第20話 極限臨書

「それでは花川範村と花川毅山による筆勝負を行います。まずは先攻・花川毅山から始めてください」


 勝負の幕は午後二時きっかりに切って落とされた。

 事前に文鎮トス(実は文鎮にも表と裏があり、それぞれ隠と陽と呼ばれている。かなりの実力のある書道家にしかその差は分からないが)にて決めておいたように、先攻は毅山からだ。

 

「む。あの硯は確か木曽東波が使っていた古端渓! 毅山め、いつの間に東波から譲り受けていたのだ!?」


 毅山が取り出した硯に範村が呻いた。

 文房四宝ぶんぼうしほうという言葉がある。筆、墨、硯、紙の四つのことだ。

 その中でも硯は歴史的に最も重んじられており、書道家にとって由緒ある硯を持つことはステイタス的にも、そして己の力量を存分に発揮する為にも必要不可欠とされている。

 

「その硯に合わせるは、中国は清の時代の墨匠・汪近聖が作りし乾隆御墨! ここまではまさに完璧。だが、墨を摩る水はどうだ? そこまでは考えているのか、毅山よ!?」


 父・範村の問いかけに、毅山はニィと唇の端を吊り上げた。

 

「勿論だ。俺はこのナイアガラの滝で採取された水を使うぜ!」

「なっ!? ナイアガラだと!?」

「そんな。中国の硯と墨にアメリカの水を使おうって言うの!?」


 毅山が懐から取り出した携帯用水差しに、ながれが悲鳴を上げた。

 ご存知の通り、アメリカと中国は決して仲が良くない。果たしてそんな両国の墨と水が上手く混ざり合うことが出来るのか!?

 

「まさか中国とアメリカの摩擦関係になぞらえてよく墨が摩れるなんて駄洒落では……な、なんだとっ!? 墨がまるで蕩けるように摩れていく!?」

「しかも墨と水との親和性もばっちり! どういうことなの、毅山君!?」

「ふふふ。これはただのナイアガラの水じゃない。ナイアガラの大瀑布で空中に舞い上がった水なんだ!」


 急激な落差によって空中に投げ出された水の一部は、霧状になって辺りを漂う。その際に空気をたっぷり含んだ水は、米中関係など問題にしないほど書道に適したものへと変化するのだ。


 提供してくれたのは言うまでもなく米国書道協会所属選手メジャーリーガーの大山だが、今回毅山がつかったものは曰く専門の職人が一年間かけて採取した超一流品とのことらしい。

 

「筆は毅山君が普段から使い慣れた国筆・墨水筆! 紙も人間国宝が年に数枚しか作らないと言われる逸品。これなら本当に勝っちゃうかも!?」


 流が目をキラキラ輝かせて興奮を口にした。


「ふむ。だがいくら素晴らしい道具を揃えても、それを使いこなせるかどうかはまた別の話。毅山、お前の腕を見せてもらうぞ」

「ああ。その目でじっくり見てくれ、親父! 俺はこの勝負であんたを越えてみせる!」


 毅山が丹念に筆へ墨を馴染ませると、勢いよく引き上げる。

 

「ふんっ!」


 気合一発、まずは四尺画仙の紙の最上部ど真ん中に短い縦画を打つ。

 飛沫となって飛び散った墨が大小さまざまな点を形成するが、縦画そのものの墨量は極めて自然。不必要な滲みが出ないうちに毅山は続けて左上から抉りこむようなカーブを描き、紙面右へ辿り着いた所でかすかに上へあげた筆先を静かに落とし込んだ。

 

 この三画で書かれたのは『山』である。が、それだけで

 

「むっ! この書はもしや!」


 範村には毅山が何を書こうとしているのかが分かった。

 そう、範村はその文字を知っている。その生涯で一度だけ見たことがある、そしておそらくはもう二度と見れないであろうと思っていた文字。範村の人生を狂わせ、その時感じた高揚感を再び味わうために己を鬼と化した書……。

 

「おおおお! 蘇ってくる。蘇ってくるぞ、あの時の感覚! 毅山よ、よくぞそこまで登りつめた!」

 

