私は末期癌だ」
範村が他人事のように言うので、誰もが咄嗟にはその言葉の意味を理解しえなかった。
「癌細胞が全身に転移して、もはや治療不可能。いつ死んでもおかしくないと医者には言われている」
「そ……そんな……おじさま……」
範村が体調不良を理由に大日本書道倶楽部の運営から外れたのは誰もが知る事実だった。だから最悪そういうこともありえるだろうと
だが実際本人の口から告げられると、やはり衝撃的だ。
しかも病状が手の施しようがなく、もはや今日、明日の命と言われてはショックを受けるなと言う方が難しいだろう。ましてや範村の肉親であり、これまでの人生の中で尊敬し続けてきた毅山の心境たるや――。
「親父……それもあんたの計画通りだったんだな?」
毅山が静かに問いかけた。
かすかな動揺が、一瞬途切れた言葉の空白に見て取れる。だが、あらかじめ覚悟していたかのような物言いには、毅山の揺るがない強い意志が込められていた。
「毅山君、それってどういうこと?」
「親父は、自分が癌になることも計画のうちだったんだよ」
「そんな! どうしてそうなことを!?」
「さっき親父が言っただろ。全ては親父の野望を叶える、つまりは竹下巌を超えるためさ」
死んでしまった竹下に勝つ――そんな不可能を可能にする為、範村は自分の息子・毅山を欲望のまま育て上げただけでなく、自らもまた竹下と同じ境地に立つことを望んだ。
それは竹下が生前よく言っていた言葉であり、辞世の句でもある『書とは死ぬことと見つけたり』に由来する。
毅山は数々の命を賭けた筆勝負を続けることで、死を意識した時に最高の書が出来上がると、この言葉の意味を解いた。
が、死ぬ直前においてもなおこの言葉を残した竹下に、範村はまた別の意味をも捉えていたのである。
すなわち死を意識するだけでなく、死に直接触れることで、己の魂が書として昇華されるのである、と。
「そうだ。これも全ては私が望んだこと。竹下を超える為ならば、我が命など惜しくはない!」
「親父、あんた狂ってるぜ」
「だからそう言っただろう。私は狂っている、と。だがな毅山、私は今、とても幸せなのだよ。人として狂ってはいる。が、私は書を極めんとするひとりの書道家として、己の信じた道をこうして最後まで歩き抜こうとしている。それが狂っているとは、私にはとても思えんのだよ」
そう言って再度毅山が書き上げた竹下巌遺作臨書を見下ろし、うっとりと表情を緩ませた。
「ああ、毅山よ、でかした。竹下とは違い、命毛だけの墨ではないが、この作品には確かにあの時感じた恐れを思い出させてくれる。私の命が燃え尽きる前にこれを見せてくれたこと、心から感謝するぞ」
そしてついに範村が筆を構える。
「今こそ、私の野望が叶う時だ!」
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