第15話 歪んだ笑顔

 剛厳との死闘を終えた三日後。


「よくぞ生きて戻ったな、毅山よ。長旅だったが元気そうでなによりだ」


 四年前、大日本書道倶楽部の追放を命じられた時と同じ居間で、毅山は父・範村と対峙していた。

 飛び出してから決して短くない時間が流れたにもかかわらず、家は何ひとつ変わっていない。部屋も、庭も、記憶の中と同じく掃除が隅々まで行き届いている。ただ、

 

「あ、ああ。ありがとう。親父は……やはり少しやつれたな」


 父の範村の姿だけが、かつての姿と異なっていた。

 

 二年ほど前から病で床に臥せているのは、毅山も旅の中で耳にしていた。

 一度戻ろうかと思ったものの、自分は倶楽部を追放され、流れ筆となるよう厳命された身。よほどのことがない限り戻れないと自分に言い聞かせてきた。


 それでも剛厳が語った話を詳しく聞くべく、実家に戻ってきた毅山。

 その胸中はただでさえ複雑だったが、範村の姿を見てさらに混乱を極めた。

 口では「少し」と言ったが、本当はショックを受けるほどの変わりようだったからだ。


 そもそもかつての父ならば、いまだ死ぬことなく戻ってきた毅山を問答無用で叱りつけてきたことであろう。

 ましてや体調を慮る言葉など絶対にかけない。

 やはり病気で心身ともに弱っているのだろうか。

 

 病状について詳しいことは何も知らない。ただ、かつては大日本書道倶楽部の運営方針について世尊院成之とバチバチ激しくやりあっていたというのに、今では半ば引退したような形で家に閉じこもっているのだから、相当な重症であってもおかしくない。

 

 果たしてそのような父に、帰ってくる道中ずっと考えていたことを問いただしていいものかどうか。

 毅山が挨拶から先の二の句がなかなか繋げずにいると――。

 

「少し昔話をしよう」


 代わりに範村が静かに話し始めた。

 

 

 

 

 幼き頃から範村は書道の天才であった。

 どんな大家の名作であっても臨書すれば一瞬にして自分のものとし、その技術力で同世代はおろか、師にあたる年齢の書道家たちも圧倒し続けた。

 気が付けば範村に対抗できるのは、大日本書道倶楽部を立ち上げた名門・世尊院の血を引く成之だけ。それでも大きな展覧会のほとんどで範村に軍配があがった。

 

「あの頃の私は書道に飽きつつ、いや、おそらくは生きることすら億劫に感じていたのかもしれない。だからあいつ――竹下巌には救われたよ」


 その登場は突然だった。

 今年も範村の大賞受賞が確実と目されていた大日本書道展で、無名の新人が大賞を掻っ攫ったのだ。

 それが竹下巌であった。

 

「初めて竹下の書を見た時、魂が震えた。このような書をえがける者がこの時代にいたとは……いてくれたとは、と。私は負けたのに嬉しくてたまらなかった。それから彼を倒すのが私の生き甲斐となった」


 竹下巌を越えるべく、範村はそれまでしたことがない努力という概念を身に付けた。

 無我夢中で筆を振るい、時には考え、時には悩み、かつての範村からは信じられないほど遅い歩みではあるが、少しずつ確実に自分の書を高めていった。

 

 それは決して楽な道のりではない。

 が、範村は楽しかった。書道を始めたこれまでの間で、一番充実した時期だったと言ってもいいだろう。


 書道展の結果はひたすら負け続け、世間からは竹下の方が範村より三割上手いと言われたが、そんなのはどうでもよかった。ただただ竹下のおかげで書道が楽しくなった。竹下には感謝しかなかった。

 

「だが、竹下はどうだったのだろうか、と最近よく考える。かつて私がそうであったように、彼もまた勝ち続けることに飽きていたのかもしれない」


 だからこそ、竹下は新たなるライバルの育成に固執した。

 書道をもっと世間一般に広めようと、子供の頃から手軽に触れられるよう推し進める大日本書道倶楽部理事の世尊院成之に対し、竹下は書道のエリートを育てるべく『書道十年修行』を訴えた。