 範村が身を震わせて歓喜する中、毅山があたかも舞い踊るかのように楽しげな『口』をふたつ、『山』の下に書き込む。

 さらに天と地を表すかのような横画。

 救いの手を差し伸べる観音様の手の如く慈愛に満ちた左下への払い。

 運筆そのものは鬼気迫る勢いがあるのに対して、紙面に描かれる一画一画は極めて優しい。こんな毅山君の書は見たことがないよと流は驚きつつ、見る者を魅了してやまないその書から目を離すことが出来なかった。

 

「おお。さすがは毅山さんだ。竹下巌の作品を見事ものにしている」


 そこへ感嘆のあまり思わず唸り声をあげる者がいた。

 稀代の勝負を一目見ようと木曽東波とともにようやく駆け付けた大山である。

 

 実は大山と東波は、毅山と一緒に新幹線で東京へと向かっていた。

 が、東京駅に着いた途端、ファンに見つかって大山はもみくちゃにされてしまったのだ。

 際限なく押し寄せるファンたちの群れに、散り散りになる三人。仕方なく毅山はひとりで実家へと向かった。

 大山はなんとか駅職員の手も借りて数十分後に事態を収束させたものの、その時、興奮するファンたちによって再び新幹線へと押し込まれた東波は品川で茫然としていた。

 

 おかげでふたりの到着がこんな時間になったわけである。

 

「なるほどのぅ。竹下巌の作品を臨書していたと聞いておったが、これがそうなんじゃな。竹下め、晩年に至ってついに書の彼岸へ辿り着きよったか」

「はい。寺で見た臨書ではまだまだ毅山さんの気が昂りすぎていて上手く再現出来ていませんでしたが、ついにその極意を掴んだのでしょう。まるで竹下巌の魂が毅山さんに乗り移ったかのようです」


 毅山の書に感嘆せざる得ないふたり。

 そんなふたりの話を聞き、ひょっこりまた新たな人物が大笑いして襖から顔を出した。

 

「はっはっは! さすがは花川毅山、この日本画次世代の大家と呼ばれる鹿野雄徳しかの・ゆうとくと互角の勝負をしただけのことはありよるわっ!」


 年賀状対決で戦った、日本画の鹿野雄徳である。

 鹿野は仕事で数日前から東京に出てきており、品川駅から新幹線で帰るところであった。

 が、駅で茫然と立ち尽くす木曽東波の姿を見かけ、思わず物陰に隠れてしまう。

 実は鹿野、子供の頃から東波の大ファンだったのだ。

 

 書の道には進まなかったものの、東波の書作品は鹿野の日本画に絶大な影響を与えた。その尊敬する師の姿を見かけて、「ウソ!? 憧れの東波先生がこんなところに!?」と憧れの先輩を物陰から覗き見する女子中学生みたいな心持ちになったのである。

 

 そしてしばらく後に大山と合流した木曽の後を追いかけ、ひそかにタクシー乗り場でふたりの後ろに並び、「前の車を追ってくれ」と探偵気分なストーキングで花川家にやってきて、さらにはこそこそと家の中にまで追跡つけてきた。

 で、襖の隙間から覗き込んだら、なんとあの花川毅山が字を書いているではないか!

 それなら因縁のある自分がこの場にいても何もおかしくないとばかりに堂々と姿を現した、というわけである。

 

「はっはっは! 花川毅山よ、この鹿野雄徳の顔に泥をつけぬよう、せいぜい精進するがよい!」


 偉そうに言いながら、ちらっちらっと東波の様子を伺う鹿野。

 

「ふん! 毅山といい勝負をしたからと言って粋がるんじゃねぇよ、おっさん。俺はな、その毅山を圧倒した男だぜ!」


 だが、その鹿野に噛みついたのは東波ではなく、見知らぬ男であった。

 

「なに! 貴様、何奴!?」

「俺の名は藤堂墨炎とうどう・ぼくえん!」


 男が名を語った。やはり知らない名前である。

 

「ちょっと静かにしてよ、墨炎」

「あ、すみません、流お嬢様」

「こっちはいいから雅鳳も呼んで車を用意しておいてちょうだい。何だか知らないけどやたらと人が集まってきたから」

「へ、へい」


 流に命令されて墨炎なる人物は口惜しそうに去っていった。

 藤堂墨炎、かつて毅山を書き初め対決で苦しめるも、流にあっさり敗戦。その際に書き上げた作品から『初日の出の墨炎』と皆から呼ばれている。

 ここにきてようやく名前が判明したが、残念ながらもう出番はない。

 

「……ふう」


 外野が何かとうるさい中、しかし、毅山は最後まで集中力を切らすことなく最後まで見事に書き上げた。

 作品は言うまでもなく『巖興寺』。竹下巌の遺作を、その作品に込められた魂まで完全に再現した見事な臨書である。

 

 毅山は額に浮かび上がった汗が作品に落ちないよう片手で拭い、顔をあげる。

 いつの間に来ていたのか、見知った顔がたくさん集まっていて思わず表情が綻んだ。


「すごいよ毅山君! この作品なら絶対おじさまにも勝てるよっ!」


 そんな毅山に感極まった流が抱きついてくる。

 

「おい流、お前はこの勝負の立会人じゃねーか! 平等な審判を下さなきゃいけないのに、なにしやがる!」

「そんなの関係ないよー!」


 いや、関係はあるだろと誰もが思いつつも、その微笑ましい光景に野暮なツッコミはいれない。しかし。

 

「いや、これでは毅山さんは勝てないでしょう」


 そんな流の行動にではなく、毅山の作品にダメ出しをする人物がいた。

 

「あ、あんたは海空和尚!」


 そう巖興寺住職・海空である。


「嫌な予感がしまして、ついついやって来てしまいました。突然の来訪、どうかご容赦ください」

「そんなことより毅山君が負けるってどういうことっ!」

 

 静かに頭を下げる海空に、流が毅山に抱きつきながら敵を目前にした猫のように威嚇する。

 

「そのままの意味です。毅山さんは負ける。それは歴史が証明しています」

「歴史って何それ? もしかして私が日本史苦手なのを知っていて馬鹿にしてます?」


 ちなみにこの台詞だけ聞くと、流が苦手な教科は日本史だけのように思えるがさにあらず。学生時代の流の成績は、書道と保健体育以外ほぼ壊滅状態だ。

 

「お嬢さん、歴史と言っても何も学校で学ぶことだけではありません。今この瞬間も一秒後には歴史になるのですよ」

「……すみません、言っている意味がよく分かりません」

「つまり、毅山さんが今書き上げた書は既に一度、範村さんの前に敗れ去っているのです」


 残念な反応を示す流に、しかし海空は心乱すことなく、ならばと端的に事実を告げた。

 ざわめく周囲に、さらに海空は巖興寺で毅山に話したことを皆にも打ち明ける。


 大山も毅山が臨書していたのが竹下巌の作品なのは知っていたが、それがまさか範村との筆勝負で書かれた遺作だとはさすがに知らなかった。


 先ほどは歓喜に破顔した流も、海空の話を聞いてみるみるうちに顔が青ざめる。

 

「ちょっと毅山君、これどういうことっ! どうしてそんなのを書いちゃったのっ!?」

「…………」


 流の問いかけに毅山は答えない。

 ただじっと流ではなく、その背後に立つ範村の顔を睨みつける。

 

「なんで黙ってるのっ!? このままじゃおじさまに負けちゃうじゃない!」

「…………」


 流の怒気が強まる。しかし、男・毅山、怯むことなく目を見開いて範村を……。

 

「こらぁ! 黙ってないでこっち向いてちゃんと説明しろぉぉぉ!」


 ついには流が毅山の首を思い切り両手で握り、ぐわんぐわんとその頭を振った。

 あ、あかん、さすがにそれは危ない! 毅山が白目向いて今にも気を失いそうになってる!!

 

「ふっ。毅山よ、よくやった。これでいい。これでいいのだ」


 しかし、慌てて皆が流を止めようとする中、範村は微動だにせず、ただ満足げな口調で言葉を紡いだ。

 

「おじさまもこんな時にバカボンのパパの真似なんかしてふざけないで!」

「海空和尚よ、久しぶりだな。だが、あなたは大きな勘違いをしておる」


 言うまでもないが、範村はそんなモノマネなんかしていない。だからきっと睨み返す流を無視して、代わりに海空に話しかけた。

 

「勘違い、とはどういう意味でしょうか?」

「言うまでもない。あの筆勝負の決着よ」

「それでは説明になっておりませんよ、範村さん。あれは範村さんが勝ち、巌さんが負けだったではありませんか」

「それは巌が勝手に『私の負けだ』と言ったからであろう。だがな海空和尚、私の見立てでは負けたのは私の方だったのだ」


 明かされる衝撃的な真実。そして範村は静かに語り始めた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る