 

 その頃には現代三筆との称号も与えられた三人であったが、名門の出である成之と違って、範村と竹下はただの一会員に過ぎない。

 加えて世間はどんどん豊かになっていく時代。竹下の前時代的な修行が認められるわけもなかった。

 

「が、よもや竹下が大日本書道倶楽部を脱会するとは思ってもいなかった。そしてその脱会で初めて私は流れ筆の存在を知ったのだ。世間には倶楽部に属さず、命賭けの筆勝負を行う書道家たちがいると、な」


 竹下はもはや己を熱く燃え上がらせる人材が大日本書道倶楽部から出てこないと見切りを付け、自ら野に下って強敵を探し求める旅へ出た。

 それは範村にも魅力的な提案に思えた。自分も竹下同様、流れ筆となって己の力を試してみるべきではないか。何日も何日も、ひたすら考えるようになった。

 

「だが妻のお腹の中には既にお前がいた。そんな妻と息子を置いて無謀な旅に出るなど出来はずがない。妻がお前を産んで死んだ時、成之にお前を託すことも考えた。が、彼は彼で竹下の離脱を自分のせいだとずっと心を痛めていた。そのうえ自分まで竹下の後を追ったら、生真面目な彼は立ち直れなかっただろう」


 だから範村は流れ筆になる夢を諦めた。

 竹下は出て行ったが、いつかまた戻ってくるかもしれない。

 その時を信じて範村はひたすら己の腕を磨いた。

 

「そしてお前が三歳の誕生日を迎える数日前のことだ。私のもとに竹下が病で倒れたという便りが届いた。癌だったそうだ。もう長くないと聞いた私は、気が付けば竹下のもとへと駆け付けていた」


 竹下巌に勝つ為だけに、範村は長年筆を持ち続けてきた。

 その竹下が死ぬ。もう二度と戦えない。このままでは永遠に勝つことも出来なくなってしまう――。

 

「そう考えた私は、卑怯にも病床の竹下に筆勝負を挑んだのだ。毅山よ、嗤うといい。お前の父は己が欲望のために、病に蝕まれた友をこの手にかけたのだ」





 剛厳に聞かされていたから覚悟はしていた。

 が、本人の口から聞かされて再び動揺してしまうのは、やはり出来ればウソであってほしいと願っていたからだろう。

 ぎゅっと握りしめる手のひらが異常に汗ばむ。気を抜けば体がぐにゃりと形を保てなくなるぐらい、中心が定まらない。

 

「……それが原因か?」


 それでもここに覚悟してやって来た心までもが揺らぎそうになるのを懸命に我慢し、毅山は父・範村に問う。

 

「竹下巌との対戦が親父を変えてしまったのかっ!?」


 かつての範村は穏やかな性格であったと木曽東波きそ・とうばは言っていた。

 それは今、範村が語った内容とも一致している。

 が、毅山の知っている父・範村はそのような人物ではなかった。

 たとえ幼子であろうと、書道において粗相をすれば容赦なく叱責する。厳格を絵にかいたような人物である。木曽が持っていた写真に写る穏やかな笑顔の範村など、いまだによく似た他人なのではないかと疑っているほど父の笑顔なんて見た記憶がない。

 

 それでも毅山は父を尊敬していた。

 どんなに厳しくても、父の激しく、それでいて人間味溢れる書は毅山の心を強く惹きつけた。憧れだった。こんな書を自分も書きたいと思った。だから厳しい十年修行にも耐えられたのだ。

 なのにその父が竹下との戦いで狂ってしまっていたとしたら……。

 

「ふっ。その通りだ、毅山。私はあの男と戦い、その全てを奪った。だが、実際は逆に私が飲み込まれたのかもしれない。竹下巌の生き方、そして命を賭けた筆勝負の魅力に」


 そう語る範村の瞳に不気味な炎が灯るのを毅山は見た。

 剛厳と同じ、いや、それ以上に禍々しく蠢く、まさに呪われた炎だ。

 

「私は知ってしまった。竹下がよく言っていた『書とは死ぬことと見つけたり』の意味を。毅山、幾多の筆勝負を経験してきた今のお前なら分かるであろう?」

「……死を意識した時、俺たちは最高の書を生み出すことが出来る」

「そうだ。その通りだ、毅山。私は竹下との戦いの中で生まれて初めて死を意識した。その瞬間、自分でも知らなかった本当の私の書に辿り着くことができたのだよ」


 恍惚とした表情を浮かべる範村。

 その気持ちは毅山にも分かる。米田草市との臨書対決、そして剛厳との死闘で毅山もまたその境地を味わった。書道家にとって、それまでの自分を越える作品を書き上げる以上の喜びはない。


「もっと。もっとこんな勝負をしてみたい。私はそう思った。でもな毅山、その時の世間には残念ながら竹下ほどの強敵はもういなかったのだ。成之も一流の書道家だが、倶楽部を背負う彼では私と戦ってはくれまい。だから」


 範村が表情を崩した。

 笑顔だ。

 ただし。

 

「私は、私と戦わせるために、お前と剛厳を育てたのだよ」

 

 見たこともない、見たくもない、尊敬する父の狂気に歪んだ笑顔だった。

 

「剛厳は私を父の仇として憎んでいた。だから奴を育てるのは簡単だった。私を倒してみせろと煽るだけでよかった。だが毅山、お前はそうはいかなかった。修行を始めさせた頃のお前は泣いてばかりで大変だったよ。果たしてこの脆弱な子が私のライバルになれるか甚だ疑問だった」

「…………」

「だが、お前は苦しい修行に耐えた。才能もまた私のを見事に引き継いだ。そして毅山よ、お前に大日本書道倶楽部の追放を言い渡した時の事件を覚えているか?」

「……もちろんだ」

「であるなら、お前が私の作品に墨をこぼした時の、私の気持ちは分かるかね?」

「あんな信じられないミスをしてしまい、親父を失望させてすまなかったと思ってるさ」

「失望? ははは、逆だよ、毅山。私はね、あの時ほどお前の成長を喜んだことはない。他人の作品に墨をこぼす。それは確かに許されざる重罪だ。だが、お前はこぼさずにはいられなかったのだろう? ああ、あの作品は駄作だった。私の名に価値を見る者ならば騙し通せるだろうが、しかるべき人間が見ればそうと分かる酷い作品だった」


 範村の告白に毅山は驚いて目を見開いた。

 そう、毅山はうっかり墨をこぼしたのではない。あの時の範村の作品はあまりに酷かった。こんなものを世に出したら、父の名が落ちてしまう。だから父の名誉のために、あえて墨をこぼして作品を台無しにしたのだ。

 

 その結果、自分が重い責任を取らされることは分かっていた。それでも尊敬する父が、おそらくは体調不良かなにかでこのような駄作を生み出してしまい、名を落とすことを黙って見ているわけにはいかなかった。

 

 この真実を毅山は誰にも話していない。話すつもりもなかった。

 自己犠牲愛に溺れるつもりもない。ただ、子として当たり前のことをしただけだと、ずっと思っていた。

 が。

 

「あれはお前を試していたのだ。お前が真に書道を知る者に育ったか。そしてこの父と戦うに相応しい人間になれるかどうか。喜べ、毅山。お前は父の試験に合格した。さらに私の目に狂いはなかった。流れ筆になり、数々の筆勝負に勝ち続け、剛厳を倒したことにより、ついにお前は辿り着いたのだよ」


 思いもよらぬ真実を告げられて動揺する毅山を、範村は狂気を孕んだ瞳で見つめて告げる。

 

「私と命を賭けて戦うに相応しい書道家に、な」

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